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ババア、臓物と異人語のエヴェイユ

【前回までのあらすじ】

 目が覚めたかババア――。ゐきるが目を覚ますと、そこは、天蓋帳つきの豪奢な寝台の上であった。女中の手によって西洋風の夜着に着がえさせられていたゐきるは、そうとは知らず、帳の外でゐきるの目覚めを待っていたリーゼントかしらつきの青年に、帳を開けることを許してしまう。

 バ、ババア。お前。ネ、ネグリジェ、はだけてんじゃねえか――。あわてて閉じられた帳。自らをかきだくようにして襟ぐりをおおうゐきる。見られたのか。どこまで、見られたのか。それは二人にとって――この世に生を受けてこれよりはじめての――ラッキースケベだったのである。



 よもぎ色の着物に着がえなおしたゐきるは、自らの手で帳をひらくと、そこに立っている青年に目をやることなく、松葉色のつっかけに足をとおした。

「お、おいババア。いいのかよ。もう。寝てなくて」

 それから立ちあがり、そこでようやく青年を一瞥した。そうしてあろうことか、

「もういい。世話になった。礼は、いずれ必ずする」

 それだけ言ってそのまま扉へむかって歩きだしたのである。

「お、おい。ババア。何もそんな急に」

 強ばりであった。

 ゐきるの心は、強ばっていた。一期一会の邂逅。肝同士のぶつかり合い。ゐきるがこの世界にのぞんだものは、そう言った体験であった。それが、通りで昏倒し、富者の家の豪奢な寝台で目ざめるという形で始まりを迎えていた。のぞみと、あまりにも相反していたのである。礼を失していることは十二分に承知している。富者というものに、否定的な感情があるわけではない。ましてやこの青年に一欠けらの落ち度もない。ただただ、この豪奢な部屋から早く出ていきたい。この家から、早くででいきたい――それが、今のゐきるの思いのありようであった。

 青年が、ゐきるの前にまわりこんだ。

「俺は、ジョーだ。ジョー・アールズ。ババアあんたも、名前ぐらい」

「大概、ゐきるッはううッ」

「ババアッ」

 しかしそうしたゐきるの思いをあざ笑うかのように、再び、昏倒がゐきるを支配した。刹那にして意識が縮まり、体から力が流れ出た。リーゼントがせまりくるのが見えた。両の手がせまりくるのが見えた。ああ。ゐきるは、心のなかで、嘆息した。だめじゃ。どうして。わし。

 わし――。

 世界が、浮きあがった。

 舞っている。宙を、舞っている。どうしたことであろうか。壁も、天井も床も、ぐるぐると順ぐりにゐきるの視界にあらわれるのである。体に、背中と足に、何ものかの感触が生まれた。天地が定まった。息をつく間もなく、騒然とした混乱の世界が終わりをつげた。

 眼前に、ジョー・アールズの顔がある。

 ああ。わしは。

 ああ。こんなはずじゃ。

「す、すまねえ。俺はただあんたを抱きとめようと力を入れて。あんたがそんなに、舞いあがっちまうほどそんなに、軽いと思わなくて」

 息がかかるほどの距離であった。

 心の臓が、激しく鳴っていた。

 ジョーが、話している。だがゐきるは、そのジョーの精悍な顔をただ、突出したかしらつきをただ、見つめるばかりであった。

 こんなはずじゃ。

 わし――。

「舞いあげといて何だが、ベッドにもどったほうがいい。ゐきるさん、あんたまだ」

 そのとき、扉を叩く音が、部屋に響きわたった。

 唐突として、羞恥が――羞恥からくる状況への拒絶が――ゐきるの全身を支配した。そうして考えるより先に、ゐきるは、ジョーの胸板を押しこむようにして、その腕のなかから抜けだしたのであった。

