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ババア、突風のプラトニック

【前回のあらすじ】

 八畳ほどの部屋につれこまれたゐきるは、右手に鏡台と化粧道具ののった長机があり、正面と左手に西洋風の召し物がずらりとならんでいるのを確認しながら、座ってくれとうながしてくるジーナにむかい、申し訳ないが、わしは着かざらないと宣言する――。化粧道具を並べながら、なんでだいと問うジーナ――。ゆく先々で、自分そのものと、出合う人そのものとの肝がぶつかり合う。そういう魂同士の邂逅をもとめてこの世界にやってきたのだと説明するゐきる――。そうしてその言葉をきいた途端、ジーナの手が、にわかに止まったのである。



「ほー。着かざらない、魂同士の邂逅をね。なるほど」

 そう言いながら、ジーナはおもむろにドレスから手をはなした。それから長机のほうへ行き、机の端に腰を下ろした。そうして、腕を組み、首を斜めにかたむけた姿勢で、ゐきるを見つめてきた。能面のように、感情のない面持ちであった。感情のない面もちで、ただ、ゐきるを見つめているのだ。

 いくらかの時間がすぎた。

「これはまた。とんでもない侮辱を受けたもんだね」

 ゐきるを見つめたまま、ジーナはそのほとんどが息であるかのようなかすれたつぶやきを口にした。

「あんた、そこまで言うには、それ相応の覚悟があるんだろうね。もっともあたしは、これまで生きてきて、人が人をそこまで侮辱するのを初めてきいた。一体どんな人生を送ったら、そこまで相手の尊厳を踏みにじることができるのか。あたしにはこれっほども想像がつかない。ああ。怒りで、全身が煮えくりかえるようだ。魂のぶつかり合いだと。そんなもんじゃない。命の尊厳を踏みにじる。あんたがやっているのはそういうことだろう」

 ジーナが何を言いだしたのかわからず、ゐきるはただうろんな表情をうかべて、彼女の言葉を聞くばかりであった。

「さあ、聞かせてほしいね。あんたの覚悟を。さっき合ったばかりの、まだ大したゆかりもない人間の命の尊厳を踏みにじる。そこまでにいたるのに、一体どれだけの理由があんたのなかで積みかさなったっていうのか」

「ジーナさん、あんた。わしは、あんたが何を言っているのか」

「ばかを言うんじゃない」

 それはまるでゆるやかな波動であった。先ほどとちがい、ジーナは声を張りあげたわけではない。だがゐきるには、ジーナそのものが、ゐきるを直撃し、通りぬけていったかのように感じられた。


「あんた、今、あたしは人ではないと、そう言ったじゃないか」


「そんなッ。間違っても」

「それともまさか、今さら、あたしがメイドだということを認識していないとでも言うのかい」

「メイド――それは、わかっている、つもりじゃが」

「メイドの仕事は、家主と、その家族と、その客人の世話をする――メイドってのは。ゐきる様。人以下の何かがやるなりわいなのかい」

「何をッ。メイド――女中は、それはそれで、ひとかどのなりわいじゃと。わしは」

「ああそうさ。ひとかどのなりわい。あたしは、自分のメイドというなりわいにほこりをもっている。家主とその家族をうやまい、この家に住みこんでお世話をする。あたしはこの家に、あたしの、毎日の昼夜――つまりあたしの時間のすべてをささげている。そしてそういう、自分の時間の使い方にほこりをもっている。なあゐきる様。それは――」

 体がざわつく。

 わしは何を言ったのだ。

「――それは、あたしの魂じゃあないのかい」

「あ――あ――」

「教えてくれ。あたしの時間のすべてであるメイドというなりわいがあたしの魂でないなら、あたしはなんだ。どこにいる」

「ジーナさん、わしは――」

「ばかを言うんじゃないよッ」

 今度は、咆哮であった。再び、ジーナという波動がゐきるの全身をつらぬいた。

「魂のぶつかり合いをもとめてこの世界にきた。あんたの言葉だよ」

「あ。あ」

「ゆく先々で。邂逅。――つまり、誰と合うか、決めないということだろう。そこで出合った人とぶつかり合う。そういうことだろう」

「それは、たしかに。そうじゃ、じゃが」

「ばかを言うんじゃないよッ」

 三度目であった。

 そうでもなかった。

「あんたは今、あたしと出合っている。あんたの条件によれば、あたしと魂のぶつかり合いがおこなわれるはずだね。だけど」

 ゐきるの全身がおこりのようにがたがたと震えだした。ジーナが何を言わんとしているか、ゐきるがジーナに何を言ったのか、考えより先に、体が理解したのである。

「だけどあんたは。あたしの魂の一部である、あたしの客人への仕立てを、その仕立てがどんなものか見ないまま、いらないと言う。あたしにそれをさせないと言う。あたしの魂とは、ぶつからないと言っている。つまりそれは」

「ああ、わし、わしは」

「人と魂のぶつかり合いをする。あんたのその言葉が嘘でないなら。あたしの魂とはぶつからない――つまりそれは――


 ――あんたはあたしに、人ではない、そう言ったのだ」


「た、大変に申し訳なかったあッ」

 ゐきるは椅子に座った。

 ジーナが背後に立ち、鏡越しにゐきるを見ながら、指先でゐきるの頬にふれてきた。

「ゐきる様。あんた、いくつなんだい」

「六十二になる」

 ジーナが、ほお、と息をはいた。

「あんた、お歳の割にかなり張りのある肌をしてるね。さすが邂逅を重ねると宣言しているだけある、と言ったところかね。化粧ののりがよさそうだ」

 ジーナはしばらく、頬や髪をさわっていた。そして、それからゐきるを立たせると、むきを変えさせながら、ドレスを見つくろいはじめた。選ばれたドレスは、長机の上にならべられている。ゐきるは、自分が仕立てられるための時間が流れているかと思うと、いたたまれず、どこを見たらいいかすらわからなかった。

 そうして、ちらりと、鏡に映る自分の姿を見た。ジーナは誉めた。が、それでも到底薄さを否めない頬が目に入った。それから、白髪まじりの髪。目つきのきつい、初老の女。それが目に入った。こんな初老の女を仕立てて、着かざって、どうする。陰鬱とした気分が、立ちあがってきた。

 ちがう。

 これはジーナの魂とのぶつかり合いだった。

 仕立てたところで。着かざったところで――それは、仕立てそのものの否定であった。

 肝が目を覚ました。

 熱が、たぎりが、立ちあがってくる。

「ジーナさん」

「ん」

「全力で、ぶつかる。あんたは全力であたしを仕立て、あたしは、全力で仕立てられる。ようやくわかった」

 ジーナが手をとめて、振りかえり、ゐきるを見つめてきた。

 笑っていた。

「よし。こんなところか」

 そう言うと、ジーナはゐきるを姿見の前に立たせた。背後から、一つ一つ、ドレスをゐきるの体の前にまわし、合わせはじめた。

「あんたは体形が崩れてないし、細いから、こういうのが合うと思うんだけどね」

 鏡のなかの初老の女。

 羞恥が込みあげてきた。

 これはなんだ。

 自分に問うた。

 ――年を重ねたものは、華美に着かざるのは恥である。

 ――老いたものは、老いたなりの装いをするべきである。

 否。

 国によって、ちがったのではなかったか。

 日本でない国では、老いたものが若者と変わらない装いをすることが平常な国が、多くあったのではなかったか。

 くだらない。

 どうでもよくなってきた。

 あらためて、肝を入れなおして、鏡のなかの女を見つめる。贅肉は少なく細身。目は切れ目がちで、瞳につよい光がある。背は、低くも高くもない。ドレスが、体にあてがわれては外されていく。体の線はでていたほうがいい。華美なものも、肌をさらす量が多いものもかまわないが、何か、必要なものがある。それを多く含んでいるドレスと、少ないドレスがある。

 一つ。

 これは、と思うドレスがあった。

 白緑色の、絹のドレス。襟ぐりが大きく開いている。袖は手首まで。丈はくるぶしまで。かざりの類はあまりない。腰より上にこれといった意匠はなく、腰より下が、大きめのひだがならぶように縫われている。絹の光沢と、自然に生まれるしわそのものが存在の主張のようなドレス。

 圧倒的な気品であった。

 白緑という色の気品。しわの一つすら意匠になりうる絹の気品。全体の意匠がはなつ気品。ちがうドレスがあてがわれていても、ゐきるの視線は、長机に置かれたそのドレスに注がれつづけたのである。

