プロローグ
初長編です。気付いた事があればガンガン意見下さい。
午後の気怠い雰囲気の中、何を喋っても念仏に聴こえると揶揄される老教師の眠りの呪文に対抗しつつ、俺は頬杖を突いた。
昼食を食べた直後にある老教師の授業は、正直に言えば拷問である。
老教師の抑揚の無い声質は、要点が判り辛く記憶に残らないのに加え、この教師は殆ど板書をしない。
声を聞いていれば眠くなり、聞かずに板書に集中する事も出来ない老教師の授業は、かなりの上級者クエストと言えるのではないだろうか。
しかし、決して悪い先生ではなく、成績や素行の関連で助けて貰った生徒は数知れない。
聞いた話だと、暴力団関係者の乗る車を傷つけたとかで事務所に連れていかれた素行の悪い生徒を、単身事務所に乗り込んで助け出したと言う伝説すらある。
かく言う俺も、高校に届け出をしなかったバイト先で、トラブルに巻き込まれて困っていた処を助けて貰った経緯があり、この老教師には大恩を感じずにはいられないのだ。
なので皆、この授業では無様は晒せない。
たとえ、欲望に負けた生徒の頭にニヤニヤしながらチョークで絵を描いている老教師の姿を目撃したとしてもだ。
絶対これ、罠だよな。わざと眠りを誘ってるよな。
本日の犠牲者が頭を白く染め上げられ、ゆったりと時間が流れる教室内を見渡せば、本日最後の授業、その終了間際と云う事もあるのか、皆そわそわと落ち着きがなくなっている。
親友であり、将来の義弟候補である橘勇二は、輪をかけて顕著に落ち着きがない。
彼は事もあろうか、教科書筆記用具その他を鞄に仕舞い始めている。
アホだな。そんなことをすれば──。
「橘──」
こんな具合に最後に当てられてしまうのだ。
泣きそうな顔して俺を見るな。俺まで波及してくるだろうが。
理由は分からなくは無いが、少し落ち着けと言いたい。
結局、答えられなかった橘は、課題が増えて解放された。
ガックリと項垂れる橘をよそに、本日の授業内容の要点が細かく書き出されたプリントが配られ、それをノートに挟めば、授業は終了。
このプリントを見るといつも思う。
やっぱりこの授業、罠だよね。
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「リョウター、助けてくれてもバチは当たらないと僕は思うんだよ」
恨みがましいめを俺に向けつつ、アホな事を言う橘は帰る準備に余念がない。
くっきりとした二重瞼に切れ長の目、少し色の薄い大きな瞳は、スッキリと通った鼻筋や形の整った唇に相応しい、ニキビ痕の一つもない白い肌と相俟って、優しさと色気を兼ね備えた完璧な色男顔…なのだそうだ。妹によると。
小学校からの付き合いであり、男の俺からすると、ただの見飽きた顔でしかないのだが、確かにこの男はモテる。
身長は俺より一〇センチも高い一八五センチ。
痩せ型だが、ヒョロヒョロしている印象はなく、小学校からの道場通いで引き締まった体はスポーツマン然としているし、当たりは柔らかく、人のいい性格は、学年を問わず女子生徒を魅了し尽くす勢いだ。
本来なら男子全員の敵と認識されてもおかしくない男だが、さにあらず。
この男、非常に身持ちが固いのだ。
高校入学と同時に付き合い出した、当時中学三年であった俺の妹、長谷川優香との熱愛は一大巨編恋愛物語として、一年半たった今でも語り継がれ、昼休み毎に学食で発生する激甘スイーツ空間は学校の名物と化して女子達の憧れの的になっている位だ。
何が起きても優香から目移りしない男、橘勇二。安パイである。
彼が優香と共に女子の崇拝の対象でいる限り、彼はライバル足り得ないのだ。
テレビの中のアイドルと一緒である。
俺の様に小学生の頃から事ある毎に橘宛ラブレターの配達をやらされていたり、ちょっといいなと淡い恋心を抱いた女の子達が尽く橘に惚れていたりしない限りは。
そんなガキの頃の思い出があって、それでも親友と呼べるのは橘の人柄が良過ぎるからだろうか。
「何をどうやって助けろと言うんだ。犠牲者が増えるだけだろ」
「そりゃそうなんだけどさ。もうちょっとこう……」