「な、なんだ」

「お食事をおもちしたでゲス」

 扉のむこうから聞こえたのは、しゃがれた女性の声であった。

「あ、ああ。そうか。入ってくれ」

 扉が開かれた。そのときにはもう、二人は立ちあがっていた。

 食器をのせた手押し車とともに、猫背で目つきのするどい女中が入ってきた。女中は部屋のすみにある洋卓まで手押し車を進め、食器を洋卓へうつしかえた。そしてにわかに、前かけの衣嚢より小さな刃物をとりだし、ジョーに突撃した。何という事態であろうか。女中が、仕えるべき家人へと刃物で突きかかっているのである。ジョーは刃物をもった手を打ちはらうと、同じ手で女中を張りたおした。

「ゲスウ」

 女中が床に転がった。

「セルビリータてめえ。いつも言ってるだろ。客人の前だぞ」

 セルビリータと呼ばれた女中は無言で刃物をひろい、衣嚢にしまい、扉の前まで小走りでもどり、そこでむきなおって一礼し、部屋を退出していった。ジョーが頬をかきながら、すまねえな、恥ずかしいところを見せちまって、と気まずそうに言った。

「恥ず、今のは」

「あ。ああ。メイドのセルビリータだ。いつもああだ。よくわからねえやつだな。本気なんだかジョークなんだか」

「そうか。召しかかえつづけていることを中心にまったくと言っていいほど関係性が納得できんが、ジョー、お前が平常だと言うのであれば、立ちいって聞くのはやめよう」

「そんなことより、とにかく、もうちょっと休んでいってくれ。何か腹に入れたほうがいいと思って精のつくものをもってこさせた。無理はしないでかまわねえが、食べられるようなら」

「精じゃと」

 精。

 精と言ったのか。

 だが。

 いや、見るだけ、見てみるか。

 あらがいがたい誘惑であった。そうして、再び倒れてしまったことは、曲げようのない現実である――精のつくものなら腹に入れておいたほうがいい――ゐきるは自身にそう言いきかせながら、洋卓に歩みよったのである。ジョーが、あわてたようにゐきるを追いぬき、椅子を引いた。ジョーのその行いに、ゐきるはわずかに眉をひそめたが、結局何も言わずに腰かけた。

 食器は、すべて銀色の金属であった。釣り鐘形の丸蓋がかぶせられた丸皿。水注。洋盃。ジョーが水注をつかみ、水注のなかの白い液体を洋盃へとそそぐ。乳か。ゐきるはつぶやき、そして、洋盃をとり、口をつけた。つよい甘みと、つよい風味が、ゐきるの口内を駆けまわり、すぐに全身へと流れ、そして活力へと変化を遂げた。

 甘み、風味をもった乳。

 ゐきるの味覚は混乱をきたしている。

 だが、旨い。

 そして――活力。

 全身に、活力という名の鐘が鳴り響くようであった。 

「なんじゃこの乳は」

「ココナツミルクだ。はじめてか」

「ああ。名前は知っていたが、飲んだのははじめてじゃ。ああッ。何という活力に満ち満ちた乳」

 そうして感きわまったゐきるは、ココナツゥッ――とさけんだのである。

「ははッ。そうか」

 ジョーが丸皿の蓋を持ちあげた。

「それじゃこれはどうだ。メヌードっつう、牛の臓物を煮こんだスープだぜ」

「ぞうもッ」

 突風。

 臓物。

 ZOUMOTSU。

 突風が、その衝撃が、ゐきるの全身を叩く。叩いている。叩きまわっている。ココナツミルクの比ではない。全身が、おこりのようにカタカタと震えている。赤い、ごろごろとした野菜や肉塊の入った汁物。うがつように見つめた。見つめこんだ。うがちこんだ。

 肉塊。

 見えている。

 ゐきるは震える手で匙をとり、肉塊をすくい、口に入れた。

 まず、辛みがきた。

 まず辛みか。いいぞ。悪くない――そう(心のなかで)つぶやいた。そうしてゐきるは、ためらうことなく一太刀にてかみしめた。

 ZOUMOTSUゥ――ッ。

 味覚をずしりと押しこむような、臓物特有の旨み。

 肝が、雄たけびを上げている。

 歓喜が、暴れまわっている。

 ――そうして気がつくと、ゐきるはもうすでにサティスファクションと叫びおえていたのである。

「ははッ。そうか」

 食べおわった。

 ゐきるは瞑目し、空の食器にむかって合掌すると、立ちあがった。

「ゐきるさん」

「なんとも活力に満ちた食事であった。もう、今度はまちがいなく、世話はかけない。本当に礼を言う。くりかえしになるが、恩は必ずかえすと約束する」

 ゐきるは再び、ジョーを見ないように努めていた。 

 しばらくの間ののち、そうか。それは何よりだぜ――ジョーが消えいりそうな声で言った。

 それ以上の会話はなされなかった。

 部屋を出た。

 廊下が長く左右に伸びていた。扉も、いくつも見えた。だが、壁や床、窓、照明などの意匠は、質がよく品がある程度で、ゐきるが想像していたほど華美なものではなかった。客間だったから豪奢な意匠であったのかもしれない。そう思うと、ゐきるの心は、わずかだが、ゆれた。

 ジョーのあとについて廊下を歩きだす。

 そのとき、廊下の先から、怒鳴り声が聞こえてきた。



「すこし前にはいった、セルビリータっていう若い子がいるんですがね」

 壮大な礼拝堂である。

 薄暗がりのなか、恋愛の様々な場面を描いた絵硝子から差しこむ光が、整然とならんだ会衆席へ色とりどりの模様を落としこんでいる。

 前方の会衆席に一人。

 説教台に一人。

 礼拝堂内の人の姿は、その二つのみである。

「このメイド、始終刃物なんかを持ち歩いてて、ことあるごとに坊っちゃんに襲いかかってるんですよ。もしかして、坊っちゃんを亡き者にしようとしているのかもしれません」

「ジーナ」

 説教台に立っていたパストル牧師は、禿頭をかきながら、祭壇上のメルヒェン三神像のところまで歩いていった。 

「ジーナ。それもう、かもしれないっていうレベルじゃないんじゃないか」

 そうして中央の、他二体と比較して極端に大きい、神の妻像の前に立つと、長い白髭をさすりながら、像をしげしげと見つめはじめた。神の妻像。やっつけを司ると言われている、メルヒェン神の妻の像である。

「しかし、やはり、家中に手のものを送りこんできたか。しかし、そうか。ジョーをねらってきたか」

 極端に大きいと言っても、肥えているわけではない。ドレスを身につけているが、長さのほとんどが、釣り鐘状のスカートの部分なのである。全体で見ると三十頭身ほど。つまり、神の妻は、巨大な釣り鐘スカートの上に、ちょんとのっているような状態である。

「消しますか」

「いや、そのメイドが見組の手のものだという証拠を手に入れるまでは待つべきだろう。アールズも、ジョーも、説明しても、きっと受けいれないだろうからな」

「そうですね。なんとか、証拠を見つけますよ」

「難しいだろうが、ジーナ。頼む」

「はい」

 その釣り鐘スカートには無数の突起がついている。電球だと言われている。腰から上には、小さい突起が、同じように無数についている。この小さい突起は、線で連結されている。上着にはさすがに電球はつけられず、電飾をつけたのだと言われている。そしてその電球、電飾を目だたせるため、神の妻は夜にしかあらわれないと言われているのである。

「武装化の件は、そちらはどうだ」

「アールズ家周辺では、まだ表だった兆候はありませんね。ただそう、家を出はいりする商人、貴族のなかに、いくつか新しい顔がありますね」

「不審な点があるのか」

「不審というほどではないんですがね、仕事机を机ごともって帰ろうとしたり、旦那様に薬をかがせて眠らせたり。そんなことがありましたね」

 つまり神の妻は、全身が光ると言われているいうことである。ああ。お合いしたい。光り輝く姿を、是非この目で拝見してみたい――パストルは禿頭をかき、一人静かに煩悶した。

