十一章 伸びる殺人者の手
「――では、くれぐれも点滴が落ち切るまで動かないように」
「分かってますよジュリト様」
ベッドに横になった蒼髪の青年は、そう答えて枕元にいた自分の頭を撫でる。
「じゃあねレティ。一時間ぐらいで終わるから、隣で静かに勉強しててね」
「うん」
「行きますよ、エレミアの娘」
「はーい」
黒服の神父に連れられ医務室から隣室、不死省の事務所へ移る。彼は部屋で一番大きな机に着き、斜め前の片付いた机を示す。
「そこに座っていて下さい。皆仕事中ですので、くれぐれも騒がないように」
「分かってるよ」
事務所には二人以外にも四、五人が入れ替わり立ち替わり職務に励んでいた。時折最高責任者の神父の所へも相談や許可を求めにやって来る。多少毒舌はあるが、どうやら上司としての信頼はしっかり獲得しているらしい。
初等部に入学するにあたり、最低限必要な勉強のドリルをやる。言葉はもうほぼ完璧だが、足し算引き算はまだ少し苦手だ。父母は両手の指の数以上の計算のやり方を教えてくれなかった。
「あの馬風情とは違って大人しい娘ですね」三人目の相談者を帰しながら、神父は感心の色を見せた。
「そうかな?」
養父の正体が一角獣、白馬に角が生えた者なのは前に見て知っていた。でも比べられる程彼が騒がしいとは思わない。子供の時でも悩んでいたせいか、比較的物静かな印象だった。
「まあ、一時でも坊ちゃまの庇護を受けていたのです。当然と言えば当然ですね」
勝手にそう納得して書類に判子を押し始める。養父の話では厭味の一つも言われそうだったのに、拍子抜けだ。
捺印を終え、彼は立ち上がってこちらへ来た。左ページの一問を指差す。
「計算は苦手なのですか?ここ、間違っていますよ」
「あ!本当だ」消しゴムでゴシゴシ。「……えっと、二十三引く六は十……七?」
「正解です」
「やった!」正しい答えを書き直す。「教えてくれてありがとう神父様」
「礼を言われる程ではありません。それはオリオールが買い与えた物ですか?」
「うん。昨日書店で一緒に選んだの」
神父はパラパラ捲り、あなたの知能なら、もう少しレベルが高い方がいいですね、ぽつりと呟く。
「そう?」
「ええ。異界人であるにも関わらず、馬風情より余程賢い。知性の高い者は好きですよ」
それからまた十分程互いのやる事に没頭した後、再び声を掛けられて事務室を出た。階段を降りて食堂へ行き、好きな物を頼むよう言われる。
「んーと、じゃあアイスココア」
以前友達と来た時と同じ人懐っこい笑顔のおばさん。彼女が淹れてくれた丸い氷たっぷりの液体を一口含む。冷たいが、薄まっているせいか余り甘くなかった。
ロビーのソファに移動し、ホットコーヒーを持った彼と並んで座る。
「神父様って意外と親切だね」
「あなたは坊ちゃまの元養女、当然です」
よっぽど聖者様が好きだったらしい。養父も言っていたな、あの人は『ふぇち』だって。
「あ、そうだ」小さな肩掛け鞄を探り、油紙の袋の中から今朝焼いたばかりのクッキーを取り出す。「勉強見てくれたお礼、あげる」
「ありがとうございます。―――手作りですか。中々良い味ですね」もぐもぐ。
「ああ、ジュリト。いたのね」
通り掛った白衣の女性が声を掛け、それから自分の方を見る。「あら、この子、確かLWPの」
「ええ。オリオールが調整中なので面倒を見ています」
「そうね。一人にしておいたら……」
女性は不安そうな表情を浮かべた。?何だろう?最近、よく皆が自分の前でこんな顔をしている気がする。
「で、何の用です?副聖王がまた何か言ってきたのですか?」
「そんな所。ちょっと来てもらえないかしら?すぐ済むわ。――お嬢さん、悪いけど少しだけ待っていてもらえる?」
「何なら戻っていようか、事務所?」
「そうですね、お願いします。道は分かりますね?――宜しい。では行きましょうリュネ」
「悪いわね」
溶け残った氷を噛み砕き、カップをゴミ箱に捨てて階段へ向かう。勉強に戻る前に一度養父の様子を見て来ようかな?
「お嬢ちゃん」
不意に玄関外からエレミア語で呼び掛けられ、振り返る。くすんだ短髪の赤毛、年は家族の機械人形やルザと同じくらいの男の人が立っていた。
「お兄さんもエレミア人?」
「ああ、ボクサーだ。お嬢ちゃんはレティって言うんだろ?向こうでは近所じゃなかったから、知らないのも無理は無い」
そう言えば、クレオがシャバムにはもう一人LWPがいると言っていた。このお兄さんの事だったんだ。
「俺はここで政府員のバイトをしているんだ。ま、クレオと違って警察紛いの雑用係だがな」
「へえ……」
変だ、怖い……。同じエレミア人なのに、何でこんな冷たい目をしてるの?
「ちょっといいか?実は今、そこにお嬢ちゃんに会いたいって人が来てるんだが」
「え?誰?」
遊び友達だろうか?でも元気一杯の彼等なら、大人に伝言など頼まず直接呼びに来るはずだ。
「ヘレナって女と、太っちょの親父は確か……」
「イムおじさん!?嘘!何処にいるの!?」
突然遠くに行ってしまった家族の名前に、僅かな不信感が吹き飛ぶ。駆け寄って彼の後ろを見回すが、二人の影も形も無い。
「悪い、別の所で待っていてもらっているんだ。一緒に来てくれないか?」
「え、でも……まだ点滴しているオリオールを置いて行く訳には……あの、ちょっと待ってて。上に行って話してくる」
すると、男性は明らかに苛立ちを見せた。
「それじゃ間に合わない。二人は次の船で帰らなきゃならないんだ。なあ頼む!お嬢ちゃんだって一目会いたいだろ?」
怪し過ぎる。でも、もしも二人が本当に来ているのなら……。
「……うん、分かった。行く」
ガサッ。鞄の中に手を入れ、自分でも分かるぐらい硬い表情で言った。