 すべてのドレスの見たてを終えた。ジーナが、ゐきるの両肩に手をおき、鏡ごしに顔をのぞきこんできた。笑いをこらえている。

「決めているんだね。白緑色の、絹のだろ。誰だってわかるよ」

 ゐきるも、つられて笑った。

「さあ」

 衝立のなかで、ジーナに介助されてドレスを身につけた。

 そうして、再び、姿見の前に立った。

 これが、わし――。

 ゐきるは自分の姿を茫然と見つめた。

 これが、わし――。

 鏡のなかに立っている白緑色のドレスの淑女を見つめながら、ゐきるは心のなかで、その言葉を繰りかえした。



 薄ぐらい礼拝堂に、笑い声が響いていた。

「おい、神父、何笑ってやがんだよ」

「追いだされたなどと言うから、今度は何をやらかしたのかと思えば」

 パストルは一度笑うのをやめ、真顔になって白い髭を撫ではじめたが、しばらくするとうつむき、再び肩をゆらした。

「おい」

「ああ悪い悪い」

 パストルは立ちあがると、聖卓のほうへむかった。そうして祭壇のメルヒェン三神像の前までくると、正面の極端に大きい像に後ろ髪を引かれながらも、右の像の前に立った。振りむきざまの満面の笑み。着物姿のパンチパーマ中年男性――メルヒェン神像である。ただ振りむいているだけでなく、親指をくわえている。色のない銅像でもそれとはっきりわかるほど――酔っているのかそれとも惚けているのか、何にせよ、浮ついているのがはっきりとわかる――緩みきった表情をしている。やりすぎを司ると言われている。

 興味なかった。

「お前が恋とはな」

「恋。これが、この感情が、恋、なのか」

 ジョーが、まるで自らの心を見つめるかのように、自分の手のひらを見つめた。すぐにやめ、会衆席の背もたれに腕をかけ、足を組んだ。

「いや、恋はしねえ。俺は、恋はしねえんだ。そう決めてんだ」

 しばらく間があった。

「ジョー。まだ、気にしているのか。あのときの」

 パストルは、右のメルヒェン神像の前から、左の神の子像の前へ移動しながら言った。

 ジョーは返事をしない。

「恋はしない。オヤジも貴族も嫌い。なのに、恋組の仲介屋をやってる。なあ神父。俺のロールは、ぶっ壊れちまったのかな」

「ロールが壊れるなどということはないだろう。こんがらがることはあるがな」

 パストルは笑いながら言ったが、ジョーは笑わなかった。

「恋か」

 ジョーがそうつぶやいたのが聞こえた。

「あんとき、オヤジがどうして帰ってこなかったのか、本当はさ、もうわかってんだ」

 いつもしている雑談と同じような調子で、ジョーが言った。

 十年。

 十年の間、決して口にださなかったことだった。

「俺、見ちまったんだよ。オヤジが、オフクロの写真を見ながら酒を飲んでるのをさ。笑ってたよ。それで、ああ、オヤジは、後ろめてえことは何もねえんだって思った。それから考えたんだ。どうしてあんとき、オヤジは帰ってこなかったのか」

 小さな台座の上に座っている、こちらも着物姿の、女児の像である。否、女児かどうか、はっきりはしていない。神の子は膝をそろえて座りこみ、床に両手をつき、頭を深くたれた姿勢である。つまり、顔が見えないのである。わかるのは、おかっぱ頭だということのみであった。

「それから色々考えて、思いついた。約束だったんじゃないかって」

 床のついた両手の下に、何かはさまっている。張り扇だと言われている。まんべんなさを司ると言われている。

 張り扇とは何であろうか。

 パストルはすこし考えてみた。

 あんまり興味なかった。

 ジョーが、ああと声を上げて、会衆席に倒れこんだ。

「どうすりゃいいんだ。今さら、貴族なんて柄じゃねえし」

 やはり、神の妻だ――パストルは指先で突起にふれる。おうふ。おうふこの感触。どうしたこんなにして。神の妻よ。どうした。パストルは右手で突起を撫でまわしながら、左手で自らの禿頭をぺしぺしと叩いた。