「そうだな。たしかに不審ではないな。もうそれ普通に罪として確定してるやつだものな」

「やはり、きちんと洗うには、何人かいりますかね」

「わかった。アールズの様子はどうだ」

「おどしが、日に日に激しくなってる気がしますね。長くは保たないと思いますよ」

「そうか」

 ため息まじりにそう言うと、パストルは頭をかいていた手を神の妻像へ伸ばし、指先で電球――突起にふれた。そして、指先をおもむろに移動させはじめた。

 突起を撫ではじめたのである。



「いいから恋爵をだせ。俺たちから逃げまわったところで、得することは何もないと伝えろ」

「だから、ご主人はただいま外出中でゲス」

 玄関広間の中央である。

 体のあちこちに白いねじり縄をまいた、つぶらな瞳をした大男が、声を上げていた。ややはなれたところに、先ほどジョーを襲った女中が、体の前で手を組んだ姿勢で、無表情かつ猫背で立っている。

「嘘をつくなよ。俺たちから逃げられはしないんだからな」

「嘘はつくでゲス」

「つくのか。やはりいるのだな」

「でもご主人は本当にいないでゲス」

「どうしたセルビリータ」

 言いながら、ジョーが女中の横に立った。すると女中は前かけの衣嚢から細い筒をとりだし、筒をジョーにむけると、息を吹きこもうとした。何と言うことであろうか。今再び、女中から家人へと害意がむけられたのである。ジョーは即座に筒を取りあげると、筒を女中にむけなおし、息を吹きこんだ。針が女中の額の中央に見事に突きささった。

「ゲスウ」

 女中が白目をむいてその場に座りこむ。

「お前は、息子のジョーだな。リーゼントジョー。噂は聞いてるぜ」

 ジョーはしめ縄男には取りあわず、足元の女中に目をやった。

「セルビリータ、おやじは」

「本当に留守でゲス。夕食前には帰ってくると言っていたでゲス」

 女中が白目のまま答えた。ジョーは、大男にむきなおった。

「だってよ。すまねえが時間をあらためてくれ。行こうゐきるさん。通りまで送らせてくれ」

 ゐきるには関わりようのない案件であった。口をはさむ余地は皆無である。ゐきるは言われたとおり玄関扉へむかおうとした。

 しかし、ゐきると同じように玄関扉へむかいかけたジョーの腕を、しめ縄男がつかんだ。

「おい待てよ。エヴェンティ――今は見組のみかじめの徴収役をやってるが、リーゼントジョー、お前なら、俺のことは知っているだろう。ついでにお前の見組入りもやっちまおうか。そうすりゃこんな役まわりとはおさらばだ」

 ジョーは、一度、つかまれた腕を見たが、すぐに視線を床に落とした。それから、何も言わず男の手をつかみ、外した。そしてゐきるの背に手をそえ、歩みをうながしてきた。

「待て。お前今、俺がつまらない男だと。そう言ったのか」

 歩きかけたジョーの足が止まった。だが、やはり何も言うことなく、歩きだした。

「そうか。いや。お前の顔、態度、仕草まで、お前のすべてが、完全にそう俺につげてきた。完全に聞こえた。俺ほどの人気者にその言い草。リーゼントジョー。ちょっとばかり名前が売れて、調子にのっちまってるようだな」

 扉の前まできた。ジョーの手が、扉の把手にかかった。

「俺ほどの人気者、俺ほどの有名人に。言っちまったなリーゼンジョー。お前。このエヴェンティ様にけちをつけて、ただで済むと思ったら大間違いだぜ」

 ゐきるは振りかえり、エヴェンティのつぶらな、赤子のような瞳を見つめた。あおってきている。それは明らかであった。だが先ほどから、肝が、ただ肝である。この男のあおりをいくら受けても、肝が、たぎりの気配すら見せようとしていない。ジョーを見た。ジョーもゐきると同様であった。面倒だ――そう面もちにでている。

