閻羅人とジンツウ
――さて、愛宕摩耶にも訊ねられたが、何故地獄に行くかというのは頼人も常々考えていたことだ。
曰く平家物語では、平清盛の妻である平時子が、地獄に行った夢を見たという。
時子の夫清盛が、東大寺の廬遮那仏を焼いたゆえ、地獄の使者が清盛を無間の地獄に落とすため、無間と書いた札を作っている最中にある、というものだ。仏教の教えを蔑ろにする者や、仏教自体を迫害しようとする仏敵に対する戒めである。
罪を犯した人間以外は、それらのことをした者が地獄に送られるというが、当時の頼人は犯罪も、仏罰の落ちるようなこともしていない。ゆえに、地獄に落ちる理由はないはずなのだ。
それさえ判れば、回避することも可能だとは思えるが……。
目が覚めると、頼人の目の前には赤い世界が広がっていた。
病院から帰り、晩御飯を食べ、風呂に入り、床に就いたところまでは覚えている。ということはこの日の睡眠で頼人が向かった場所は、夢の世界ではなく、地獄の世界だったということだ。
地獄の空を仰ぎながら、焼き菓子を思わせるほど脆く砕けやすい骨を踏み、前に進んで行く。
地獄で頼人に行く当てはなかった。もとよりここには心休まる場所など一つとしてないのだ。向かう場所がないゆえ、ただいつも彷徨い歩いては、常に襲い掛かってくる脅威から逃げるのみなのである。
そして時折、前にも後ろにも退けなくなった時に、その脅威に対し抵抗する。それを繰り返すだけのここでの生活。どこまで行けば助かるとか、どうすれば安全に過ごせるとか、そういった概念は当然のようにない。
八歳の頃から続けていれば、多少は慣れるものだ。始まる場所は毎度変わるが、どこに何があって、どこどこに行くと危ないなどは、感覚的に分かる。始まる場所が危険な場所でなければの話だが。
それ以外の脅威といえば、地獄を歩き回る閻羅人だろう。罪人や欲に塗れた者のなれの果てである餓鬼をいたぶる怪物で、頼人にも襲い掛かってくる。
しかも、その動きは普通の罪人や餓鬼の比ではない。奴らは尋常ならざる速度と膂力を以て、罪人や餓鬼たちと同じように頼人を潰しに来るのだ。逃げ道を誤れば死を覚悟しなければならない。
そして、今日の地獄がまさにそれだった。気が付けば、後ろから低いうなり声。振り向くとそこには、二メートルを超える怪物が立っていた。
彼らとの間に問答を挟める余地はない。見つかれば、すぐに殺しにかかってくる。だが、頼人も死にたくはない。
「そう簡単に殺されてたまるか……」
口に出した抵抗の意思は、しかし焦りに塗れていた。
背後から追って来る閻羅人に追いつかれまいと、必死で走る。頼人にはそれしかないのだ。地獄でするのは、いつも命がけの鬼ごっこなのである。
だが、地獄には走りやすい平坦な道はない。しゃれこうべの地面や、あらゆる場所に出現する断崖絶壁はもちろんのこと、剣の木が生い茂る山に、鉄と銅が赤く煮え滾った池、落ちれば這い上がることも難しい血液の川が、そこら中にあるのだ。
そんな鬼ごっこなど、生きた心地などしない。それでも頼人はいつも、この世界を走ってきた。ただ死にたくないから。死ぬような痛みを受け入れたくないから。
だから自然と、頼人の脚力は閻羅人どもに追いつかれないくらいには早くなり、崖から落ちてもすぐには死なないくらい頑丈になって、血の川に浸かっても溺れないくらいには適応できるようにはなっている。鬼ごっこが長いこと続いても、へばらない自信もあった。
だが、それもつらいことには変わりない。
「くそ……」
波打つようなしゃれこうべの丘を抜け、駆けあがった先にあったのは断崖絶壁だった。
左右を見回す。崖はどちらも地平の彼方まで続いていた。
振り向く。背後にはもう閻羅人が迫ってきている。閻羅人が手に持っているのは、細長い金砕棒ともう二つ、煮え滾った銅の入った金属の桶とそれを酌むための金属の柄杓だ。捕まれば、どろどろになったその灼熱を口から流し入れられるのである。
それは地獄の中でも最もきつい責め苦の一つだ。焼かれるのは喉や腹の中だけにはとどまらず、身体の中全てが焼き尽くされるまで続く。
それは避けなければならない。一度はアレを体験した身ではあるが、次あの責めを受ければ今度こそ気が狂ってしまうだろう。だから道を探す。なくても探す。
やがて頼人は希望を見つけた。
だが見つけた希望は、一本の細い綱だった。希望として確かに一縷とは、皮肉が利いているものである。
