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初雪が積もったら。

作者: 篠雨 創

 

「うわぁ! 先輩! 外! 雪です!」


 後輩の女の子は、先輩の男の子に弾んだ笑顔で話しかけます。子供のように無邪気で幼気な笑顔です。


「そんなにテンションあげなくても、雪は逃げないと思うよ」


 先輩さんは笑ってそう言います。ただ、窘めるわけでも呆れてるわけでもありません。先輩さんはそんな後輩さんの態度を良く目にしていましたし、そんな後輩さんを可愛がっていました。


「確かに天気という意味での雪は逃げないかもしれませんが、今目の前を通った雪は一瞬です!」


 後輩さんはどこか嬉しそうにそう言います。先輩さんが後輩さんのような調子ではしゃぐことがないのはいつものことでしたし、先輩さんと後輩さんはこれが普段の調子でした。


「だからってそんなにはしゃがなくても良くないかな?」


 後輩さんのその感情が理解できないわけではありませんでしたが、それでもあくまで先輩さんは冷静です。


「だって今年初めての雪ですよ! 楽しまなくてどうするんですか!」


 後輩さんは尚も嬉しそうです。


「きっとこの雪は積もらないです。すぐに溶けて消えちゃいます。それが初雪ってもんです。でもなんか嬉しいじゃないですか」


 後輩さんは照れくさそうにそう言いました。


「さしずめ君はワンちゃんなんだろうね」


 雪やこんこん、霰やこんこん。先輩さんの頭の中にあったのはこの歌です。


「じゃあ先輩は猫さんですか。コタツで丸くなるんですか。現代っ子ですね」


 確かに後輩さんからみた先輩さんはコタツで丸くなっているイメージでした。


「あはは、そうかもね」


 先輩さんは笑いました。


 それでも先輩さんも外が気にならないわけではありません。そっと窓際に行き外を眺めます。いつの間にか後輩さんもその隣で空を眺めていました。二人っきりの教室。二人っきりの部活でした。今日は二人以外はみんな帰ってしまっていたので、二人は静かに文芸誌の原稿を書いていたのですが、予想外な妨害でした。ただそれを二人が疎ましいとは思うはずもありませんでしたが。


「もう冬ですね。人肌恋しい季節です」


 後輩さんはしみじみ言います。


「君は恋人と予定があるんじゃないの?」


 先輩さんは不思議そうに訊きます。後輩さんは人当たりもよくいつも笑顔で、誰からも好かれる性格でしたので、恋人がいると決め込んでいました。


「む、なんですかそれ。いませんよそんな人」


 後輩さんはムッとした顔で先輩さんを見ます。


「あれ? てっきり君は恋人がいるもんだと」


 先輩さんは酷く思い違いをしていたことに気がつきました。


「まったく、勘違いしないでもらいたいです。本当」


 後輩さんは心底不機嫌そうな顔になってしまいました。先輩さんからしたらそんなに怒られるようなことをしたつもりはなかったのですが、思わぬうちにやらかしてしまったようです。こうなると後輩さんの機嫌を取るのは容易ではありません。


「はぁ。まあ良いです。初雪に免じて淡く溶かしてあげます」


 先輩さんはちょっとホッとしました。一難は無事去ったようです。駅前のケーキ屋さんのおいしいケーキを買う羽目になるところでした。


「でもケーキ食べたいです」


 買うことになりそうでした。先輩さんは今月買おうと思っていた本は図書館で読むことにしました。そうせざるを得ませんでした。


「で、先輩は私に恋人がいないと聞いてどう思いました?」


 後輩さんは多少機嫌が良くなっていましたから、先輩さんも多少明るい調子で話します。


「周りの奴らは見る目がないね」


 そんな、唐突に投げつけられた爆弾に、後輩さんは自分の体温が上がっているのが手に取るようにわかりました。顔も多分赤くなっていると思いました。


「お世話はいいですよ。ちょっと室温暑いです。ストーブ止めましょうか」


 素直になれずなんとか誤魔化した後輩さんの心中を汲み取れる程、先輩さんは恋愛心に敏感じゃありませんでした。


「それだと先輩も見る目がないってことになりますけどいいんですか?」


 後輩さんの少しおずおずとした質問に、先輩さんは少しきょとんとした顔をして、それから笑って言いました。


「僕はそもそも恋愛したことがないからね。そもそも目そのものがないんじゃないかな」


 もう少し違った反応を期待していたので、後輩さんは少しがっかりしました。この先輩さんはやっぱり朴念仁だと再認識しました。


「そもそもみんながしてる恋愛ってよくわからないから」


 先輩さんは今まで恋人がいたことがありませんでした。別に敬遠してたわけではありませんし、女性と縁がなかったわけではありませんでしたが、どうにもこうにも恋愛には結びつきませんでした。


「好きになる瞬間っていうのがわからないんだ。そもそも好きってなんなんだろうね。友達と、異性の境界線が目に見えたらいいのに」


 あまりこういう話を人としたことがなかったのに急に話し始めてしまった自分に対して、後輩さんが先ほど言ったように、室温が高かったせいで少し熱に浮かされてるのかもしれない、と先輩さんは思いました。なんでこの話を後輩さんにしているのか、自分ではよくわかりませんでした。あるいは外の雪のせいかもしれないと思いました。


