暗鬼、闇夜に出でては
採血を終え、病院を出たころには、空にはもう夜の帳がかかっていた。
空には星がちらほら煌めいているが、サーチライトめいたネオンサインに脅かされて、いまはそのなりをひそめている。繁華街を出て住宅街の方に行けばその印象も薄れるが、空を見上げれば当分は眩しい光に邪魔されたままだろう。
「遅くなったな。近道近道っと」
そう誰に言うわけでもなく口に出して、いつも通る建設中のビルの脇に向かって歩いていた。
そして頼人がいつもの建設現場に差し掛かった最中、ふと急に、なんの脈絡もなく総毛だった。
「なんだ……?」
いま唐突に降って湧いたのは、地獄で感じるような不気味な気配。
唐突に危うさを感じ、頼人は辺りを見回す。
しかし繁華街特有の狭い路地にあるのは、ゴミが無理やり詰め込まれてはみ出したままの蓋付きポリバケツや、無造作に置かれた鉢植え、アスファルトを突き破った雑草に、油でギトギトに汚れた室外機。
後ろにも前にも人の姿は見かけず、危機感の原因は判然としなかった。
勝手に身体が寒気を覚えただけか。そう原因不明の鳥肌に結論を付けて、再び歩き出す。
目の前には、通りまでの道があった。視線を軽く動かせばその左脇に、白い仮囲いで防護された建設現場が、ぽっかりと真っ黒な口を開けている。
通りに近付くごとに、身を襲う悪寒が増していった。
建設現場の出入口前に踏み出そうとして、ふと気が付く。
この寒気の原因は、建設中のビルの中にあると。
――都市伝説の一つ、暴力中毒者。
何故か朝に聞いたコーナーキャスターの言葉が蘇り、また、ぞわっ、と背筋が粟立った。
誰もいないはずの場所で、どうしてそんな単語を思い出すのか。
首をゆっくりと動かし、入口に目を向ける。中には誰もいない。
だが、気のせいではなかった。どこからか発散された殺気が空気を伝播して自分の肌を炙っている。
そんな中不意に、後ろから引きずるような足音が聞こえた。
慌てて振り向くと、そこには、
「く、くけけけけ」
奇妙な声を上げる、数人の若者の姿があった。
いつの間に背後に現れたのか。みな立っているが、肩から腕をだらりと垂らし前屈みで、後ろにいる者は前にいる者の身体に重なるように肩に首を預けている。不気味な笑みを浮かべ、こちらを見る瞳は一様に、凶々しい赤光を宿していた。
暗闇の中に浮き上がったらんらんと光る赤に、身の危険を感じずにはいられない。みな虚ろな目ではないが、決して正気の目でもなかった。
「おい、お前ら……」
「くけ、くけけ」
話しかけても、まともな言葉は返って来ない。やはり、話は通じないらしい。
そんな中、頼人には気付くことがあった。
「角……?」
そう、目の前の不気味な若者たちには、角らしきものが生えていた。
――鬼だ。頼人のよく見る鬼卒――つまり閻羅人ではないが、角が生えている。額に、肩に、肩甲骨に、肘に。場所は銘々違うが、人が持って生まれるはずの無いものを、目の前の若者たちには確かに身体に生やしていた。
頼人が不気味な様相に気を奪われていると、背後からザッとアスファルトを靴裏で掻くような音が聞こえる。
振り向くと、通り方面にも目を赤く輝かせた者たちがいた。
挟まれた。そう悟った途端、鬼たちが頼人目掛けてにじり寄ってくる。
「お、おい」
「くけ、くけけ……」
「じょ、冗談だろ、ここは地獄じゃないんだぞ……」
角を生やし、目を赤く輝かせた者たちが襲って来る。そんなことは現実ではあり得ない。だが、実際にはそんな非現実が目の前で起こっている。
