1.エリク・ネルフィルドとメイドのミゼル
帝国における武門の名門といえば、帝国の人間だれもがネルフィルド家と答えるだろう。
数多くの騎士を輩出し、その多くが軍功をいくつも王から賜る程の剣の腕前、また忠誠を王家に知らしめ、また奇妙なことに代々男子ばかりがこの世に生まれ落ちるおかげで、ネルフィルド家は国が在り続けるのと同じ足並みで安泰状態にあった。
しかしひとつばかり難点なことがある。そう、子が男ばかり何人も授かってしまうおかげで先祖が決めた騎士号を得る為の条件は年齢関係なく、剣の腕や王家に対する忠誠の心のみを基準に当代の当主のみが判断出来る事。それによってたとえ末子でも騎士になれるチャンスはあるものの、その前に他の様々な方法で弟に危害を加えようとする愚か者が長い長いネルフィルドの系譜の中で、たまに生まれてしまうのもまた事実だったのだ。
男の嫉妬も総じて見苦しいものである。ネルフィルドの家系図は、その有り様をまざまざと残していた。
そんな中、エリク・ネルフィルドは四男としてネルフィルドに生まれ落ちた。産声を上げた瞬間に彼に課せられた使命は『騎士になる』ことと同時に、『名家を守る手伝いをする』ということなのだ。爵位は無いものの、ネルフィルド家の屋敷は帝国の一等地に佇んでおり、その中では沢山の使用人が彼らと自らの為に毎日働いているのだ。彼らを路頭に迷わせないこと。それもネルフィルド家の人間として生まれ落ちたエリクに課せられた使命であるのだった。
そう。それがネルフィルド家で仕事をしている人間ならばたとえどんな人間でも、である。
「エリク様。エリク様おはようございます。朝食の時間に間に合いませんのでそろそろ起きてくださいませ」
「……」
「相変わらずお寝坊さんでいらっしゃいますね。起きてくださいませエリク様」
「……」
「エリク様。起きないと仰るのでしたら、私にも考えがございますよ」
「…ミゼル」
「おはようございますエリク坊ちゃま。早く起きてくださいませね」
「おいミゼル」
「では、私は起こしましたからね。もう知りませんよ」
「おいミゼル!!」
エリクは大声で彼女を制した。彼の背後には部屋の扉。目の前には無人のベッドに語り掛ける、エリク付のはずのメイドが一人。キチッとしたメイドらしい楚々とした髪型はどこへやら。寝起きの髪を梳かさずただ乱雑に纏めただけのような纏め髪に、とりあえず着込みましたと言わんばかりに乱れ気味なお仕着せのメイド服。加えてどうみても寝起き状態を表しているような顔つき。
朝の剣の鍛錬を終え、軽くシャワーまで浴びて汗と泥を落としてきたエリクは腰に佩いた自身の愛剣もそのままに自室の扉にゆっくり寄りかかると、朝にも関わらずそれは盛大に溜息を吐いたのだった。
ベッドが空なのを知っていてわざとそれに話しかける彼女の滑稽さといったらない。しかし彼女はこれで「エリク様を起こしました」とメイド長に報告する気だろう。中々に小悪党である。
「…寝坊したな?お前」
「…おはようございますエリク様。朝ごはんですからそろそろダイニングの方へいらしてください」
くるり。ミゼルと呼ばれたメイドは無駄のない所作でエリクの方を振りかえると、何事も無かったかのように丁寧に頭を下げてきた。主を前にいっそ清々しい程に自分の失態をスルーする彼女の神経は驚くほどに図太いのは、いつものことだ。エリクはもう一度溜息を吐く。朝日を浴びた彼女のダークブロンドの髪は磨き上げられた剣のように鈍く艶めき、同じ色の睫はバサバサと彼女のペリドットのような瞳を縁どっている。肌は抜けるように白く、唇は上品に薄い。
非常に残念ながら、この怠惰なメイドは容姿だけは素晴らしいのである。
「…お前、なんでそんなに残念なんだ?」
無意識に零れ落ちた言葉を回収することは出来ない。エリクはやべ、とこめかみに冷や汗を零した。エリクはミゼルが彼付きのメイドになってこのかた、彼女に勝ったことなどないのである。案の条彼女はスッと表情を無にし、それはそれは美しく微笑んだのだ。
