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3.市場・前編

どこか棘を残した朝食を終えたエリクは一旦部屋に戻ると無言で上着を羽織り、剣をはいた。ガシャリと重い金属音が、片づけや午前の業務に追われるメイドたちで徐々に騒がしくなるダイニングに反して静まり返った部屋によく響く。


ふと窓の外を見れば、曇天の空がエリクの目に映った。外は日に日に冬の気配が近づき、やがて城へ行くための石煉瓦の道も雪に覆われるだろう。王宮の魔術師たちが張る結界のおかげで街に魔物が入り込むことはないものの、雪や雨などの天候を防ぐことはたとえ聡明な魔術師でも出来ぬことだった。


エリクはそれでいいと思っている。雪や雨が降るから晴天が恋しく、暑い日に爽やかな風が吹くからほっとするのだ。


しかし雨が煩わしく感じる気持ちもないわけではない。エリクは一度考え込むように窓から視線を外したが、そのまま部屋の扉を開けた。傘を持つのはやめて、曇天に逆らうことを選んだのだ。屋敷の2階にあるエリクの部屋を出て、ダイニングとは反対に足を向けた。そこで不本意ながら聞き慣れた声に振り返ると、やはりそこにはミゼルがいるのだ。エリクに呼ばれた時の為に静かに控えていたせいで眠気が襲ってきたのか、主人に向かって大あくびをしている。目にあくび故の涙を浮かべて、ミゼルが声をかけてきた。


「エリク様。お出かけですか?どちらまで?」


「…シモン爺ん所」


「そうですか。行ってらっしゃいませ」


ミゼルが折り目正しく頭を下げる気配が背後でしたが、エリクは振り返らないまま玄関に向かうべく階段を降りる。が、何故かすぐ後ろから小さな靴音が聞こえた。メイド服の微かな衣擦れと気配は完全にミゼルのもので、エリクは疑問を感じたのだが、向こうが声をかけてこないのだから彼女はたまたま階下にでも用事があるのだろうと考えてそのまま捨ておいたのである。


互いに無言のままとうとう玄関まで来た、案の定彼女はエリクを見送る為に降りてきたわけではないようだった。そんなミゼルに痺れを切らしたエリクは振り返って彼女を見る。するとミゼルはいつ着たのか外出用のコートを羽織っており、更にいつのまにか手には籠をぶら下げているではないか。もちろん、先ほどの玄関まで来る内の僅かな時間の中、背後でそんな気配がした記憶などない。


「なに、お前外出?」


明らかに不審な彼女の行動を無意識に咎めるように、じとりとした視線を送るも、ミゼルはそれをなかったかのようにかわして一つにっこりと微笑んでからうなずいた。髪と同じ色の、金色のまつげがその白い頬に影を落とす。ペリドットのような瞳は細められても色濃く映っては輝きを損ねなかった。


「はい。奥様のお使いです」


「ふーん。どこまで行くんだよ」


「とりあえず市場に。このワインに合うチーズを買いに行きます」


よく見れば、ワインボトルの首の細い部分が籠に真っ白なクロスからはみ出ている。その部分のデザインを見る限り、母が一番好んで飲む赤ワインのようであった。


「市場か…」


エリクは顎に手を当てると、ふむと考えた。今からエリクが向かおうとしているシモン老は、とうに現役を引退した騎士である。過去に主席の号を取得した大変誉れ高い人物であるにも関わらず、どうにも偏屈な所があるのが難点といった所だろうか。しかしエリクはシモン老が話してくれる話を知識として修めるのが好きだった。騎士という存在について、学術院では決して教えてくれない清濁合わせた知識を経験をふまえて教えてくれるのだ。シモン老もエリクを気に入ってくれているのかいつエリクが訪問しても追い返さずに招いてくれる。エリクの師匠は父でも学術院の教官でもなく、紛れもなくシモン老なのである。


今日も老の話を聞くべく家に訪問すると予定だった。たまに礼として家にある酒や甘味を礼に持参するが、今日はなにも持っていく予定はなかった。しかし、ミゼルが市場へ行くというのなら、同行がてら市場で何か探してもいいだろうと考えたのだ。


「ミゼル。俺も市場に行く」


「げっ、左様でございますか」


「げってなんだよこの野郎」


「いえいえそんなそんな」


ほほほとわざとらしく笑うとあからさまにぶんぶんと手を振る彼女に、エリクは一度舌打ちをしてからため息を吐いた。これでも嫌われている訳ではないはずなのだ。彼女の祖父であり、ネルフィルド家の執事を勤めるハンネスが、ある時まだ11歳であったミゼルを屋敷に連れてきてからかれこれ10年。彼女はずっとエリクのメイドであり、幼なじみでもあり、なんだかんだとよき理解者なのである。


そしてそれは互いにとってとても重要なことなのであった。多分。恐らく。少なくても、エリクにとっては。


「まぁいいや。ほら、さっさと行こうぜ」


彼女が抱えていた籠をひょいと奪い取って、エリクは歩き始めた。冬特有の透き通った灰色の空を突き刺すように冷たい風に首をすくめれば、ミゼルが小さな声で「ありがとうございます」と言うのが聞こえた。振り返らないでやるのは、長年の経験による配慮だ。声色からして珍しく照れているのだろう。ここでからかってやるのも一興だが、あとで5000倍くらいになって返ってくるのだから大人しくしておくに限るのだ。


市場は朝と違った賑わいを見せている。野菜や果物、魚などといった生鮮食品が店を連ねる朝市とは違い、食品以外にも雑貨やお菓子等も並び始めるマーケット通りに来れば、エリクの気分は少しばかり高揚した。元々賑やかな所は嫌いではない。祭りなどの行事も好むタイプのエリクからすれば、たまに来る市場は控えめな祭りのようなものなのである。


「エリク様。市場に来るのは久しぶりでございますか?」


ミゼルがぽつりと呟いた言葉に素直に頷けば、ミゼルがふふふ、と楽しそうに笑った。エリクはなんだか気恥ずかしくなりそっぽを向く。そんなエリクにミゼルが更に微笑む。こんな風に穏やかな時間を彼女と過ごすのは、非常に珍しいことである。口を開けば毒を注いでくる彼女が普通の娘のように振る舞うと、その美貌はやはりよく映える。

目線を少し外して、エリクがぼそりと呟いた。


「…お前、ずっとそのモードでいることは出来ねーのかよ」


すっと、ミゼルの目が細まる。いつもの残念怠惰な毒吐きメイドの顔だ。


「嫌ですねエリク様。モード、だなんて人聞きの悪い。私はいつも自然体でございます」


「てめーどの口が言うんだよどの口が」


「この口ですけど」


そう。たまたま今、近所の男爵家の馬車が二人の横を通り過ぎたのだ。外に出れば単に従者と主人である二人であることはミゼルはきちんと理解している。故に他者が傍に居る時は、それはそれは美しい猫をかぶるのだった。エリクは一度学術院でクラスメイトにミゼルのことを大層褒められたことがあった。美しいメイドがお付きで羨ましい。とも言われ、羨望の眼差しを向けられた。

その時エリクはただただ顔を引きつらせることしか出来なかったのである。


「ほらエリク様。シモン様に何をお持ちになるかさっさとお考えください。その間に私は奥様のお使いを済ませますので」


「わかってるよ」


互いに言葉の刃で鍔せり合いを繰り返しながら、市場の賑やかな喧噪の中へ飛び込む。少しばかりわくわくとしているエリクの隠しきれていない表情に、ミゼルは人知れず口角を緩めたのだった。


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