「きっと先輩はわかってないだけなんですよ」


 そっと話を聞いていた後輩さんはそう言いました。


「それじゃあそれがわかる日はいつか来るのかな」


 先輩さんには、それはわかりそうもないことだと思いました。


「多分、わかると思います。それはある意味、人間の本能ですから。先輩の場合、頭で考えてもわからないかもしれませんけど」


 後輩さんは皮肉交じりに笑いました。先輩さんも別に嫌な気持ちになったりはしませんでした。これはいつものじゃれあいでした。


「つまり、先輩の周りも、見る目がない人たちばかりってことですね」


 後輩さんは努めておちゃらけたふうにそう言いましたが、内心ではもう死んでしまいそうな程恥ずかしい思いでした。


「あはは、お世辞ありがとう」


 それに先輩さんが気がつくはずはありませんでしたが。


 前々から先輩さんに恋人がいないことは知っていましたが、それでも先輩さんが恋愛すらしたことがないことに、後輩さんは本心から驚いていました。先輩さんに興味がないわけでもないということは、本当に周りには見る目がないのだと思いました。こんなに優しくて、こんなにかっこいいのに、なんて恥ずかしいことを思っていました。あるいは、先輩さんが良い人すぎるのがいけないのかもしれないとさえ思いました。恋は人を盲目にするということは知っていましたが、自分がそれに陥っていることには気がついていませんでした。それが後輩さんの、淡い初雪のような初恋でした。


「先輩は、誰かを好きになったら、どうしたいんですか?」


 少し漠然とした質問過ぎるかな、と後輩さんは思いました。


「どうしたいかわからないから、今まで恋愛してこなかったのかもなあ。あるいは、どうもしたくないのか」


 先輩さんはできるだけ真摯に質問に答えようとしました。そうしなければならないと思いました。


「どうもしたくない、とは?」


 後輩さんはさらに尋ねます。


「特別な事は何にもなくて、ただ毎日を変わらずに過ごす、みたいな? ごめん、自分でもよくわからないかも」


 先輩さんは自分が何を言いたかったのか見失ってしまいました。


 後輩さんはと言えばそれはもう大変でした。自分が先輩の恋人に一番近いのかもしれないと思ってしまったからです。毎日を変わらずに過ごす中で、一番恋人に近いことをしているのは、同じ部活の部長でも、クラスメイトにいるであろう女の子でもなく、自分だという自信があったからです。恋はやはり人を盲目にさせていました。盲目というよりは、後輩さんは自分と先輩さんのことしか考えられていませんでした。


「じゃあ、質問を変えますね。もし好きな人ができたら、その人にはどうしてほしいですか?」


 後輩さんは、自分がいつのまにかかなり積極的なアプローチをしていることに気がついていませんでしたし、先輩さんは先輩さんで、後輩さんにアプローチされていることに気がついていませんでした。二人の距離は近づいているようで、近づいていませんでした。


「そうだなあ。もし、仮に僕に好きな人がいたとして、うん、多分その人と僕が付き合うってことはなさそうかな」


 後輩さんには先輩さんの思考経路がよくわかりませんでした。


「ちょっとよく、わかりません」


 なんだか焦りすぎてるかもしれないと後輩さんは思いましたが、聞かずにはいられませんでした。先輩さんも、今日のようなどこかロマンチックな日は、一般の人たちがするような恋愛話も悪くないかもなと思い始めていました。先輩さんは知りませんでしたが、おそらく今している会話は一般の人たちがする『誰が好きだ』のような恋愛話とは全然別物でした。


「好きな人には幸せになってもらいたくて、そのためには多分僕のような人間でなくて、もっと隣にいるべき相応しい人がいるだろうからね」


 後輩さんは先輩さんの言っていることがあまり理解できませんでした。言葉上の意味はわかりましたが、どうしてもそう考えられませんでした。好きなら隣にいるべきなのは自分だと思うのが普通なことだと思っていました。


「これは僕のエゴだよ。誰にも押し付けない、僕だけのエゴ。仮に僕がその人に告白をして良い返事を貰ったとしても、それはその人が僕のことを好きな証明にはならないだろう? 好きでもない人と恋人でいる時間。そういう時間を、好きな人には過ごしてほしくないんだ」


 後輩さんにはようやく先輩の気持ちがわかってきました。彼は本心から幸せを願うことのできる人なのでした。その為には、自分も犠牲に出来る人なのでした。それはとてもとても、悲しい事のように思えました。