 後ろめたさがないなどと言うことはないんじゃないか――その言葉を、パストルは飲みこんでいた。



 扉が叩かれた。

「おいまだやってんのか。いくらなんでも長すぎねえか」

 仕立てを終え、姿見の前で、ドレスのしわなどをつくろっているところであった。

「もう仕上がってるよ。入んな坊っちゃん」

 ぶっきらぼうに扉が開かれ、リーゼントに濃緑の詰め襟服のジョーが入ってきた。ジーナから動くなと言われていたゐきるは、視線のみを、ジョーへむけた。ジョーは入口で立ちどまっていた。ぼんやりとした面もちで、口をひらいたまま動かないでいた。

「女の化粧をせかすんじゃないよ」

「そ、それにしても、なが、長すぎるだろ」

 そう言ったジョーの声が、震えているのである。どう映っているのか。何に、声を震わせているのか。ゐきるの心と体は、期待と不安で強ばった。姿見に映っている自分の姿を見つめた。それはもう見つめた。しかしやはり、ジョーの目にどう映っているのかなど、わかりようもない。

「なんだい。だらしない。どうなんだい坊っちゃん」

「どうって。お前。ジーナ」

「言わなきゃわかんないだろ。ほら。どうなんだい」

「いや。そ、そりゃあれだ。ずいぶんあれだ。見ちがえちまった」

 ジーナが、ふん、と鼻を鳴らした。

 ゐきるはうつむいていた。うつむいて、熱にまみれた肝に、ただ翻弄されていた。細い体と心の臓の表裏が逆になってしまったのかと思うほど、全身がどくどくと脈うつのを、放心したように味わうばかりだったのである。

「よし。それじゃ今、表に馬車をまわさせるからね。坊っちゃん。あんたっしっかりゐきる様をエスコートするんだよ」

「あ、あたりめえだろッ」

 扉のほうへむかおうとしたとき、ジョーと視線が絡みあった。彼は、すぐにあわてた様子で顔をそむけた。



「それにしても、どうしたものだろうか。わしは」

 庭園を眺めながら、ゐきるは溜息まじりに言った。

「迷惑、だったか」

 ジョーが足を組み、両腕を上げて頭の後ろへまわす。

「いや」

 それから、ゐきるはうつむき、むしろ、感謝している、と小声でつぶやいた。ジョーが、ゐきるの顔をのぞきこんできた。

「それなら、まあ、いいけどよ。じゃああれだ。とりあえず、考えないってのはどうだ。ゐきるさん」

 考えない。

 ゐきるは声を上げて笑った。

 何を考えようとしていたのだと思った。

 ジョーとぶつかった。ジーナとぶつかった。今は、その結果であった。ただ、それだけのことで、そしてそれは、ゐきるがこの世界にのぞんだ、それそのものであった。

「そうじゃな。ではまず、しばらく馬車に揺られようか」

 そう言い、二人してくっくと笑いあった。

 通りに出た。街は変わらずアベックであふれており、先ほどと道はちがうが、ならんでいる店も、やはり、アベックへむけた店ばかりであった。 

「やはり、この街はアベックばかりじゃな。好ましい。たぎらしいかぎりじゃ。だが、尋常ではないと言えば、尋常でない。この世界は、こう、何か一つのことに特化した国が、多くあるのか」

 それを聞くと、ジョーが納得したように小きざみにうなずいた。

「ゐきるさん。あんたやっぱり、リアルなんだな」

「先ほども言っていたな。ちがう世界からきたという解釈でよいなら、そうじゃ」

「正確には元となった世界だ。いや、本で読んだっつうだけだけどな。この国は、まあ、見てのとおりだぜ。恋愛の国。恋人達の出あい。はぐくみ。そしてすれちがいと、別れの舞台。ところで、ゐきるさん、あんた、どこの国に転移したんだ」

「転移――降りたったのは、この国じゃ。お前と出合ったところから、そうはなれていない」

 ジョーが急に押しだまった。

「恋人を探すつもりで、この国を選んだのか」

 しばらくして、そう言った。

「まさか。ただ、邂逅を欲した。人との、出あい、ぶつかりあい、別れ。希望地を聞かれて、そう答えた。ああ。得心した。色恋のことだと解釈されたのだな」

 ジョーが息を吐きだす空気の音が、ゐきるの耳にとどいてきた。

「先ほど言ったとおり、まさかこんな国が存在するとは露ほども想像しておらんかった」

 何かが、生まれている。はっきり、生まれている。動いている。

 どうしたらいいのか。やめたいと思っているのか。何もわからなかった。

「もうすこし、この国について話してもらえんか」

「この国は、そうだな。商業の国だな。カップルの半分は国外からの旅行者、滞在者だから、経済の回りかたとしては、観光地みてえなものだろうな。

 この国には、恋愛を展開させるあらゆるものがそろってる。遊園地なんかの娯楽施設やホテル街なんかもある。

 だがまあ、どうやら、この国には、良くも悪くも関係を促進させる機能しかないようだ。つまり、元々相性がよくないもの同士は、別れが早まるってことだ。外から来た連中は恋のサポートを期待しているわけだから、これはまあ、皮肉な話になるな。それから、まあ、娯楽のそろう街にはつきものなんだろうが、裏の顔もある」