地獄に行ったときのみならず、安全な現実まで血生臭いものに侵されようというのか。
「勘弁してくれよ……」
泣き言を呟いても、目の前の現実は変わらない。依然、鬼たちはにじり寄ってきており、その赤い視線も自分の方を向いている。前も後ろも挟まれ、最早進退は窮まった。いや、そうかとも思われたが、まだ建設現場の入り口がぽっかりと口を開けている。
闇の中に追い詰められているとしか思えなかった。しかし、残された道はそこしかない。
頼人はわずかな逡巡のあと、建設現場へと駆け込んだ。
中はビルの建造途中で、鉄骨構造らしく、すでに赤色のH鋼や鋼管で骨組みが組み上げられており、辺りには建設用の資材や鉄筋、ブルーシート、猫車、発電機などが置かれていた。
建設現場は仮囲いに覆われ逃げ場がないようにも思える。だが、「鉄骨に乗る」「仮囲いを無理やり破る」などの措置を取れば、脱出も可能だろう。
それを、後ろの鬼たちが許してくれればの話だが。
建設現場の中ほどで振り向くと、やはり鬼たちが詰めかけていた。
そして、そんな鬼たちが手に持っているのは、
「蕨手刀……だよな、あれって」
先ほどは見えなかったが、彼らはみな物騒な鉄の塊を持っていた。
蕨手刀は、古代の東北地方に住んでいた蝦夷と呼ばれる人々が使ったとされる刀剣だ。当時は珍しい全鉄製で、後期の物に関しては反りも持っており、当時主流だった他の鉄製武具と比べるとかなり優れていたとされる。時の朝廷軍はこの剣を使う蝦夷たちに相当な苦戦を強いられ、その後朝廷軍で主流となる太刀はこれがもとになっているという説もある。
頼人が知っているのは地獄で見たことがあるうえ、使ったことがあるからだ。
地獄にあったものは錆びたものだが、目の前の鬼たちはまっさらな新品を持っている。斬りつけられれば、痛いどころでは済まないだろう。
「地獄だったら――いや」
皮肉なものだ。いま一瞬、地獄だったら、たとえあれで斬りつけられて死んでも、蘇るのに、と思ってしまった。あれほど嫌だった地獄のことを、こんな場で思い出すとは、皮肉以外のなにものでもないだろう。
だが、現実ではそうはいかない。斬られれば死ぬ。地獄とは違い、一切の行動は誤れない。
鉄骨に乗って仮囲いを飛び越えれば逃げることは出来るだろう。だが、仮囲いの奥や鬼たちの手の届かない位置に行くまでに、斬りつけられないかには不安が残る。
「結局、やんなきゃいけないのか?」
頼人は近場に積んであった銀色の鉄筋を拾う。ちょうどいい長さに切り揃えられたもので、切り結ぶのに使うのには悪くない。
「くあぁあああああ!!」
鬼の一体が正面から斬りかかってくる。獣のような速さはあるが、しかし動きは単調で読みやすかった。地獄で閻羅人やあの男に襲われ慣れている頼人にとっては、集中さえすればそこまで脅威ではない。
片手に持った蕨手刀を真正面で振りかぶり、すわ斬りつけてこようとする鬼の斬線の軌道を読んで、横に避ける。そして空振った蕨手刀目掛けて、こちらも片手に持った鉄筋を打ち付け、鬼の身体ごと払い飛ばした。
一人二人ならば問題はないだろう。だが悪いことに、鬼の数は一人や二人ではきかない。一斉に襲われればさすがにひとたまりもないだろう。
そんな憂慮に冷たい汗を流していると、すぐに他の鬼が斬りかかってくる。それを再びひらりとかわし、同じように鉄筋で強く打ち払う。鬼は吹っ飛んだ。すぐに次の鬼が斬りかかってくる。
(一気に来ないのは、嬲ってるからか?)
