ババア、炎の出合い
【前回までのあらすじ】
齢六十二にして活力の権化であるところの大概家祖母、大概ゐきるは、朝から生レバーをむさぼり活力全開のところを、召喚魔法と名のる集団の訪問を受ける。メルヒェンランド夢旅行へ旅だってほしいという彼らの依頼に深く感銘するゐきる。そうしてゐきるは、桃プリンチペッサ召喚魔法四号であるところの桃デルタに乗りこみ、自ら率先して、その枯れこぼうのような手足に、うすぎたなくこぎたないベルトをまいたのである。彼女はデルタと融合し、ン次元空間内に存在するメルヒェンランドへと進入。イマジン体へと変換される。そして自身の生を今再び熱くたぎらせるため、大勢のアベックでにぎわう恋愛の国城下町、その大通りへと降りたったのであった。
*
たぎっていた。肝の芯から、熱くたぎりきっていた。
どこを見てもアベックである。二人組のアベックは勿論、三人組のアベック、四人組のアベック、なかには八人組のアベックまでいる。八人。ゐきるは心のなかで吠えた。八人。八人でつがっているというのか。肝が、激しくたぎりまわった。よく見るとそれは家族づれであった。アベックが八人のわけがなかった。つがいようがなかった。たぎりがなおった。
太陽が高く、気温が高かった。湿度も高い。海ぞいの街の、高温多湿の気候であった。よくよく自身の体調をかえりみてみれば、たぎりの大半は高温多湿がその要因であった。熱中症の一歩手前であった。
「アベックか。つがっているのだな」
横を通りすぎようとした男女二人組に、ゐきるは、話しかけていた。そしてなんというたぎりか、ゐきるの問いかけに男女は立ちどまると、互いの顔を見つめ、微笑みあったのである。
「そうよお婆様。熱くて今にもとろけてしまいそうな、甘く切ないアベックよ――」
「サティスファクションッ」
ゐきるはあまりのたぎりに異人語をさけんでいた。満足という意味であった。むこう側を、ちがう男女が通りすぎようとしていた。ゐきるは上体をひねりあげ、男女にむかって両手を広げた。
「アベックかッ」
「うるせえババアッ」
罵声を受けたゐきるは、あろうことか、その顔面に笑みを浮かべた。
「サティスファクションッ」
「二人の世界に踏みこんでくんじゃねえッ。すっこんでろッ」
「二人の世界。サ(後略)ッ。情人に埋没するあまり、他を必要としなくなるこれもまたアベックの頂きッ。サティスファクションッ」
「うるせえッ。失せろッ」
突如ゐきるの体から、力がぬけた。意識を失いかけた。だが始まったばかりだと、まだ始まったばかりではないかとゐきるは自らを奮いたたせた。奮いたたせている間に、二組のアベックは歩きさっていた。
ゐきるはあらためて大通りを見わたした。一人で歩いているのはゐきるくらいのものであった。道の両端には、アベック喫茶、アベック装飾品店、アベック旅行店、アベックのための店がこれでもかというほど軒を連ねている。町を巡回している西洋の甲冑姿の警備兵までもがアベックであった。否、警備兵は万が一のときのために最低でも二人以上で行動するのがならわしである。ではアベックではないのか。警備兵はつがわないというのか。ゐきるはすれちがう二人組の警備兵を見つめた。うがつかのような視線で見つめつづけた。自身も歩みつづけながら、首が痛くなるほど、首がこれ以上曲がらないというところまで振りむいて見つめつづけた。
「今日の任務が終わったら、海辺に新しくできたアベックカフェに行かない」
「いいね。俺もあそこ気になってたんだ」
アベックであった。ゐきるの肝が、肉体から飛びだしそうなほどがくがくと震えた。アベックであったと、心のなかで叫んだ。否、実際に叫んでもなんら支障はない。そのことに思いいたった。ゐきるは大きく息を吸、
刹那、すさまじい衝撃が、ゐきるの全身を打った。
意識がほとんど飛び、宙に浮いた。景色がまわり、やがて再び背中と左半身が衝撃にまみれた。地に叩きつけられたのだ。ゐきるの肉体は、衝撃に、痛みに、がくがくと震えた。
「どこ見て歩いてんだ。気をつけろババア」
頭上から声が降ってきた。声も文句も、未成熟な青年のものであった。ゐきるは体の痛みによって声が出せなくなっていた。こんなところで。肝が、ゐきるを叱咤してきた。こんなところで、終わる女だったのか。ゐきるはがくがくと震える両手を地につけた。がくがくと震える両膝を、地に押しあてた。終わるものか。肝に言いかえす。終わってたまるものか。痙攣が鎮静しはじめた。終わるなら燃えつきて終わる。死ぬなら、戦って死ぬ。
「小童――」
「ああッ。こわっぱだと」
ゐきるは上体をひねり、青年をあおぎみた。褐色の一本角が、額から生えていた。否、角ではない。頭髪であった。ゐきる自身が慣れしたしんだ、ゐきる自身から発せられる、加齢臭に似た匂いが鼻をついた。おぼえがある。ポマード。つまるところ、リーゼント。青年のかしらつきは、リーゼントであった。ゐきるは、知らず、喉を鳴らして笑っていた。
「ババア何笑ってる」
「リーゼントか。悪くない。リーゼントか」
青年の顔色がにわかに変わった。
「ババア、リーゼントを知っているのか。リアルか」
「リアル。知るかそんなもの」
ゐきるは、青年を睨みつけながら、そろそろと立ちあがる。
「さて、どうしてやろうか――」
青年はそれを聞くと、鼻を鳴らした。
「なんだババア、俺とやろうってのか。ハハッ。自殺志願者か」
それを聞いたゐきるは声を上げて笑った。
「自殺志願者――はっ、するとお前は、暴力でわしとやりあうつもりか」
青年の顔に、困惑の色がうかんだ。
不意に、ゐきるは笑うのをやめ、宙を、ぼんやりと見つめはじめた。それから、ああ。いや。そう言って、緩慢な仕草で、視線を青年にもどした。
「お主のような、救いようのない単細胞ゆえ一人前になる日はこないであろう小童に、加減を忘れてしまったと反省しておった。いや、これはわしが悪かったやもしれん」
青年のこめかみに、幾筋もの青筋が浮かびあがった。
激昂である。
怒りで、にