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蒼い髪の女医


 繁華街の一角にある、うらびれたビルに入った頼人は、階段を上ってとある階の扉の前に立った。すりガラスに、伯耆(ほうき)心療内科と白文字で書かれてある。


 ここが頼人が通う心療内科だ。

 頼人は受付で手続きをしたあと、待合のソファに座る。どうやら他に患者はいないらしい。仕事で疲れたサラリーマンも、うつ病になった主婦も、気分障害を起こしてやや肥満気味になった中年男性も、今日は診察の日ではないのか。それともこの心療内科を卒業したか。



 わけもなく時計を眺めていると、間もなく呼ばれた。



「失礼します」


「こんにちは、頼人君」



 部屋に入ると、そんな艶を帯びた挨拶が返される。丸椅子に座りデスクに就くのは、この伯耆心療内科に所属する精神科医の一人、愛宕摩耶(あたごまや)だ。光の加減で蒼色に輝く髪、健康そうな血色のいい肌を持った魅力的な女性であり、頼人の主治医でもある。

 頼人の元々の担当医はのんびりとした老医だったのだが、一年ほど前に体調不良を理由に辞めてしまったため、彼女に変わったのだ。



「一週間ぶりね。頼人君に会えるのを楽しみにしてたわ」


「俺も楽しみにしてました」


「嘘つきね、頼人君は。そんな雰囲気欠片もないわよ」


「それはそうです。誰も好き好んで精神科になんかかかりたくはありませんよ」


「そう? 健康な人でも結構来るけど?」


「……それ、男の人ばっかりでしょ」


「ええ。みんな面白いくらい鼻の下を伸ばしてるわね」



 こう、と摩耶は自らそのだらしない顔とやらを作って見せる。この才媛な女医は、自分の美しさを正しく理解しているのだ。そうしてこの病院に男を引き込んでは金を払わ(みつが)せ、上手くあしらっている。



 彼女が来てからは、患者の数が増えたらしい。

 摩耶はデスクの上にあった資料を取る。



「最近、学校の方はどう?」


「いつもと同じですよ。学校へ行って、授業を受けて、ここに来た」


「でも、今日は変わったことあったでしょ」


「いいえ」



 頼人がそう言うと、摩耶はまるで猫のように鼻をひくつかせて、ぐいと顔を近づけてくる。



「ほんとうに? 頼人くんの身体から女の子の匂いがするけど?」


「お、女の?」



 彼女に倣い、頼人もくんくんと自分を嗅ぐが、しかしいつもの自分の体臭しか感じられなかった。

 摩耶はこれ見よがしにして、自分の鼻を指さす。



「女はね、鼻が良いのよ。浮気したらすぐにばれるんだから」


「俺は先生の旦那ですか」


「あら、いや?」


「そ、そうじゃないですが……」


「うふふ、困ってる困ってる」


「先生、俺で遊ばないで下さいよ」


「あら、私、頼人くんには本気だって言ったら?」


「はいはい。悪女悪女」



 頼人はそう言って、近づいてくる摩耶の肩を両手で押す。すると摩耶は、「こんないい女を悪女なんてこき下ろすなんて」と、ご立腹の様子を顔に表した。



「でもほんとに、今日は女の子が近くにいたんじゃない?」


「そうですね。転校生が俺の隣にきたくらいですよ」


「可愛かった?」


「ええ。すごく」


「じゃあ恋愛に発展するかも?」


「しませんよ」



 むっつりとそう返すと、摩耶は困った子供を見るかのように、「私、怒ってます」という顔をして、



「ダメよ。その歳でそんな厭世的になってちゃ」


「……そういう否定的な言葉、精神科の先生が使ったらそれこそ駄目なんじゃないんですか?」


「そうね」



 一転、摩耶はくすくすと笑って頼人の言葉を認めた。基本的に精神科医やカウンセラーは患者の言葉をよく聞いて治療にあたる立場にあるため、患者を無暗に否定する言葉を使ってはいけない。それを躊躇なく使うのは、どうなのかと思うのだが――