 リーゼントジョー。

 ゐきるはその横顔を見つめながら、その通り名がもつ印象と本人との差異を、味わっていた。

「ジーナからすこし聞いたぞ。自警団のようなことをしてるそうじゃな」

 それを聞くと、ジョーはおいおいとつぶやきながら、がっくりとうなだれた。

「ジーナには、もうちょっとわかってもらえてると思ってたんだが。俺がやってるのは、観光組合にいるなじみがもってくるトラブルの仲介屋だ。揉め事の間に入って、まるくおさめる。そういうなりわいをやってる」

「先ほどのエヴェンティとは、いささかちがうようだな」

 ジョーがうなずいた。

「こんな見た目してるから、同じように思われても仕方ねえが、俺の仕事は、荒事にせず、折りあいをつけさせることだ。うまい仕事ってのは、他との折りあいがうまくついてる仕事ってことだ。島がかぶる。丁場がぶつかる。人が大勢いりゃ、そうなる。そこにはいって、落としどころを決めさせて、見とどける。そんなことをやってる」

 折りあい。

 その言葉がもっている何かが、ゐきるの心にふれてきた。

「――お主。最初に道で合ったときと、大分印象がちがうな」

「ん。そうか」

「ふむ。理知的で、男じゃと思う」

「おと、よしてくれよ。そういう、あれは」

「あれ、とは」

「なんでもない」

「そうか。ところであううッ」

 突如、天地が逆転したかのようなすさまじい振動が二人を襲った。

 揺れつづけている。

 地がかたむき、ジョーが壁に押しつけられ、ゐきるはその彼に覆いかぶさるような格好になった。

 何かがはげしく割れる音が、ゐきるを取りかこみ、天から光がさした。ジョーも、馬車も、地面も何もかもわからなくなった。激しい衝撃がゐきるの全身を襲い、意識が飛びかけた。そうやすやすと。衝撃の波にさらされながらも、ゐきるは心のなかでそうひとりごちた。何度も、そうやすやすと渡してなるものか。ゆっくり、衝撃が引いていく。意識を、寸前で取りもどした。目をあける。木片が散乱した石畳。馬が駆けさっていくのが見えた。

「ゐきるさん、大丈夫か」

 彼の声がした。手をついて上体を起こし、周囲を見わたした。馬車が、ただの平たい台車になっていた。ゐきるのすぐに近くに、車輪が、一つ横たわっている。

「どうやら、車輪が外れちまったみたいだな。申し訳ねえ。手入れは、きちんとさせていたはずなんだが」

 ジョーが駆けよってきて、ゐきるのそばにしゃがみこんだ。手を借りて立ちあがろうとして、足首ににぶい痛みが走り、ゐきるは再び石畳にはいつくばった。

「ゐきるさんッ。足首を痛めたのか。額からも血が出てる。本当に申し訳ねえ。昔から屋敷にあった古い馬車で、オフクロの思い出があって、どうにも処分できなくて、手入れを繰りかえして乗っていたものだった。まさか客人をこんな目に合わせるなんて。本当に申し訳ねえ」

 御母堂だと。

 ジョーに伸ばしかけた手を引きもどした。

 亡くなった、御母堂との思い出の馬車だと。

 両手で体をひきずり、車輪にはいよる。

 古びた鉄製の車輪。

 見つめた。

 見つめこんだ。

「終わるのか」

 言っていた。

 車輪を、鷲づかんだ。

 そうしてあろうことか、ゐきるは顔を上げ、木台車(旧馬車)を、きっと睨みつけたのである。

「本当にやりきったのか。それだけ、聞かせてもらいたい。きっと、わしよりも、もっとずっと長い年月を生きてきたのであろう。じゃから、一つだけ、聞かせてもらいたい。やりきって、全うしきって、馬車を終え、木片と化すのか」