「自業自得だろ。ほれ、今日はバイトだろ? さっさと行け」
「むう。愛がないなー。とか言いつつ、もう行くけど」
「おーう。またな」
足早に教室の扉に向かう橘の背中に、軽く手を振りつつ、俺も帰る準備をする。
ディバッグをロッカーから引っ張り出し、ライディングジャケットを羽織るとブレザーをバッグに入れる。
この高校、緑峰大附属第二高等学校は県内では唯一、バイク通学が認められている。
だからこそここを受験した訳だが、当然、それなりの制約があったりする。
まず、学校の許可が必要で、これを貰う為には、一年二回の学校主催交通安全講習を受けなければならない。テストもあるが、本検に受かった奴なら普通に合格できるレベルだ。
それと、防具着用義務がある。
膝、肘、胸部を保護するプロテクターを必ず着けなければならないのだ。これを着けずに校門を通れば一発でバイク通学許可が取り消される。
最後に違反で警察に捕まっても取り消される。
早い段階で交通ルールを意識させ、遵守を心掛けさせるという教育方針なのだそうだ。
正直、自転車通学者にも同じ事をさせなければ意味はあまり無さそうだが。
椅子に座り、膝のプロテクターを着けていると、橘が大声で話しかけてきた。教室から出た筈なのに、態々戻ってきたのか。
「今日、ODO買うんでしょ? 明日、優香ちゃんと一緒に遊ぼうよー」
「…りょーかい」
そう言えば、そんな予定もあった気がする。
確か、予約してた俺の脳波で最適化されたVRギアが届いたって電気屋から連絡来ていた筈だ。
VRギアとは、元々は医療分野での脳波計測及び調整機器であったもので、心疾患患者のリハビリツールや、植物状態に陥った人達のコミュニケーションツールとして発展し、軍事、娯楽に波及した最先端ツールである。
コンシューマ化された時点で脳波計測等の危険を伴う機能を削除されたVRギアは、様々な分野で使用されている。
ミーティング機能は言うに及ばず、PCエミュレータ機能は企業の在り方を変えた。
マップ機能は自宅で旅行気分を味わえ、料理情報サイトでは味と匂いすら発信可能だ。
現状、自身の脳波パターンをパーソナルデータとして登録したパーソンチップを国から発行して貰った上で購入、という手間が掛かるのが難点ではあるが、現在の網膜投影式コミュニケーションデバイス(RPC)の後継にあたる製品なのだ。
RPCすら持ってない俺からすると、正直必要とも思えないのだが、橘と優香が事ある毎に薦めてくるので、今回思いきって購入したという訳だ。
因みに優香は半年前に橘からプレゼントされたギアを使用している。
本当は俺の分も橘は用意しようとしていたのだが、例え親友だとしても流石に安い物でもないギアを貰い受ける訳にはいかないと、固辞させて貰った。
その時にいつか、自分で買うからと約束したのも、購入理由のひとつだ。
しかし、今日はバイトも無いからバイク屋でパーツでも見てくるかと思っていたが、予定を思い出してしまえば仕方ない。
羽織ったライディングジャケットに袖を通し、ヘルメットとグローブをロッカーから取り出すと、俺はディバッグを背負った。
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黒いジェットヘルメットを被り、グローブを着けたら、ハンドルロックを外す。
学校指定の駐輪スペースに設置された輪止めとカギを外せば、後は車体を起こしてサイドスタンドを畳むだけでバイクは戒めから解放される。
両手で支える左右のグリップは通常のバイクより狭く低く、コンパクトだ。
ホンダエイプ五〇をベースとした俺の愛機は、一年と少しの付き合いの中で、既に原型を留めていない程手を入れた自慢のバイクである。
本来の四九ccから一二四ccにボアアップしたエンジンに合わせ、オイルクーラー、ディスクブレーキ、スイングアーム、前後サスペンション、メーターからヘッドライト迄、弄れる場所は全て弄り倒した逸品。
普通二輪免許を含めて、チマチマ貯めていた貯金とバイト代の殆どを使ってしまったが後悔はない。
