決断の朝食
邸宅の大きな食堂では、すでに亜早紀と保乃が席に着いて待っていた。
頼人もすぐに食事が用意された席に着く。朝食は館の洋風な外観に似合わず、和食だった。
ご飯も味噌汁も出来立てらしく、食欲をそそる香りと共に湯気を立てている。
ふと食事の最中、保乃が声をかけてきた。
「おい、水下」
「はい」
来たか。そう思って返事をすると案の定、保乃は鋭い視線を向けてくる。
「もし答えが出ているなら、昨日の返事を聞きたい。どうだ?」
「俺は……」
言いかけて、少しだけ考える。用意していた答えを口にすれば、危険に飛び込むことになる。自分には何かをしなければならない理由はないし、命を懸ける義務もない。ゆえにここで了承の意を示せば、ただ流されるまま彼女たちに協力するという状況になるのだ。
果たしてそれで、本当にいいのだろうか。
「…………」
断っても逃げではない。だが、これを断ればイブキから逃げたような気がするのも、また事実だった。
だから、
「平井さん。協力します」
「ほう」
保乃の口から漏れる感心めいた声。それに次いで、亜早紀が真剣な表情で訊ねてくる。
「水下くん。本気なの?」
「ああ、決めたんだ。俺は平井さんや坂村に協力するよ」
「危ないわよ。冗談じゃなく。確実に昨日みたいなことになるし、昨日以上のことに巻き込まれるかも」
「俺なりに弁えているつもりだ」
「……わかった。もう何も言わないわ」
意外にも、亜早紀はあっけなく了承の意を示した。昨日保乃に食って掛かったあの勢いを見た身としては、もっと食い下がるかとも思われたが、やはり内心賛成ではあったのだろう。
亜早紀の話が終わったのを見計らって、保乃が目を怪訝そうに細めて訊ねてくる。
「水下。ちなみに訊くが、何故やる気になった?」
「なんとなく、やらなければいけないような気がしたんです。何かしなければいけないんじゃないかって」
それは無論うそっぱちだ。だが、イブキのことを説明するのもどうかと思う。ゆえに、答えは曖昧なものにするよりほかなかった。
当然と言えば当然か、保乃は得心のいっていなさそうな顔を見せる。
「……それは危険に首を突っ込むような理由じゃないな」
「では、囮役の話はなしということになるでしょうか?」
そう、理由が受け入れられなけば、やらせないということは十分にあり得た。
だが、保乃は頭を振って、
「いいや。やる気があるならやってもらうさ。お前が納得した理由がなんにせよ、私たちに都合がいいことには変わりないからな」
そう言って、保乃は亜早紀の方に向き直る。
「亜早紀? お前も随分すんなり退いたな」
「この件については水下くんも考えたでしょうし、それで出た答えなら、これ以上私が何を言っても無駄です。それに、囮をしてくれた方がいまだ姿を現していない鬼を見つけやすいのは確かですから」
そうむっつりと口にすると、保乃は笑みを浮かべ、
「お前も大概だな」
「目的のためです。それに、もしものときには私がいますし」
「水下を守りながら戦えるか?」
保乃が挑むような視線を向けると、亜早紀はそれに不敵な笑みをもって答えた。
「私を誰だと?」
「ははは、相変わらず頼もしいな大将軍殿は」
「む――」
保乃の物言いが気に食わなかったか。亜早紀はぷいっと顔を背け、不機嫌をあらわにした。大森某の時もそうだったが、彼女は大将軍と言われるのがあまり好きではないらしい。
そんな彼女が不意に、頼人の方を向く。
「でも――」
「?」
「私、あなたに無理はさせないから。そこは頭に入れておいて。良いわね。わかったら返事」
「あ、ああ」
念押す彼女の剣幕に圧され、頼人は戸惑いつつも頷く。彼女の顔は真剣そのものだった。物言いは有無を言わせないようなものであったが、まるで頼み込むような雰囲気があり、頼人を傷つけたくないという思いが確かにそこにはあった。