「おお。何て台詞だリーゼントジョー。いつからそんなに腑ぬけちまった。この人気者より、そんな、老いぼれがいいと言うとは。完全に聞こえた」

 開きはじめていた扉がとまった。

「なんだって、エヴェンティ」

「はっ。へん、返事してくれた。いや、ああ。ああなんだっけ。ああそうそう。この人気者より、そんな老いぼれが」

 扉が閉められた。

 ジョーは把手をはなした。うつむいている。

「わからねえ」

 平常、発しているよりも、幾段も低い声が、ジョーから聞こえた。

 ジョ―――ゐきるは思わず名前を呼んだが、ジョーは反応しない。

「何がだリーゼントジョー」

 ジョーがふたたびわからねえとつぶやき、顔を上げ、ゆっくりと振りむいた。ゐきるは驚愕した。あろうことか、ジョーの両眼が、光をはなっていたのである。

「なんでこの世に、てめえでてめえがFavoriteだとほざくFuck’n mouthがあるんだ――」

 肌が粟立った。

 ジョーが。

 ジョーが異人語を。

 何と言った。

 ヘイバリッ。

 ハッキン、マウ。

 体が、脊髄が、ジョーの発した言葉に完全にしびれている。しびれあげている。ハッキン、マウ。連結、させたのか。ヘイバリはいい。ゐきるも、意味を知れば扱える。だが、ハッキン、マウ。あろうことか、異人語が、連結している。異人語をつかいこなすことにつよく憧憬しながら、いまだ一語ずつしか扱えないゐきるにとって、それは、ジョーの発した流暢な連結異人語は、まるで電撃のようにゐきるから動きをうばいとった。

 ジョーが、両眼から光をほとばしらせながら、ゆっくりとエヴェンティにむかって歩みだしている。

「なあエヴェンティ。聞かせてくれねえか。お前は何で有名になった――」

「何で、だと」

「何でお前は、お前を有名人に押しあげたお前のなかのそれそのもの――Your Personalityを俺に味あわせない。なぜだ――Why not do――」

「味あわせる、だと。ま、まぶしッ。一体」

 その横顔。突きでたかしらつき。発光する瞳。ゐきるの目にはもうジョーしか映っていなかった。他のものは、何も映っていなかった。ユアポーソナディディ。ハイノッジュウ――ハッキン、マウの味わいが、ゐきるの体からまだ通りすぎないうちに、ジョーはさらなる異人語をゐきるに浴びせかけてきたのだ。

「誰が考えたってそのほうが早え。つまらねえ男っていう、俺の、言ってねえけど、言ったセリフが気にいらねえで、それを訂正させたいんだろう。だったら、人の関心を集めたそれそのものを俺に味あわせて、つまらなくねえことをProveしてみせるのが一番だろうが。何でそれをしねえ。何でそれを――You did not」

「な。お、まぶし、俺は、今、すごいまぶしい。今、見組の、徴収役で」

 前のほうは、わりと、あれであった。和語であった。そのため、ゐきるはようやく息をつくことができていた。だが、最後――ユディノォッ――ジョーは最後に、和語からそのまま異人語へとうつる離れ業をやってみせたのである。否。やって魅せたのである。弛緩していたゐきるは、息をつまらせかけた。

 ジョーが目を細め、首をかしげた。

「徴収役ってのはエヴェンティ。しまいは暴力で片をつけるもんだよな。ああいいぜ。俺も腕には自信があるしな。だがなエヴェンティ、俺にはやっぱりわからねえな。万が一、お前が俺をケンカでぶちのめせたとして、なあエヴェンティ、それで、俺のなかのお前の評価ってやつが、つまらねえ男から、人気者へと一変すんのか」