それが例え、四〇〇ccのバイクを新車で買える金額であったとしても。
グッとグリップを握り締めて、校門迄の道程を引き回す。
構内でエンジンを掛ける事は禁止されているのだ。
コンパクトなバイクである為、引き回しは中腰の姿勢で少々キツいが、四〇〇ccの引き回しに比べれば天国と言って良いので、これも味と思えば苦にはならない。
「兄さん」
駐輪場から校門迄の百数十メートル、バイクを押して歩いていると、よく知った声が後ろから聞こえてきた。
振り向くと俺に向かって歩いてくる女子の集団が目についた。
黒いブレザーに黒いフレアスカートは、形状こそ何の捻りも無い標準的なものであるが、縫い目に沿って縁取られた白糸と、金糸で輝く左胸の校章がアクセントになって、在校生はおろか近隣の中学生やちょっと特殊な方々からの好評を得ている制服である。
白いブラウスの首元に締められたネクタイは空色で、一年生の集団である事が解る。
とはいえ、先頭を歩く女子生徒の顔を見れば、一年である事は明白であるのだが。
先頭を歩く女子、長谷川優香、俺の妹である。
黒曜石を思わせる黒目勝ちな瞳は、長いまつげと少し垂れた目尻によって人に優しい印象を与え、低過ぎず高過ぎずの小鼻とふっくらとした薄桃色の唇は、スッキリした白い輪郭に良く映える美人顔…なのだそうだ。橘によると。
物心がついた時からの付き合いであり、兄の俺からすると、ただの見飽きた顔でしかないのだが、確かに妹はモテる…らしい。
実は橘の奴、優香に恋をしたのは小学六年の時だったそうだ。
当時の優香は人当たりも良く、男子にも親しそうに話す人気者であった為に優香に惚れている男子は多く、橘はかなりやきもきしていた様だ。
まあ、優香は優香で小学五年の時、初めて意識した男子はモテ男の橘だったと後に聞いたから、既にその時より相思相愛だった訳だが。
身長は一六〇センチ前後で少し高めだが、痩せ過ぎず太り過ぎず、弓道で鍛えた体は出る所は出て引っ込む所は引っ込んで、スゴいのだ…そうだ。橘によると。
兄としては少し複雑だが、幸せそうにしている二人を見るにつけ、収まる所に収まった安心感を覚えてしまうのだから仕方無い。
たまに優香の部屋から不自然な大音量の音楽が流れてきたりした時に、時間を見計らって差し入れを持っていったりするイタズラで十分に気は晴れるしな。
二人の慌て様を思い出してニヤつく口元を意識して真顔に戻すと、優香が怪訝そうに俺の顔を覗き込んでいた。
いつの間にか接近されていた様だ。
「なに? 変な顔して」
優香が不審な声で聞いてくる。
悪かったな、変な顔で。
俺の容姿は、母の遺伝子を色濃く受け継いだ美人顔の優香と違い、平凡そのものである。
親戚のおばさんが言うには、俺は体型その他全て父にそっくりなのだそうだ。
もうちょっと母の遺伝子にも頑張って貰えたらと思わざるを得ないこの頃である。
「いや、お前等の慌て様も十分変だったな、と思い出しただけだよ」
途端に赤くなる優香。ピクリと動いた右手が羞恥と怒りをよく表していると思う。
自制出来る子に育ってくれて俺は嬉しいよ。うん。
しかし、視線までは自制出来なかった様で、とても冷たい目を向けられた。
「サイテー。もうやめてよね、マジで」
これ以上からかうと本気で軽蔑されそうな雰囲気なので素直に止める。
流石に妹に蔑ずまれて悦ぶ特殊な性癖は持ち合わせていないのだ。
「オーケー。お前等のラブ空間を邪魔すると、後ろの方々に袋にされてしまうしな」
えー? そんな事しませんよー? とか、口々に否定する優香のお友達。
信用できるか。
このラブカップルの仲を嫉妬して邪魔しようとした男女がどうなったのか、当人達が知らずとも俺は知っている。
現に今、小学校時分からよく家に遊びに来ていたミッチーの怪しく光る目は、俺を捕らえて離さない。
二人の邪魔をしたらコロス。
目は口程に物を言うのだ。
何でも、今ミッチーが付き合っている彼氏も優香の事を好きだったとかで、もし優香達が別れようものなら、その影響は計り知れないそうだ。
そんな裏事情も知らずに、優香は俺に対して呆れ顔である。