 木台車(旧馬車)から、光が溢れだした。

「お、おめえ」

 木台車がガタガタと揺れる。石畳を叩くように、上下に揺れている。

「お、おめえ。まさか」

 ジョーが木台車と車輪を交互に見つめる。

「これを」

 そうして、やがて、ジョーは両手で車輪を持ちあげると、木台車(旧馬車)に歩みより、わずかに残った軸へとあてがった。

 木台車の光が強くなった。

 木台車が、あろうことか、かたむきながら、きしませながら、再び、自らの足(車輪)で、前進をはじめた。

 わしは、何をした。

 今度はゐきるの番であった。

 この気品あふれるドレスをきて、何をした。まだいくらか馬車に乗っていただけではないか。どうにか、自力で膝をついた。やれる。ドレスをきたババアは、やれる。世界が暗くなり、一度座りこんだ。額を触った手が赤く染まっていた。この程度。膝立っている。今度は、もうすでに膝立っている。

 ゐきる――。

 ゐきるは目をこらした。目の前で声をかけてきていた突出したかしらつきが――濃緑の詰め襟服が――しゃがみこんだまま、背中をむけていた。

「ほら」

 そうして、背中をむけたまま、後ろへ、ゐきるのほうへ、両手を差しだしているのである。

「これは」

「だまっておぶされ」

 心は、決まっていた。

 完全に定まっていたわけではない。

 折りあい。

 引く必要はない。突きぬけたままでかまわない。それでも、隣りあっていられる。関わりあっていられる。そういったありかたを知った。そういうことであった。まだ言葉で返答できるほどではなかった。ゐきるは緩慢な動作で、目の前の肩に手をかけた。彼は何も言わない。そういう男なんだ、ゐきるは思った。

 ジョーが歩きだした。広い背であった。その広さが、ゐきるの体を押しかえしてくるたくましい筋肉が、ゐきるの心の臓を、打ちならしはじめていた。

 木台車とともに、歩みだした。

 そのとき、後ろから、規則的なかけ声と馬車を引く音が聞こえてきた。

 ジョーが、自然と道の端による。

「止まりなさいッ、止まりなさいッ、これは大変なことだよッ」

「なんでえ、はしゃぐさん。こんな街中で」

「あたしのおばあちゃんがいるよッ、そしておばあちゃんはどうやら現状――LOVEだよッ」

「はしゃぐさんのばあ様だってえ」

「LOVEだってえ」

 聞きなじんだ声であった。

 かけ声がゐきるたちの横で止まった。顔をむける。ねじり鉢まき、さらし、白ふんどし姿の屈強な男三人による人騎馬であった。そしてあろうことか、その上に乗っているのは――茶色のくせ毛、団栗眼、愛くるしい笑顔――ゐきるの愛孫、はしゃぐであった。