他の鬼どもは口から唾液の泡を垂らしながら、ただこちらを見ているばかり。一思いにこない鬼どもの行動に疑問を抱きつつ、襲い掛かってきた鬼の蕨手刀を鉄筋で受けると、鉄筋は折れ曲がってしまった。
ぎりっ、と歯ぎしりの音が口から漏れる。もとよりそんな使い方をするようなものではないため当然だが、受けるたびいちいち形状が変わるのはよろしくない。
また拾うかと考えるが、それよりはと思い改め、曲ったまま鉄筋で鬼の蕨手刀を打ち下ろしで弾く。そしてすぐさまそれを拾い上げた。
これならば、鉄筋よりはましだろう。
すると、鬼たちがまとまって襲い掛かってきた。
「そりゃあさすがにいつまでも一対一とはいかないよな……」
状況はもとから最悪ゆえこれ以上のことはないが、舌打ちは止められない。
チラリと後ろを顧みる。逃げるにしても、逃げ場は奥の仮囲いの先だ。鬼ごっこをして追いつかれない保証はない。こちらも地獄で鍛えた健脚はあるが、向こうは獣の如きスピードだ。
そこで、鉄骨の柱に渡されているH鋼の梁に目が行った。
H鋼の渡しまでは、三メートルを超える高さがある。普通の人間なら飛び移ることなど考えもしない高さだが、この程度の跳躍ならば、地獄ではいくらでもやっている――
鬼どもから逃げるように飛び、その尋常を逸した跳躍でふわりと鉄骨の上に乗る。眼下ではこちらを見上げる鬼どもの姿。このまま仮囲いまで行ければいいが、そこまではまだまだ距離があった。
(隙を突いて一度降りて、駆け込むか)
それしかない。そう考えていると、鋼管の空洞に金属音が反響したカンカンという音が聞こえてくる。数人の鬼が鉄骨をよじ登ってきたのだ。
頼人はそれを一瞥して、H鋼の渡しを軽快な調子で渡って行く。切っ先が無数に敷き詰められた谷底と、頼りない筋が渡された地獄の綱渡しに比べれば、何という事はない。三メートル程度の落下ならどんな体勢で落ちようと、崖から落ち慣れている頼人には少し痛い程度で済むのだから。
難なく鋼管の柱まで到達し、一度地面に降り立った。
そして、後ろにいるだろう鬼たちとの距離を確認しようと、振り返ったときだった。
建設現場の入り口から、一筋の閃光が走った。いや、鬼目掛けて走ってきた。
「な――!?」
強烈な光の唐突な迸りに目を焼かれ、網膜が発光と残像現象に冒される。
鬼どもの残りがなにかしたのか。そう一瞬思うがしかし、目端に映る金色の輝きは後ろにいた鬼のところで停滞し、その光の四方にまき散らしているようにも見えた。
いまだ収まらない残像現象と、逆光という状況もあり、全体はよく把握できない。
だが、鬼たちの絶叫が耳に聞こえてくる。そして錯覚でなければ、舞い踊るように動く金色の光が、鬼たちの身体を通り抜けているようにも見えた。
やがて鬼たちの絶叫が聞こえなくなると、踊っていた光が再びその場に停滞する。
鬼の姿は見えない。光にどうにかされてしまったのか。
よくはわからないが、助かった。
頼人がそう思った瞬間、彼の背中が、冷たい女の手に撫で上げられる。ぞくり――という感覚は、危機を察知したときのいつもの悪寒だ。直後、金色の光が次の獲物を見つけたと言わんばかりに、頼人のもとへ恐ろしい速度で迫ってくる。
「おいうそだろ――!」
――敵は鬼だけではないのか。期待を裏切られ、驚くのもつかの間、光が目前に到達する。
金色の光は、剣か。そう悟った途端、繰り出される薙ぎ払いの斬撃。それに何とか反応することができた頼人は、バックステップを用いて逃れた。
だが、斬線の軌道は鬼たちの覚束ない剣撃からは想像もつかないほどの鋭さがあった。
地獄であの男の太刀捌きを見て来なければ、間違いなくいまので死んでいただろう。
しかして空振った金色の一閃は、まるでプラズマ切断のような音と火花を盛大に上げ、鋼管の柱を断ち切った。断たれた鋼管の断面は滑らかなうえ赤熱しており、その凶悪な切断能力を窺わせる。
やがて周囲の暗さと剣が放つ強い輝きの差に、ようやく頼人の目が慣れてきた。
「――まさか、あなたが鬼だったなんてね」
「え――」
気が付けば、クラスメイトの坂村亜早紀が、そこにいた。