「従者は主の鏡。主によく似るのでございますよエリク様。先日せっかく男爵家の令嬢がエリク様なんぞを城の茶会に招いてくださったと言うのに、寝坊してその約束を反故にした挙句、面倒だと言って…」
「あーもういい!!わかったよ悪かった!!」
「…あら、これからが面白いお話ですのに」
残念ですね。と口元に手を当てて視線を逸らす彼女の口角は確実に上がっている。本日も朝から軍配は残念メイドのミゼルに上がるのだった。
「エリク坊ちゃま。ご朝食のお時間です」
やがてネルフィルド家の執事であり、同時にミゼルの祖父であるハンネスがエリクの部屋の扉を叩くまで、エリクはつらつらとミゼルに過去の自分の失態を並べられ、朝の抜けるような朝日を浴びながら撃沈していくのであった。
「私が起こしに参るよりも早く起きているなんて…いつの間にそんなに生意気になったんですかエリク様は」
濃紺の絨毯を音もなく踏み締めながらミゼルが唇を尖らせているのを、エリクは一瞬横目で見たもののさっさと視線を戻した。主と肩を並べて歩くという、メイドにあるまじき彼女の行動はもはや互いに慣れたもので、足捌きこそ音を立てない楚々としたものであるにも関わらず、彼女のズンズンと突き進むような態度はメイドのそれとは程遠かった。
「朝の鍛錬だよ悪いか。お前こそ、長期休暇明けのせいで寝坊したんじゃねぇのか?」
「嫌ですねエリク様。ネルフィルド家に10年程お仕えしているこの私がそんな、たがだが1ヶ月程度の休暇で遅れを取るなど」
「物理的に遅れてんじゃねーか思いっきり」
エリクは呆れた目線を向けたものの、彼女にとってそんなものはお構いなしであった。会話をしながら他にネルフィルドの者やメイド達がいないのをいいことに、仕えるべき主人の隣で髪を纏め直しているすぐ横を歩くメイドがエリクはなんとも腹立たしかった。しかしそんなことで苛立っていては無駄だと、それこそ彼女と子供の頃からの付き合いであるが故によく解っている。が、腹立たしい事には変わりないのである。
「お前、1ヶ月も休暇取って何してたんだよ」
漸く髪を纏め終えたらしいミゼルをちらりと見ると、彼女の濃い緑色の瞳と目があった。この辺では珍しい色をしているそれに思わず目を奪われれば、その瞳が気怠そうに細まった。それだけで彼女の魅力は半減以下だ。
「隣の港町で海の男を侍らせながらおじい様の持つ別荘でそれはもう豪遊の限りを尽くして参りました」
「は?!何やってんだよ!!」
「嫌ですね。冗談でございます」
「おい!」
「そもそも長年こちらで執事として勤めているおじい様がわざわざ隣町に別荘なんて買うわけがないではないですか。洞察力に欠けますよエリク様」
「テメェ…」
「まぁ、隣の港町に出かけたのは本当でございます。潮風が気持ちようございました」
「そうかよ」
「はい。また今日から誠心誠意お仕え致しますので、よろしくお願い申し上げます」
そう言って折り目正しく礼をしてから顔を上げたミゼルの女神のような微笑みに、不意にエリクは自身の頬をピタピタと叩いた。一瞬絆されそうになったのだ。彼女の麗しい表情に。
「なにやってるんですかエリク様。自分の頬なんか叩いて…気味悪い行動はおやめください」
「お前の誠心誠意ってなんだよ」
自己嫌悪である。何故度々騙され絆されそうになるのかと自分自身を殴りつけてやりたい気分になりながら、エリクはこの毒吐きメイドの言葉に渋々応えるべく片手をひらひらと振ったのだった。
エリクがネルフィルド家の嫡男として生まれながらに課せられた使命。それは『立派な騎士になり武勲を掴みとり、王家の役に立つこと』、『名家を永劫守り通すこと』それから『自分の下で動いてくれる臣下を路頭に迷わせないこと』。
そうたとえ、たとえ自分に一番近い臣下が性格破綻者な毒吐きメイドが自分の従者でであったとしても、である。
新連載です。よろしければお時間がある時にでもお付き合いくださいませ。