「あぁもう、口が減らないと言うか、兄さんは」
これ以上の接触は危険なので、本題に入らせて貰おう。
「で、何用よ。俺はこれからギアとODOを入手するミッションをこなさなければならない訳だが」
再び校門に向かってバイクを押し出した俺の横に優香は並ぶ。
シートに手を置いて、一緒に押している素振りだが、俺の腕に掛かる重さは変わらないので、手を添えているだけの様だ。
「あー。今日だっけ。今日から母さんが居ないでしょ? 私、ミッチーの家で朝まで遊ぼうって事になったから、ご飯どうするかなって」
そう言えば、今日から一週間、母が仕事で完全に家に帰ってこないのだ。
元より、脳科学の研究者をしている母は、朝早く夜遅い普通の企業ならブラック認定されてしまう様な勤務状況なのだが、今回は研究の詰め段階とかで泊まり込む必要があるらしい。
所謂、缶詰めって奴だろう。
普段は家事のかの字も出来ない俺の代わりに、優香が家事全般を負担してくれているのだが、たまには羽を伸ばしてリフレッシュしたいのだろう。
「気にすんな。たまには女同士の猥談も必要なのは理解できる」
「純真な妹に何て事を言うの? このバカ兄貴は」
純真な妹は中学三年生のクリスマス、がに股で歩き辛そうにしない。
知りたくも無い事実を知らされた俺の気持ちが解るか?
思わずクリスマスパーティーに来てたミッチーと顔を見合わせてしまったぞ。
まあ、その後、今度は正月パーティーに来たミッチーが歩き辛そうにしていた事実はどうでもいい。
優香の様子に色々察してしまった男(ミッチーの今彼)の失意にミッチーがつけ込んだ結果なのだそうだが、本気でどうでもいいのだ。
なんでそんな陰謀を妹の友人から報告されねばならないのか。
それ以来ミッチーの事を少し苦手に感じる様になったのは仕方あるまい。
「ま、どうとでもするから、楽しんでこい」
校門にたどり着き、抜けた所でバイクを停めると、前輪ブレーキを握ったままバイクに跨がった。
夕食の選択肢等、幾らでもある。
外食しても良いし、コンビニ弁当でもカップ麺でも、腹が満ちればいいのだし。
確かに優香の飯は旨いが、それ以外が不味くて食えないとかアホの子の我儘をほざくつもりも無い。
キックスターターのペダルを倒し、右足を乗せて勢いよく踏むと、一発でエンジンが掛かる。
一二四cc単気筒のサウンドがモリワキマフラーから溢れだし、奇妙な安心感を俺に与える。
今日も調子が良い様だ。
クラッチレバーを握り、シフトペダルを蹴り込んで一速に入れる。
「あ、ODO! ちゃんと初心者クエストは終わらせといてよねっ! 明日は昼から勇二と一緒にパワーレベリングなんだからっ!」
五月蝿そうに耳を塞ぐ優香の、バイクのアイドリング音に負けない大声に、俺は軽く右手を上げて答えた。
「へーい」
スロットルを開けると同時にクラッチミート。
唸りを上げるエンジンと共に、俺は学校を後にした。
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「お買い上げ、ありがとうございました」
にこやかな営業スマイルに軽く頭を下げて答えた俺は、たった今受け取った紙袋の重さを右手に感じつつ、早くも後悔を始めていた。
解っていた事なのだが、ATMでパンパンに膨れ上がった財布が、ものの十数分でペラッペラになってしまうのは胸の空虚感が半端無い。
これでも俺は、高校生としては高額なバイト代を頂いていると自負しているのだが、それでもこのVRギアは給料の三ヶ月分を吹き飛ばす高額商品だ。
子供の小遣いでどうにかなる物でもないこの製品が、どうしてゲームのプラットホームとして成り立つのか、それはVRギアが普及する過程に依る物が大きい。
VRギアの家電としての位置付けはゲーム機ではなく、実はハイエンドなPCに近い。
VRギアの主な機能の一つ、PCエミュレータ機能により実現するそれは、バーチャル空間内で、さもリアルでPCを操作するかの様に作業を行う事ができ、リアルに存在する任意のサーバへのアクセス、データ共有を可能とした。
