地獄より目覚めて
闇の中から、不意に少女の声が降ってくる。
「水下くん。水下くん? 起きてる?」
少女の声は、聞き覚えのあるもの。長い間耳にしていなかったように、懐かしくもある。
「水下くん!」
「え、あ……」
頼人は耳元で放たれた大きな呼び声に反応し、軽く上半身を起こす。まだはっきりと冴えない頭のまま、辺りを見回すと、自分が寝ているベッドの隣に見覚えのある少女がいた。
「えっと……」
二度も地獄の宵が続き、しばらく見ていなかったゆえか、彼女の名前がすぐに出てこない。頭を振って、思考を朦朧とさせる頭の中の靄を振り払うと、やっと彼女の名前が蘇った。
この日は指定の制服でなく、白のブラウスに赤のタイ、黒のホットパンツ。黒のニーソックス。そんな私服をまとっていた少女の名は――
「……おはよう、坂村」
「おはよう水下くん。あなた、もしかして朝弱いの?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
小首を傾げ、可愛らしく訊ねてくる彼女に、のど元を手でさすりながら答える。そう言えば自宅ではなく、連れて来られた邸宅に泊まったのだなと思い出し、備え付けの時計を見れば、時刻はもう七時を過ぎていた。
七時を。
「やばい! 学校が!」
――遅刻する。気付いた途端その言葉が脳裏をよぎり、頼人はベッドの上で泡を食う。ベッドカバーに絡まった足をほどこうと、その場で悪戦苦闘。ばったんばったんと飛び跳ねる。だが、同じ学校に通う身であるはずの坂村亜早紀の顔を見ると、「何言ってんだコイツ?」というように目をパチクリとさせ――やがて思い切り噴き出した。
「ぷっ……あ、あははははははははっ! な、何言ってるのよ水下くん! 今日は土曜日よ! 学校なんてあるわけないじゃない!」
「……え? 土曜日?」
「そう。土曜日よ。お休みの日」
「あ……」
失念していた。確かにそうだ。寝る前は彼女の言う通り金曜日で、今日は部活動がない者にはフリーな一日だった。
「水下くん、やっぱり朝弱いんじゃない……もう、それならそれでちゃんと目覚ましかけなきゃ」
亜早紀は笑いを堪えつつ、そう忠告する。そう言えば頼人も、寝る前に目覚まし時計を賭けた覚えがなかった。立て込んでいたため、かけるのを完全に忘れていたのだ。
恥ずかしいところを見られてしまった頼人は、わざわざ起こしに来てくれた彼女にバツの悪そうに謝罪する。
「……すまん」
「いいわ。水下くんの面白いところ見れたし。く、ふふふ……出てくる準備ができたら、食堂に来て。朝ごはんだから」
「わかった。ありがとう」
未だ笑いの衝動から逃れられず、花咲いた笑顔を見せる亜早紀に、頼人は了承と謝意を口にする。すると亜早紀は機嫌のいいまま明るく手を振って、部屋から出て行った。
ドア越しに、遠ざかっていく足音が聞こえてくる。
部屋に残された頼人はカーテンを開け、窓の外に目を向ける。突き刺すような陽の光に目が慣れると、仰いだ先には抜けるような青空が広がってた。
可愛い女の子に起こされたうえ、気持ちのいい空。普通なら、爽やかな朝とでも言うべきところだが、
「気持ち悪い朝だよ」
当たり前だが、地獄から舞い戻った頼人の気分は爽快とは程遠い場所にあった。
そう、あのあと何度イブキと戦っただろうか。いや、戦ったというよりも殺されただろうかの方が正しいだろう。まだ心臓や頭、首に、イブキが振るった刃のあの冷たく容赦ない感覚が残っている。
昨日の今日だ。過ぎた時間はたった七時間ほど。だが、頼人にとってはその限りではない。昼夜の概念がない地獄でイブキと戦い、どれだけ戦い続けたのか。終わらないはずの殺戮は一週間以上続いたような気がしたが、時計を見る限りそれはいつものように体感だけ。
それでも、地獄にいる時間を通算すれば、間違いなく一生分はあるだろう。
首筋を撫でる。一瞬手のひらにべっとりとした血が見えたような気がしたが、やはりそれは錯覚だった。
「……あいつを倒せば、こんな生活ともおさらば出来るのか?」
そう独り言ちて、頭を振る。もしそうであったなら、成就への過程は過酷という言葉ですら生半なものとなるだろう。イブキはそれこそ一生勝てそうにも相手だ。本当に地獄から解放される条件がそれなら、死ぬまで地獄めぐりが続くことになるだろう。
根拠はないが、なんとなくそうなのだろうなと思いつつ、頼人は滅入った気分で着替え始める。
そして思い出す。食堂に行けば、保乃から昨日の答えを訊かれるのだろうか、と。
「…………」
ふと、頭の中にイブキに言われた言葉が蘇る。あの男の言われた通りにするのは随分と癪だが、自分の腹は、すでに決まっていた。