頷いた頼人を見て、亜早紀は彼女らしい明るい笑顔を見せる。
「うん。いいわ。一応合格」
「それなら、なによりだ」
話はまとまったらしい。すると、いつのまにか優しげな視線を送ってきていた保乃が、
「水下。囮役をやってもらうにあたって、お前に渡すものがある」
「……? 俺にですか?」
「そうだ」
頷いた保乃はパンパンと手を叩く。すると食堂の隅に控えていた使用人が、紫の包みを手にして頼人の隣に立った。
使用人が会釈をするように屈み、紫色の包みを差し出してくる。
「水下様、これを」
「これは?」
「お開けになって下さいませ」
使用人の勧めに応じ、頼人は結び目をほどいて紫色の包みの中身を改める。
そこには、よく時代劇などで見る日本刀の本差よりも短い刀があった。
これも地獄で見たことがある。長さ如何にかかわらず、正確な名称は曖昧な部分があるが――
「脇差、ですか」
「そうだ。護身用に持っていろ」
囮役に際し、必要になると考えたのだろう。だが、刃物を渡してやたらしれっとした態度の保乃に、頼人は当惑の表情を向ける。
「持ってろって、これ銃刀法違反になるんじゃ……」
「大丈夫だ。登録証明書も用意してある。もしも警察に訊かれた場合は稽古で使うとでも言って置け。それでもだめだった時は私に連絡しろ、警察にもコネがあるぞ。なんせ国絡みだからな」
そう不敵に言って、笑う保乃。豪気なことだが、やはり持ち歩くには不安な部分はある。だが、確かに鬼と相対するにあたって必要になるものには違いなかった。
「……では、ありがたく」
頼人は使用人から、包みごと脇差を受け取った。
そして一度テーブルの上に抜き、脇差だけを取って、抜き放つ。鯉口と鎺を離すときのわずかな抵抗のあと、手元にあらわになる白刃。
一介の高校生である頼人にとって、これが業物なのかそうでないのかは杳としては知れない。だが、鬼という銃火器の通用しない相手から身を守るために渡されたということは、いくらなんでもなまくらではないだろう。
鞘から刀身を引き抜き切って、軽く構える。そして、すっと息を吸い込み、この脇差の深奥を改めるように、目を瞑って集中した。
「え――?」
「む――?」
不意に聞こえたのは、亜早紀と保乃の驚きの声。彼女たちの驚きで成ったと悟った頼人は目を開けると、脇差の刀身に淡い燐光が灯っていた。光の色は、優しい緑色。剣精からして、護剣だろう。
頼人が刀身を眺めていると、亜早紀が驚きに囚われたまま声を発する。
「ちょっと水下くん! それ、剣精……」
「ああ、そうだな」
剣精。つまり剣に宿った、剣の精気とも言うべきものだ。文献の記述によると、古くは源義朝の代、名刀髭切に名を戻した際、剣に失われていた力が戻ったというものがある。剣の力は剣精を指すもので、古より刃には力が宿るとされてきた。
地獄で戦う頼人にもなじみ深く、イブキが錆びた大太刀に呼び起こしていたのもこれだ。
だが意外なことに、亜早紀が怪訝そうな視線を向けている。彼女も剣精のこと自体は知っているようだが――
「水下くん。あなた転生者……じゃないわよね?」
「あ、ああ。そんな覚えはないな」
「でも、それなのに剣精が呼応するなんてどうして――」
何か、変なのか。頼人が不思議に思いつつ、刀身を鞘に納めると、保乃がまた鋭い視線を向けてくる。
「水下。お前、どこぞの剣客か?」
「剣客って……別に凄腕の剣士になった覚えはありませんが……」
「それでそんなことができるのか?」
「剣精のことは、何か驚くようなことなので?」
未だ不思議そうな表情から抜け出せない頼人に対し、保乃はため息を吐く。
「……そうだな。私はさもこれが常識ですよみたいなツラして喋ってるお前の存在に驚きだよ。まったくなんなんだか」
「?」
首を傾ける頼人に、保乃は昨夜学校云々の話の時に見せた困惑と疲弊が同居したような表情を見せ、ぐりぐりと眉間を揉み始める。