「先輩は、相手が自分を好きかどうかわからないのが、怖いんですか?」


 少しだけ、後輩さんの声は震えているようでした。


「そうかもしれないね。まだそれに触れた事がないからなのかもしれないけど」


 先輩さんはそう言うと、ふと窓の外をもう一度見てみました。気がついていませんでしたが、雪は次第に強くなっているようでした。


「雪も強くなってきてるみたいだし、下校時間ももうすぐだ。そろそろ帰ろうか」


 先輩さんと後輩さんは鞄を持って教室を出ました。玄関から外に出ると、辺りは思っていた以上に雪化粧に包まれていました。


「寒いです」


 後輩さんの口からふと零れたその言葉の真意は、先輩さんにも、後輩さんにもわかりませんでした。


「寒いね」


 先輩さんもただそう返しました。


 二人はゆっくりと帰り道を歩きました。先輩さんはさりげなく車道側を歩いていましたし、後輩が転ばないか気にかけていました。後輩さんもそれに気がついていたので、わざと転んでしまおうかとも思いましたが、やめました。


 二人の別れ道の所にある小さな公園にやってきました。辺りはもう暗いですし、雪も降っているので人影は見当たりません。


「ちょっと寄って行きませんか、先輩。初雪をもう少し楽しみたいです」


 後輩さんはそう誘いました。建前としてはそうでしたが、本音は全然違いました。


「奇遇だね。僕もそう思っていたところだ」


 後輩さんは、少しだけ、とても、勇気を出すことに決めていました。たとえこの想いが初雪のように淡くなくなっても、後悔はしないと決めました。そうは言っても、あの時にそうしなければ、まだ先輩とあのままでいられたのに、なんてきっと後悔するんでしょうけれど、それでも、勇気を出すことにしました。きっかけも、いつ決めたのかもよくわかりませんでした。人肌が恋しかったのかもしれませんし、先輩さんの恋愛観に触れたからなのかもしれません。彼と話している時に決まったのかもしれませんし、さっき歩いているときに決まったのかもしれません。あるいはずっと前から決まっていたのかもしれませんでした。


 二人はベンチに座りました。雪を払った木の感触はとても冷たかったですが、後輩さんにはそんなこと気になりませんでした。気にできませんでした。


「あのっ、先輩」


 きちんと口が動いていない気がしました。雪の中や寒空の下で告白するのは、とても非合理的な事だと初めて知りました。できればこれを体験するのは一度きりだけにしてほしいと、後輩さんは思いました。


 それでも、止まっていられませんでした。


「先輩は、誰かが自分の事を好きでいない時間があるのが、怖いんですよね。その人の、幸せを願っているから」


 後輩さんはぎゅっと手を握って、下を向いたまま、そう話し始めました。ボンヤリと雪を眺めていた先輩さんは、そんな今まで見せた事のないような彼女の姿に驚き、真面目な顔になりました。


「それなら大丈夫です」


 後輩さんは続けます。


「だって私」


 後輩さんの心臓は大きく高鳴っていました。顔が赤いのは、きっと、寒さのせいではありませんでした。


 そうして、はっきりと目を見て、その言葉を告げます。


「ずっと前から、先輩が好きでしたから」


 雪は、しんしんと降っていました。しばらくは止みそうもありませんでした。初雪には珍しく、それなりに積もりそうでした。


 後輩さんは顔をさらに真っ赤にして、またうつむいてしまいました。先輩さんは、全く予想だにしていなかった展開にびっくりしましたが、きっと自分が黙っていてはいけない、と思いました。


 後輩さんの想いを受け止めて、初めて先輩さんは自分の気持ちを知りました。それがなんと名付けられるかも知りました。きっとそれが恋でした。


「今きっとわかった。これが君の言ってた『わかる』ってことなんだろうね」


 後輩さんはあまりよく飲み込めていないようでした。不思議そうな、何かを窺うような目で先輩さんを見ました。


「これが『好き』っていう気持ちだ。僕は、君が好きなんだ。友達の先、一人の女の子として。ようやく境界線が見えたよ」


 後輩さんは言われた言葉を頭の中で反芻して、ほんの少しの時間を置いて、ようやく理解しました。そうしたら、もう恥ずかしくて恥ずかしくて、さらにさらに顔を真っ赤にしてしまいました。その場に身を固くして座っているのがやっとでした。もうまともに顔を見れる状態ではありませんでした。


 先輩さんは思いました。今日、後輩さんに恋愛話をしたのは、きっと自分の事をわかってほしかったからなのだと。理解してほしかったのだと。おそらくは、好きになってほしかったのだと。


「えっと、だからさ」


 先輩さんは言葉を紡ぎます。静かに雪が降る中で、それは綺麗で迷いのない声でした。


「僕の、恋人になってくれないかな」


 後輩さんはもう、首を小さく縦に振ることしかできませんでした。それが精一杯でした。


 それからなんだか照れ恥ずかしくなってしまった二人は、言葉をほとんど交わすことなく公園を出て、さよならをしました。


 帰り道、先輩さんは今日の先程までの事を思い出し、改めて自分の気持ちの実感を深めていました。至極ありきたりで、当たり前な発想ですが、後輩さんを大切にしよう、と思いました。


 後輩さんはというと、よくわからないままいつの間にか家に着いていて、布団を被っていて、また真っ赤になっていました。




 次の日の朝二人が目覚めて目にした景色は、初雪の積もった、真っ白な世界でした。


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