地獄
――水下頼人は、地獄に行ったことがある。
別にそれは、死にかけたわけでも、洒落の利いた比喩でもない。地獄とは、本当の地獄のことだ。そう、誰もが思い浮かべるあの地獄。黙示録の地獄でも、神曲の地獄でも、タルタロスでもゲヘナでもジャハンナムでもない、日本人が最もイメージしやすいと言われる、仏教世界の地獄のことである。真っ暗闇の道を行き、三途の川を渡り、八つの大地獄と百二十八の小地獄がある死のない世界。
頼人が初めて地獄に来たのは、八歳の頃。家族と夕食を食べて、風呂に入り、布団の中にもぐり込んで意識が途切れ、目が覚めた時には、すでに頼人は地獄にいた。
「う、ああ……」
当時の頼人の受けた衝撃というのは、いかほどのものだったか。
目の前に広がった世界は、夢にしては現実味があり、何より自分の意識が鮮明過ぎた。
どこを見回しても果てのない、赤い世界。地面は人のしゃれこうべで舗装されており、近くを流れる川は血液で、流れ出して間もないもののように生温かく、吐き気を催す臭気を放ち、ねっとりとしている。
見回せばあらゆる場所にその赤い流れがあり、その流れを作り出しているのは山に生えている数多の鋭い刃だ。見上げた空までも赤いのは火災の如く火柱が上がり続けているからであり、そこかしこで糞尿と鉄と銅がどろどろに煮え滾った泉が噴き上がっている。
辺りには精気のない顔をした幽霊のような人間たちや、やせ細って腹の出た、人間のような不気味な生き物が蔓延っており、それらを絶え間なくいたぶり、殺すのはこの世のものとは思えないような化け物ども。どこを見ても、心安んじる場所はなく、これは悪夢なのだと自分に何度言い聞かせても、決して覚めることはなかった。
幼い頼人が慄く最中、背後から硬いものを踏み砕くような音が聞こえる。振り向くとそこには、えもいわれぬほど美しい男が立っていた。
「だ、だれ……?」
幼い頼人が訊ねても、男はただその美貌に底冷えのするような薄ら笑いを浮かべるのみであった。
「助けて……家に帰りたい……」
頼人は男に助けを請うた。このおかしな夢の中で、唯一その男だけは別物に見えたからだ。
しかし、幼い頼人の願いに男は右手に持った刀で応えた。
頼人の顔を冷たい風が撫でたかと思うと、頬が裂けて血が滴り落ちた。
男はいまだ、嗤っていた。
「いやだ。たすけて……」
その求めも虚しく、男は手に持った刀を頼人の心臓につき立てた。頼人の口から、ぐぶ、という音と血の泡が溢れ出る。小さな身体がしゃれこうべの地面に投げ出されると、だんだんと意識が遠のいて行った。
徐々に狭まっていく視界の中、頼人は安堵する。これでこの悪趣味な夢から解き放たれると。そう考えると、曲がりなりにも男は自分を助けてくれたのではないかとも思うようになった。
赤い世界が、暗転する。次に目を開けた時には、見慣れた自分の部屋にいて、いつもと変わらない朝を迎えることができるだろう。
そのはずだった。
――よみがえれ。よみがえれ。よみがえれ。
鉄の棒が打ち付けられるような音とともに、冷たい風が「よみがえれ」という響きを伴い、どこからともなく吹いてくる。
ふと気が付くと、目の前の闇から男の美しい声が降ってきた。
「終わりだと思ったか?」
「――!?」
目を開けると、そこには地獄の赤い空と、先ほどの見目麗しい男がいた。
「うぁああああああああああああああああ!!」
そしてこの日から、水下頼人の悪夢は始まったのだった。