 なかった。

「な。ぶちのめすとは言って」

「Fuck’n shut upッ」

 ジョーが声を張りあげた。

「俺はな、用事があるんだよ。てめえがつまらねえかつまらなくねえか、てめえでふっかけてきたんだろうがッ。俺りゃあてめえがCollection AgentだろうがFavoriteだろうが知ったこっちゃねえんだよッ。いいってんならもう行くぜ。どうなんだこのAss野郎ッ」

 やった。

 とうとうやった。

 融合。

 和語と異人語の融合。

 アスヤロウ――。

 しかもアスヤロウは、ここまでほとんど意味を理解することのできなかったゐきるにも、明らかに罵言だとわかるものであった。

「アスヤロウ。アスヤロウ」

 忘れない。

 肝に刻みつける。

 ゐきるは小声でその言葉を反芻した。

「アス」

 ふと気がつくと、声を発しているのはゐきるだけであった。誰も話していなかった。ゐきるの知らぬ間に口論は終結していたのである。エヴェンティが、表情が見えないほどにうなだれていた。

「元々は、催しものを」

「あん」

「俺は、元々は、祭りなんかの催しものをとりしきっていたんだ――」

 エヴェンティのその言葉に、ジョーは返事をしなかった。だが、両眼の発光が弱まりはじめたことに、ゐきるは気がついた。そして、目の発光が終わりかけていることで、異人語のくだりも、まず終わりかけているであろうことにも、思いあたったのである。

「――だが、界隈が見組に傾倒していくなかで、催しものの依頼が入らなくなっていって。そのうち、食えなくなっちまって。仕方が、なかったんだ――」

 しばらく、沈黙が玄関広間を支配した。

 いや、まだ終わっていない。

 終わらないでくれ――。

 ゐきるはどんどん弱まっていくジョーの眼光を、祈るような気持ちで見つめつづけた。

「てめえ、度胸はどうなんだ」

「度胸」

「人気者と度胸ってのは、普通そろいだろう」

 意味がわからないのか、それとも考えているのか、エヴェンティはただうつむいている。

「一番度胸のいるのはてめえ自身とむきあうことだ。俺はそう思ってる。情けないところ。逃げているところ。知りたくない、弱いてめえ自身だよ。涙が流れるまで、頭が真っ白になるまで、立てなくなるほど――情けないてめえ自身をきっちり目の当たりにしたことが、エヴェンティてめえはあんのかって聞いてんだ」

 エヴェンティは返事をしない。だが、顔を上げた。そして、ジョーの目をまっすぐに見たのである。ジョーの目を、まっすぐに見ている――もう、まぶしくないということであった。

 ゐきるの肝は、もうほとんど冷えていた。

「迷えこの野郎ッ」

 ジョーが再び声を張りあげた。

 ジョーが再び。

 目は光っていない。

 だが。

「何だてめえその立ち位置は。迷え。迷ったこともねえやつに、人の中心にいる資格はねえ。居場所がなくなったってんなら、居場所が見つかるまで迷いたおすのが度胸じゃねえのか。人気者なら、てめえを全うする新天地が見つかるまで迷いたおす度胸を見せてみやがれッ」

 なかった。

「度胸」

 エヴェンティの赤子のようなつぶらな瞳から、涙が流れだした。

「ああそうだ。迷うこともしなかった度胸なしのてめえを泣いて受けいれ、今のケツの穴みてえなてめえを、まっさらな更地にすりゃあいんだ。そうしたら、ぜってえできる。探せる。保証してやってもいいぜエヴェンティ」

「ああ――」

 エヴェンティがその場にうずくまり、嗚咽をあげはじめた。

 