これにより、PCを主事業として使用する企業の大半はバーチャル空間に事業所を置くバーチャル企業へ移行したのだ。
リアルな事業所は作業空間を考慮せず狭い店舗で済み、社員は通勤を考える必要が無い為に雇用を全国に拡げる事ができ、更には交通費も浮く。
通信費は多少嵩むが、十分な経費削減を実現出来るという訳だ。
この流れに追従したのが学習塾や英会話教室、通信教育の分野である。
立地条件や教室の確保等、必要経費の多い外部教育機関も挙ってVRを導入し経費削減に努め、受講料が安くなった事を喜ぶ教育熱心な親達は子供達に受講の為のVRギアを買い与え、VRギアを手に入れた子供達は息抜きと称してゲームを買う。
こうして俺の財布をスッカラカンにしやがったVRギアは、国内ユーザのみでも数千万人という巨大市場に発展したのだ。
とてもスゴい物なのだ。
そう、この買い物はある意味先行投資。
未来の俺のスキルアップを目的とした教材なのだ。無駄じゃない。
なんて心の中で言い聞かせても、歩調に合わせて右手で揺れる紙袋は俺の空虚感を埋めてくれはしない。
何でこんなに軽いんだ。もっと重ければまだ慰められるだろうに。
頭に着ける物なのだから、重ければ問題があるのは解るんだが、今はそのダウンサイジングが憎い。
小型化日本が憎い。
原付並の値段なんだぞ?
俺のエイプと殆ど変わらない値段なんだぞ?
せめて六〇キログラム位の重さが欲しかった。
首に乗せると死ぬので、そう、ベッド式とか。
カプセルになってて栄養補給と排泄処理まで完備……って、お年寄りか俺はっ!
「おっと…」
右肩に受けた不意の衝撃。
どうやらぶつかってしまったらしい。
「あ。すみません。考え事をしてて」
財布が薄くなったショックは相当だったらしい。
周囲を見渡せば、いつの間にか人の多い一階の携帯売り場まで降りていた様だ。
こんな所まで周りも見ずに考え事をしていればぶつかって当然であり、俺に非があるのは明白である。
素直に謝罪の言葉を口にし、相手に改めて目を向けると、屈んで何かを拾っている。
紙袋?
右手を見ると、さっきまで持っていた紙袋がない。
まずい。ぶつかった拍子にぶち撒けた様だ。
慌てて自分も拾わなければと一歩踏み出したが、拾い終わった荷物を掲げて、相手の男性が近付いてきた。
「いや、此方も注意が足りなかったからね。済まなかった。怪我はないかい?」
にこやかに笑いかけてくる男性に、俺は、少なからずホッとした。絡まれたりする心配は無さそうだ。
年齢は四十代後半と云う処か。
ボサボサの髪に無精髭、黒いスラックスと、濃いグレーのワイシャツは、何故か着ている白衣をより白く浮き上がらせている。
何処かの研究職だろうか。
「はい、これ。落としたよ」
「あ。ありがとうございます」
差し出された紙袋。拾ってくれたお礼を言い、恐縮半分に受け取る。
「それ、大丈夫かな? 壊れていたりしたら大変だし、名前と電話番号教えてくれないかな。あ、これはこっちの名刺」
買ったばかりで箱に入った状態だし、あまり心配は無さそうだが、ここは言う通り教えて置くべきだろう。
「はい。長谷川亮太郎と言います。電話は──」
名刺を受け取りつつ名乗ると、何故か驚いた表情を浮かべる男性。
名刺をさっと確認すると、男性の名前は『皆沢義男』さんというらしい。
「えっ? もしかして亮太郎君? 長谷川賀奈枝さんの息子さんの?」
「え? あ、はい。 賀奈枝は母です…」
どうやら母の知り合いの様だ。
丁寧な受け答えしておいてよかった。
「あぁ、道理で章彦に似てる訳だ。忘れちゃってるかな。 亮太郎君には会った事があるんだよ? 小学校の低学年位の頃だけどね」
小学校と言うと、まだ父が生きている時分か。
「章彦の告別式にも──…あ」
父、長谷川章彦は、俺が小学四年生の時に死んだ。
急性の心不全だったらしい。
母と同じ研究者だった父は、母によると研究に没頭する人であったそうで、俺も優香も思い出自体があまり無い。
また、父は画像や動画に自身が映る事を極端に嫌う人で、残っている画像は遺影に使った結婚式の写真を含めて数枚、動画に到っては皆無なのだ。