不思議と、自分でも良くわからない笑いが込み上げてくる。目下の一筋は、綱渡りの綱よりもまだ細い。踏み外せば落ちるなどの次元ではない。足の置き所が悪いだけで落下は免れないだろう。
そこで、頼人は気付いた。
――しまった。
顧みると、閻羅人の火晴(かせい)が、不気味に揺らいでいる。
「地獄の綱渡しかよ……」
それは、閻羅人が餓鬼を散々に追い立てて、崖と崖に結ぶ一本の細い綱を渡ることを強要する責めである。閻羅人に追いかけまわされ、ボロボロになった餓鬼はやっとここまでたどり着くが、最後、この綱を渡りきることはできないで終わるのだ。まさに無理ゲーというやつである。全てが刃の敷き詰められた谷底へと落下するのだから。
頼人は心の中で悪態をつく。逃げていたつもりが、知らないうちに閻羅人に追い込まれてしまっていたらしい。
後ろからどす、どすという重そうな疾駆の音と、金砕棒を打ち鳴らす音が聞こえてくる。
もはや猶予はない。頼人は躊躇なく、綱に足を掛けた。
そう、これまでこの地獄で、どうにもならない状況などいくらでもあったことだ。そんな助かる見込みが万分の一もない分水嶺で躊躇した時はいつも、地獄に蔓延る脅威によって殺されている。ここを渡らなければ死は免れられないというのなら、いま踏み出すよりほかはない。
生きる。いや、負けぬという心を胸に抱いて。
たとえ地獄の風に吹かれて蘇るのだとしても、こうして死に抗うのはひとえに意地だ。
生きることを諦めたら、本当に自分は生に対する執着を失ってしまう。そんな気がしてならないから。
諦めるのは駄目だった。いままで、幾度も「殺されるという堪えがたい苦しみ」を受けてなお生き抜いてきたのは、自分がこの地獄に来てしまうということの理由を、原因を、知りたいがためだ。せめて何故自分がこんな目に遭うのかだけでも知るまでは――いや、もう一つ。そう、「あの男」に一矢報いるまでは、死にきれない。
そんな決意を胸に抱きながら、裸足で綱をつかむようにして身を預け、覚束ないその一筋を伝う。そっと。静かに。
火が燃え盛る音も、餓鬼どものうめき声も、閻羅人の怒号もいまは全て此岸の向こう側にある。そして、たどり着かねばならぬ彼岸は自分がこれから向かう先にあり、ただ足元のこの一本の綱だけが、いまの自分の置かれた唯一の世界なのだ。
ふいに滑りそうになった場面もあったが、やがて頼人は、限りない集中の中、崖から崖へ渡りきった。
「はぁっ……はぁ……」
盤石な地面に降り立って、しゃれこうべに両手をついてのち、落ちた時のイメージが怒涛のように頭の中に押し寄せてくる。身体中からぶわっと噴き出る汗。今更ながら、生きた心地がしなかった。
だが、これでもう追い付かれることはないはずだ。閻羅人の身体は、二メートルはあろうかという巨躯。あの細い渡しを伝って来ることはまず不可能だろうし、この綱渡しの場において閻羅人の役目というのは罪人や餓鬼どもを追い立てるのに過ぎないのだから、ここまで来ることはない。
「ごぉおおおおおおお……」
閻羅人は対面の崖で低く呻いている。追い立てた相手が落ちなかったことで、悔しがっているのかは杳として知れぬ声だが、そんなものこちらの知ったことではない。
だが、頼人が閻羅人を一瞥もせずに、また歩き出そうとしたその時だった。
ぞく――と、冷え切った女の手が背筋を撫でた。
辺りがにわかに、ざわつきはじめる。
かたかたと地を埋め尽くすしゃれこうべが笑い出し、生温かい風が嫋々と琵琶の音を奏でている。
そして背後、向こう側から聞こえるのは閻羅人の不気味な唸り声。
頼人は、振り向いた。
「ジンツウだと……? ここで使ってどうするつもりだよ……」
後ろにいる閻羅人の巨躯が、青白く仄めいている。
――ジンツウ。あの男がそう呼ぶ、超能力にも似た力だ。ひとたび念じれば神に通じ、使う者のあらゆる望みを叶えるという、厄介極まりない力である。
吹きすさぶざわめきが凪ぎ、しゃれこうべがピタリと黙り込んだと同時に、閻羅人が膝を曲げた。
何故ここで使うのかなど、そんなものは愚問である。
飛ぶ。そうわかった途端、閻羅人の足元にあるしゃれこうべが爆裂した。
やがて、稲妻の如き落下音が地面を震わせる。周囲を席巻したカルシウム質の粉塵が晴れると、そこには閻羅人が当然のように立っていた。
「ぐぉおおおおおおおおお!!」
「マジかよ……」
閻羅人の咆哮に、頼人は顔を青くしながら再びしゃれこうべの丘を走り出したのだった。