 ため息を吐いて顔を上げると、いつの間にか摩耶は立ち上がっていた。



「そろそろ世間話の方も終わりにしましょうか。今日は……そうね。なにかお話ししてもらおうかしら」



 摩耶はにっこりと笑って、奥にあるベッドへ頼人を促す。頼人もそれに素直に応じ、いつものように仰向けで寝そべり、腹部に両手を重ねてゆっくりと目を瞑った。


「今日は何をお話ししましょうか?」


「頼人君が話したいことが聞きたいの」


「特にこれと言ったことはありませんが」


「ないの……じゃあ今日は久しぶりにあなたの言う地獄に行き始めた時のことから話してもらおうかしら?」


「……またですか、そんな何度も同じこと聞いてなんか意味あるんですか?」


「あら、あるわよ。何度も思い出すことによって、その夢を見始めた原因が見えてくるのよ」


「それ、意味ないこと(・・・・・・)だって分かってるんでしょう?」


「さあ、それはどうなのかしらね。もしかしたら、あなたが嘘をついてるって可能性も否定できないし」


「…………また言った」


「そうね。私はダメな精神科医ね」



 そう言ってまたくすくすと笑いだす。この女医は一体何を考えてるのか。いままでそれがわかったことは頼人にはない。



「……俺が地獄に行き始めたのは、そうですね小学三年生の春頃くらいでしたか」


「八歳の頃って、はっきり覚えてるわね」


「衝撃的でしたから」



 そう、あれは衝撃的だった。熱や血の臭いを感じられる生々しい場で、文字通り死ぬほどの痛みを与えられたのだ。頭の中に焼きついて、忘れたくても忘れられない。



 薄目を開けて摩耶を窺うと、にこにことした笑顔をしている。


「じゃあその頃あなたに何があったか、覚えてる?」


「抽象的ですね」


「いつも答えてくれているように話してくれていいわ」


「特に何かあったと言えば、その頃は習いごとを始めたばかりでしたね。塾はもちろんですが、スポーツ、武道といったところです。カウンセリングを受けるようになって全て行かなくなりましたが」


「習いごと、嫌いじゃなかった?」


「いいえ。楽しかったですよ」



 習い事については、楽しいと思うことはあれ、嫌だと思ったことはない。その頃はいろいろなものに触れることが楽しかったと記憶している。始めたばかりだったということはあるが嫌な記憶もない。



「そうなんだ」



 摩耶はというと、目を細めて何かを思案しているようであった。習いごとの辛さを、地獄という見えないものに置き換えたと考えたのかもしれない。神経症の中には、普段恐怖を感じないものに恐怖を感じる患者もいるのだ。



 ――フロイトの論文の中に、ハンスという少年の症例を報告した例がある。当時五歳であったハンス少年は、「馬」が恐怖の対象であり、「馬に噛まれる」と言って恐れを抱き、街を歩くことすら困難だったそうだ。

 恐怖の置き換えというものは得てして複雑である。これはハンス少年の母親に対する大きな愛情が、父親を憎む心に変わり、その心が父親を敵と変え、敵意を抱いた自分に父親が「怒る」「暴力の対象になる」といった無意識の想像が根底にあると考えられる。父親にしかし、父の存在はハンス少年にとっても大事なものである。父を愛する彼にとって、父は嫌いな人物にではないため、「恐怖の対象となり得ない」という自我の観念から、代わりに馬という未だ見たことのない生物に恐怖するというものになったというわけだ。



 おそらく摩耶は、このハンス少年の症例を、「地獄に行くこと」と「馬に噛まれること」「始めたばかりの習い事へのストレス」と「父親への無意識の恐怖」を照らし合わせたのだろうと思われる。



 しかし、楽しかったという言葉が出たため、この可能性は否定されたが。



「私から質問するけど、地獄へはかなりの確率で行ってたの?」


「一週間に三、四回ってところですかね」


「怖かった?」


「それは……一時期あれで頭がおかしくなったほどでしたから」


 と、聞かれていないことまで付け加えておく。精神科医にとっては頭がおかしくなったから地獄にいくなどとのたまっているのだと思われているだろうが、そこは頼人としては譲れないところだった。


 頼人が言うと、摩耶は質問を変えてくる。



「頼人くんはどうして地獄に行くと思う?」


「心当たりですか? ありませんね。その頃なら別に悪いこともしてないし、それが置き換わったものでもありませんよ?」



 これも先ほどの恐怖の置き換わりと同じものだ。悪いことをした人間が持つ、発覚を恐れる心が、無意識に置き換わったという考えである。



「私の考えてること先に言わないの」


「すいません」



 人差し指を出して「めっ!」っと言う摩耶に、頼人は適当に謝罪しておく。

 ……このあと何度か彼女から質問があり、それが終わったあと、頼人はベッドから起き上がって、もといた診察室の椅子に戻った。



 気が付くと、摩耶は手に採血管を持っていた。

 頼人の顔が、ぐにゃりと歪む。



「また採血ですか」


「あら、嫌?」


「血を抜かれると一日中怠くなるんですよ」


「大丈夫。今日なんてあと少ししかないから」


「そういう問題じゃないでしょ」



「じゃあまともな答え。血の状態で、いろいろなことがわかるから。こうやって定期的に採血するのよ。外因が心に影響を及ぼしている可能性もないわけじゃないから」



 確かにそうかもしれないが、来院時、必ず採血するのはやりすぎだとは思う。



「終わったら俺、今日はもう帰りますから」


「わかった。じゃあ腕を出してね」



 天使のような笑顔を向けてくる女医が、この時だけは悪魔に見える。





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