 野太い笑い声が、薄汚れた酒場のなかに響いていた。

 奥の席に背をむけて座っている中折れ帽の男から発せられたものであった。

「あんたのほうからやってきてくれたことには、感謝しよう。アールズ恋爵殿」

「くそ。私に、領民をうらぎれと」

「おいおい人聞きの悪いことを言わないでくれよ。俺たちは民のためにやっているんだぜ」

 アールズは、膝の上で拳をにぎりしめた。そうして、震えをどうにかおさえようとした。怒りからくる、震え。止まらなかった。アールズは震えながら、目の前のソファに座っている顔とまつ毛の長い男に、片目をつぶってみせることを繰りかえした。男は、眉を八の字にして身もだえている。

「なああんた、やめてくれねえかそれ。何だか、変な気分になっちまう」

「ところで、例のものは手に入ったのか」

「あ、ああ」

「そうか。ならだしてもらおうか」

 アールズは震える手で、革鞄から厚紙を重ねたものをだすと、顔とまつ毛の長い男に手渡した。写真への細工は、やれるだけのことをやった。見合相手の印象が悪くなるように、化粧も工夫した。そして、わたしている間も、片目をつぶることをやめず、手渡すとき、男の指をすこし撫でるようにしたのである。

 アールズが体をソファへもどしても、男は厚紙を受けとった姿勢のまま、かたまっていた。

「おいロンゴ、早くもってこい」

「あ、兄貴、こいつだめです。こ、こいつといると、おいら変な気分になっちまう」

「変な気分になるんじゃねえロンゴッ」

 そうして厚紙が奥の中折れ帽へととどけられている間に、アールズは革鞄から小さな平箱を取りだし、目の前の丸机の上において、蓋を開けた。

「ふふふ。なめた真似してくれるじゃねえか」

 厚紙を開いた中折れ帽の男は、低い声でそう言うと、厚紙にはさんであったもの――アールズがリーゼントかしらつきと厚化粧でつくりあげたおかめ顔にて撮影した見合用写真――を破った。

「こんなもので、俺をだませると思ったのか」

 だめか――。

 もどってきた顔とまつ毛の長い男――ロンゴが、丸机の上の蓋の開いた平箱に気づき、とまどいの表情でアールズを見ている。アールズは小さく何度もうなずく。軽く、手で平箱を指ししめす。

「な、何を言っているのか、わからないが」

「ふふふ。こんな子供じみた細工で、よくしらを切れるものだな。これは、恋爵殿あんたなんだろうが、ここまで化粧が濃いともう誰でも一緒だ」

 うなずいたり指ししめしたりを続けていると、ロンゴがようやく平箱のなかのもの――苺を練りこんだ焼き菓子――を一つとって、口に入れた。

「苺が練りこんであるんだよ――」

 アールズはロンゴの瞳を見つめながら、奥の中折れ帽に聞こえないようにささやいた。

「そうだ。ロンゴ、恋爵殿にあれを見せてやれ」

 ロンゴは、泣きそうな表情で、焼き菓子をつまんだかがんだ姿勢から、背筋をまっすぐに伸ばして立った。

「あ、兄貴、おいらぁだめだぁ。い、意識、意識しちまってだめだぁ」

「意識するんじゃねえロンゴッ」

 ロンゴがあわてて口のなかの焼き菓子を咀嚼する。そうして、壁際の棚へ行き、棚の引出からまるめられた大きな紙をもってきた。丸机の上にひろげる。ひと目で、何かわかった。アールズは、驚愕に全身が震えるのをとめられなかった。

 なぜ。

 これが。

「これは、れ、恋愛議事堂の、見取り図」

 この男たちがこれをもっているということは、すなわち、貴族院の誰かが、この男たちとつながっているということであった。絶望が、意識の底からゆっくり上がってきた。アールズは思わずロンゴの手をにぎりしめた。拒絶があった。両手で、にぎった。下から、切なく見あげた。それだけして、ようやく、拒絶はなくなった。