そして、何かに諦めたような顔を見せ、
「わかった。お前はあれだ、とんでもなくめんどくさい変わり者ってことで納得しておこう。私たちの存在も常識では計れないが、お前も似たようなものだ」
「……なんかけなされてるような気がするんですが」
「悪い意味に捉えるのはお前の心が汚いからだ」
「ひどい」
亜早紀に返すような軽口を、頼人にも昨日の今日で返してくる保乃。ぶっきらぼうな口調もそうだが、口も結構悪いらしい。だがすぐにパンパンと両手を叩いて、表情を真面目なものに変化させた。
「まあいい。そんな与太は置いておこう。剣精というのは、剣に長く携わった者にしかわからないものだ。年長の刀鍛冶や真剣を長く扱った剣士、もしくは私たちのような剣と共にあった転生者だ」
「転生した人間、ですか?」
「そうだ。ということはだ水下。話は限られてくることになるだろう? お前が剣客でないなら、実家が刀鍛冶でやたら刃物と接触してる場合が考えられるが」
「親戚にもそう言った職業の方はいませんね」
ということは、残された問いは一つ。
「……水下、お前本当に前世の記憶はないんだな?」
「はい」
「なら、剣精を呼び起こせる心当たりは?」
「多少、あります。真剣を握ったことは何度かありますので」
「一介の高校生がか? 何かよからぬことでもしているんじゃないのかお前?」
「まさか。まあ多少変な奴という自覚はありますが、それだけです」
「…………」
頼人の言葉を聞き、保乃は黙ったまま目を細める。
剣精は、地獄めぐりの中でイブキと戦う内に、自然と覚えていたものだ。イブキと打ち合いができるようになったころ、イブキが使い始めた力の一つ。それを見て行くうちに、いつの間にか自分の握った剣の剣精も、応えてくれるようになっていたのだ。
保乃が黙ったままゆえ、会話劇が進まない。それを動かそうと頼人が試みるが、
「あの」
言いかけた頼人の言葉を遮って、保乃の声が通る。
声が向かったのは、亜早紀の方。
「亜早紀。今日は休みで予定もなかったな」
「はい。それが何か?」
「このあと水下の相手をしてやれ」
「相手って、それは立ち合いのことですか?」
亜早紀の問いに、保乃は首肯する。
「もしかしたら水下は戦力に数えられるかもしれない。いまのを見たなら、お前もそう思うだろう?」
意味ありげな笑みを浮かべる保乃の問いに、亜早紀は押し黙った。ふと静かになって何を思うか。目を瞑り金色の瞳を隠す彼女。
「…………」
「気が進まないか?」
「いえ、水下くんが囮役になるにあたって、私も彼の実力を見極めておきたいとは思っていました。ちょうどいい機会です」
熱意を感じられる語調の亜早紀に気圧されたのか保乃は。わずかに引き気味、ぎこちない調子になる。
「そ、そうか。存外やる気なんだな。だがそこまで相手になるかどうかは……」
「昨日水下くんは私の斬撃をかわしました。あれが偶然でないなら、相応の力量はあるように思います」
「ほう……」
亜早紀の言葉に、保乃の声が簡単を帯びる。興味心をくすぐられたというような調子だが、一方の頼人はとんとん拍子で進んでいく話について行けず、戸惑うばかり。
「あの……」
俺の意思は……と訊ねようとするが、亜早紀に機先を制される。
「そういうことになったから、水下くん」
「いやー、俺は囮役だけすればいいだけだからさ」
「そんなことないわ。必要よ。絶対」
「…………」
保乃の角度からは見えないが、亜早紀の表情は笑み混じりのあくどい顔になっている。まるで悪さを思い付いた猫のような表情。ぬっふっふーという声が聞こえんばかりの気味悪さがあった。
――いつか何かしらで負かしてあげるから覚悟しておきなさい。
随分前に彼女が言った言葉が思い起こされる。やはり、負けず嫌いで根に持つタイプらしい。
よくわからない内に、亜早紀と手合せすることになってしまった。