だからなのか、俺の父への印象は、鍵の掛かった書斎の扉である。
しかし、父の知り合いでもあるらしい目の前の男性、皆沢さんは、親戚のおばさんまで保証した俺と父のそっくり具合に驚いていた様だ。
ぶつかってしまったのはその所為なのかもしれない。
「あ、大丈夫です。 もう、昔の話ですから」
皆沢さんは自分の発言に、しまったという素振りで苦虫を噛んだが、俺は父の事に関して、気持ちの整理は付いている。
それでなくとも印象の薄い人だったのに加え、もう七年近くも前なのだ。
葬儀時の母の様子を思い出せば、思う処はなくは無いが、父の死に引き摺られる感傷は今はもう無い。
努めて明るく話し掛けた俺に、ほっとした表情で皆沢さんは言った。
「……そうか、いや、久しぶりだね。どうだい? そこでコーヒーでも」
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俺が通う緑大二高から一キロメートル程離れた駅の東口は、数年前までは何もないビジネス地帯であったが、とある家電量販店の本社が出来て以来、徐々に発展を始めた新しい商業地域だ。
駅のロータリーに直結する道路が拡張された事により利便性が増し、利用する客が増えた東口は改装され、現在に至る。
当然、地方の田舎都市である事は変わらない為に、東京の様な客数はあり得ないが、これはこれで落ち着いてコーヒーを飲むには丁度良い混み具合という風情である。
焙煎されたコーヒー豆の匂いで満ちた駅構内のコーヒーショップには落ち着いたBGMが静かに流れ、小さなテーブルに置かれたブレンドから白い湯気がゆっくりと立ち昇る。
あと少しすれば、この優雅な時間を破壊せんとする高校生と名乗る集団が挙ってこの店を占拠するのだが、六時限が終わってここに到達するにはもう少しの時間があるだろう。
俺の前に座った男性、皆沢さんは、改めて挨拶を交わした後、コーヒーのカップに口を付けたままに暫くの沈黙を守っていた。
その目は何か、遠く過ぎ去った記憶を愛でるかの様に優しげだ。
「父の知り合いだったんですか?」
コーヒーの半分を啜り、沈黙を破ったのは俺だった。
皆沢さんは、無言の間に俺と父を重ねて思い出に浸っていた様だったが、今、彼の前に座っているのは俺だ。
そんな目で見られるのはムズ痒いし、父と比べられている気がして良い気持ちもしないのだ。
俺の声に皆沢さんは、回帰の旅から戻って来た様に答えた。
「私と章彦、そして賀奈枝さんは同じ研究所で働いていたんだよ」
月芝技術研究所。市の南部にある日本有数の巨大電気機器メーカーの工場に隣接した系列研究所で、半導体や動力部品、その他最新技術を研究する機関である。
研究対象は様々で、ここで研究された技術は月芝の製品に幅広く使用されているらしい。
母はこの研究所で今も働いているが、皆沢さんも同じ研究員の様だ。
「私と賀奈枝さんはVRギアの有効性と、技術転用について。そして章彦は、VRギアが人体に及ぼす影響について」
母の研究に関して等、たかが高校生である俺が知っている訳が無いが、VRギアに携わっていたとは初耳であった。
母は仕事を家庭に持ち込まない。
父が使っていた書斎も、母が入っている処を俺も優香も見た事がないのだ。
自宅にある大型ファイルサーバも、優香がVRを始めた時に設定し直しただけで、使っているのを見た事がない。
自宅にいる時はいつもフワフワした雰囲気を纏ってニコニコし、たまにしでかすドジのフォローを俺……主に優香がする、とても研究者だとは思えないゆるキャラな人なのだ。
そんな母だが、一度だけ、研究者の顔を見せた事があった。
「フィードバック……ですか?」
「その通り。よく知ってるね。機密って訳でも無いけど、あまりその辺りの事は知られていないんだ」
「妹がVRギアを始めた時に、母から聞きました」
優香が誕生日に貰ったVRギア。
これを見た時の母の顔は、研究者のモノだったに違いない。