「はしゃぐ」

「あれ。おばあちゃん顔色がよくないよ。額からの流血もあるよ」

「ああ、かすり傷じゃ。体調も、ここまでで何度か昏倒したが、もう慣れつつある。大事はない。お前はどうしたんじゃ」

「はしゃぐはね、これから橋をかけにいくんだよッ」

 はしゃぐが後ろの荷馬車を指さした。荷馬車には、大量の木材がしばりつけてあった。

「はしゃぐさんのばあ様。今、あっしらにはこの方が必要なんでえ。申し訳ないが、しばらくお借りさせてくだせえ」

 人騎馬の前衛の男が話しかけてきた。是非もなかった。ゐきるは大きくうなずいてみせた。

「はしゃぐの人生。はしゃぐの好きに使えばいい。そしてそれが、人の役に立っているとなれば、祖母として言うことは何もない」

「あの」

 ジョーが、遠慮がちに声を発した。

「ところで、おばあちゃん、あの木台車は」

 振りむいた。わずかに前方を進んでいたはずの木台車が、いつの間にか、荷馬車の前に移動していた。

「ああ、あれは」

 木台車が上下に車体を揺らす。そしてそれに呼応するように、荷馬車から光がこぼれる。

「行くというのか」

 木台車が、車輪を左に切って後方へ下がり、今度は右に切って前進し、ゐきると正対した。そして、数秒、返答するかのように、強く光り輝いた。

「はしゃぐ、頼みがあるんじゃが」

 はしゃぐが首を振り、手を突きだしてきた。

「みなまで言わないでおばあちゃん。何だかわからないが、この大概はしゃぐ、まるごと請けおおうじゃないかッ」

「すまぬ」

 荷馬車にしばりつけられた。

「じゃあおばあちゃん、行ってくるよッ」

 人騎馬と荷馬車が、前進をはじめた。

 とその直後、停止した。

 はしゃぐが振りかえっている。

 視線が、ジョーをとらえている。

「おにいちゃんッ」

「ああ、あの。はしゃぐちゃんか。俺はッ、ゐきるを」

「たまらないッ」

 はしゃぐはそれだけ言うと、ジョーの返事を待たずに正面にむきなおり、野郎ども、あらためて一路、ビタバレーへ。そう叫んだ。人騎馬と荷馬車が、再び前進をはじめる。そうしてやがて、人波のなかへと消えていった。

「お、俺は――」

 再び、二人きりになった。

 たぎり。

 もう、どうにもならない。

 どうにもならないところまできている。

 だが、やはり、ゐきるにはどうしたらいいかわからなかった。何か、言ってしまえばいいのか。この若々しい首に、顔をうずめてしまえばいいのか。

「お孫さんか」

 ジョーが再び歩きだした。

「ああ。孫のはしゃぐじゃ。ところで、あそこの屋外喫茶に三人組のアベックがいるが、ああいう、三人組を、先ほどから、よく見かけるが、あれは三人アベックでいいのか。何やら様子がちがうが」

 何を言っているのだ。

 逃げるのか。

 ここへきて逃げるのか。

 だが、これまでになくたぎるほど、否、むしろそのたぎりが呼び水となって、いまだ残っている弱いゐきるも、同時に立ちあがっていた。

「あ、ああ。あれ、あれが見組だ。さっきの、エヴェンティの。見合組合。あれだ。見合してるんだ」

 ジョーが、いつもより高い声でそう説明してきた。こんな話。熱。たぎり。だが、それをおおいつくすだけの、弱い自分。こんな、年老いたババアが。孫までいるババアが――。

「そうか。見合か。わしの時代も見合ばかりじゃったな。わしは、恋愛結婚じゃったが」

 どうして、言った。

 ジョーの歩みが止まっている。

 なぜ。今、アベックのことなど。見合のことなど。

 ジョーの足が、再び動きだした。

「そうだよな。旦那が。当たり前か。へへっ。俺は」

 いや。それは。

「じいさんはしばらく前に死んだ。わしは独り身じゃ」

 しばらく間があった。

「そうか。何か悪いこと言っちまったかな。すまねえな、ゐきるさん」

「何を。わし。わしは――」

 言わなければ。

 何か。

 もうはさまっているのだ。

 どうせどちらかなら――。

 前へ――。

「――わしは生きてるッ。あふれんばかりの精力に満ち満ちて、欲望に満ち満ちて、今日この日を送る。欲望は生を推しすすめる原動力。一歩も引かん。燃える。欲望に燃える。老いてなお現役ッ」

 いつもの、口上を、言っていた。

 気がつくと、それを叫んでいた。

 ジョーが笑い声を上げた。

「なんだよおい。元気じゃねえか。はは。そうか。欲望が原動力か。あんたらしいよゐきるさん。でもよ、男の背中に体をあずけといて、欲望がどうの現役がどうのなんてのはよ、あれだ、俺ァ、あんたに誘われてるんだって受けとっちま」

「えッ」

「あッ」

 え――。

 そのとき、通りに、強い風が吹きぬけた。

 肝で感じるものではない、本物の風である。

 ゐきるの白緑色のドレスの裾がはたはたとゆれ、ジョーの体を叩く。

「なあ、ゐきるさん――」

 もう、いい――。

 ひかえめにのせていた両手を、首にまわし、襟足に顔をうずめた。馴れ親しんだポマードの香りが、ゐきるを包みこんだ。

「なんじゃ、ジョー」

「俺よ――」

 突如、何ものかに背中を強くおされ、体が浮きあがった。

 突風。

 ジョーが体の向きをかえ、正面から、ゐきるの体を抱きとめる。ジョーと固く抱きしめあったまま、ゐきるは、空へと舞いあがった。

「あんたに惚れちまってる――」

 耳元で、ジョーのささやき声が聞こえた。




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