「あ、兄貴。おいらぁ、今、は、はじけそうで。は、はじけそうで」

「はじけそうになるんじゃねえロンゴッ」

 アールズは片手をはなし、上着の衣嚢から取りだしたペンで、見取り図の端に文字を書きこんだ。

 甘えん坊でごめんね――。

 そうしてペンを衣嚢にしまうと、再びロンゴの手をにぎった。

「あ、兄貴、おいらぁもう、切な、切なくなっちまってる。切なくなっちまってるゥ」

「切なくなるんじゃねえロンゴッ」



 エヴェンティは、鼻をすすりながら出ていった。

 玄関扉の把手がひとりでに動き、扉が開いた。

「おや」

「ああ、ジーナ」

 扉のむこうから姿をあらわしたのは、大柄な女中服の女性であった。髪を後ろ一つしばりにした、そばかすに愛嬌のある中年女性である。ジーナはジョーとゐきるを順番に見ると、荷台とともに後ろに立っている二人の女中に、やっぱり勝手口からもっていって、指示をだした。ジョーが、ゐきるのほうを振りかえる。

「メイド長のジーナだ。ジーナ、こちらは、その、ゐきるさんと言って、俺の客だ」

「客――これはこれは。坊っちゃんがお客人を招くなんて、ロールも吹っとぶ衝撃だ。ゐきる様、ジーナだ。よろしく。丁寧な言葉づかいは面倒でやってないんだけど、そのぶん礼ってのをたっぷり尽くすから、許しとくれ」

 ゐきるはその快活な人柄を、即座に気に入った。名前を名のり、こちらこそよろしくと返事をした。

「ジーナ。頼むから、坊っちゃんはやめてくれ」

 ジーナが鼻を鳴らす。そうして、腰に手をあてた。

「ところで坊っちゃん。ケンカを家のなかに持ちこむってのは、一体どういう了見かきかせてもらおうか」

 ジョーが眉をひそめた。

「エヴェンティとそこですれちがったよ。めそめそ泣いて。今、あいつは見組でみかじめの徴収役をやってるらしいけど」

「あれは、いや。ああ。悪かった。もうしねえ」

「まったくケンカ好きも結構だけど、あんまり変なのと関わるんじゃないよ」

「ああ。わかってるよジーナ」

「わかったらさっさとなかへ入っとくれ。こんなところじゃおもてなしもろくに」

「いや、今から出るところだったんだ。ちょっと、その、出てくる」

 ジーナが驚いた表情で、ゐきるとジョーを順番に見た。

 なんだって。出てくる、だと――。

 そして、胸部が天を突くほど体を反りかえらせて、大きく息を吸いこむのをゐきるは見たのである。

「ああ、ちょっとで――えっ」


「ばかを言うんじゃないッ。このトサカ子息ッ」


 それは、あまりにも至近距離での咆哮であった。

「おおうッ」

 ジョーが、思わず声を上げかえした。

「アールズ恋爵家の人間が、ご婦人を、その召し物で連れだすだと。こいつ、この野郎。ああなんという世間知らずのトサカ子息」

 ジョーは、ジーナを見つめたまま、しばらく動かなかった。やがて、召し物。ああ。そう言って、ゐきるの服装に目をやった。ゐきるもつられて自分の服装を見る。よもぎ色の着物。粗末な格好ではないつもりであった。だがたしかに、爵位をもつ家の人間とならんで歩けば、道ゆく人々が、好奇の視線をむけてくることは、否定できない。

 ジーナが二人の脇を通りすぎ、家の奥へと入っていった。

「ゐきる様、こっちへきな。しばらく時間がかかるから、坊っちゃんはどっかそのへんでもほっつき歩いてきな」

「ああ。いや、わしは」

 ゐきるは動揺して、ジョーへ視線をやった。ジョーは何かを言おうとしていた。だが、待っても、言葉は出てこなかった。

「ほら」

 ジーナは、廊下の曲がり角の手前で、腰に手をあてて立ち、ゐきるを待っている。

「ジョー」

「ジーナの仕立ては一級品なんだ。その」

 ようやく聞こえてきたのは、仕立てをうながす言葉であった。ゐきるは小さく嘆息した。


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