自宅での使用許可を強請る優香と、事の成り行きを見守る俺に、母は真剣な顔をしてフィードバックという現象と幾つかの条件を提示した。
「二、三時間置きに必ずログアウトして体を動かす様に、とか?」
「そうですね。あと、一日のログイン時間は八時間を越えない事、それとログアウトした後に体がふらつくと感じた時はベッドで目を閉じてじっとしている事、酷い場合は使用を止め、医師または母に相談する事」
これは、VRギアを購入する時にも軽く注意喚起される事柄だが、それ程深刻に捉える人は皆無だ。フィードバックという現象すらあまり知られていない。
口調まで変わった真剣な母の顔は、俺達兄妹に多大な影響を与えていた。
このゆるフワがここまで真剣な顔をするのだから、なにかあるに違いない、と。
皆沢さんは手にしたコーヒーをテーブルに置くと、あの時の母と同じ顔になった。
「実はフィードバックという現象は、人それぞれ違うんだ。体が重くなる人もいれば軽くなる人もいる。軽い頭痛を引き起こす人もいるし、体調が良くなる人もいる」
胸ポケットに刺さったペンを抜くと、テーブルに置かれた紙ナプキンに図を描き始める。
「VRギアは、人の脳神経を走る微弱な電気信号を受信、発信する事で人体内の情報伝達を誤認させる機械だ。しかし、人間の脳神経伝達には多少の個人差が生じる。それを記録した物がパーソンチップ。VRギアはパーソンチップに記録された情報を元に、期待された神経伝達を実現する為の最適化を行い、誤認データを送受信するんだ。でも、いくら最適化されようと微弱なズレは制御しきれないんだよ。だから、人のフィードバックは個々によって同じ人はいない」
紙ナプキンの図は完成されていく。
ただの高校生の俺には多少理解が及ばない話ではあるが、こうして図にされると分かりやすい。
「話を聞くと、なんか凄い危険な匂いがするんですが……」
「正規手段で取得したVRギアがあれば、酷い事にはならないよ。酷いフィードバックが起きない様に、リミッターが設定されているからね。逆にそのリミッターが無ければ、とんでもない事になる可能性がある。例えば──」
皆沢さんは口元を隠す様に顔の前で手を組み、テーブルに肘を付いた。
ジッと俺の顔を凝視する皆沢さんの瞳は、真剣そのものだ。
「──VR内で体を鍛えたとする。体を鍛えれば鍛える程、VR内での運動能力は上がる。脳はその情報を蓄積し続けるんだ。その状態でリアルに戻り、脳が指示するままリアルの体で激しい運動を行なったらどうなるだろう?」
オーバーレブ。
無理やりレッドゾーンを回し捲ったエンジンの末路はエンジンブローである。
脳によるハイレベルな要求に着いて行けない体。
自身の想像に身震いする俺に、皆沢さんは安心する様に笑いかけてきた。
「さっきも言った、リミッターがあるからそんな事にはならないけどね。それに、VRゲームにはレベルアップその他による体力向上って仕様は禁止されてるんだ。ほら、パーソンチップを申請した時に色々検査されたろう?あの時点での君の筋肉量や、運動能力、容姿の三Dデータもパーソンチップには登録されているんだよ。君は君のまま、ゲーム内に存在する事になる」
皆沢さんに先程迄の真剣さはなく、口元に組んでいた手は既にカップに添えられている。
「なるほど。安心しました」
確かに、そんな状況が発生する機器に販売許可は下りないだろうし、安全対策は万全だろう。
これは、皆沢さん流のフィードバックに対する警告なのだ。
俺は感じた寒気をカップに残ったコーヒーと一緒に飲み込んだ。
まだ暖かさの残るコーヒーが渇いた口内を暖めてくれる。
皆沢さんは、少し寂しそうに、それでいて誇らしそうに、優しい視線を俺に向けてきた。
「これは章彦の……君のお父さんの研究を元に規定された安全対策なんだ。……君のお父さんはとても立派な研究者だった……」
「……ありがとうございます」
正直、なんと答えるべきなのか分からなかったが、何とかお礼の言葉を捻り出す。
父が確立した安全対策が、今のVRを支えている事に誇らしいという思いはあるが、実感なんて無い。
俺にとっての父は、書斎のドアなのだから。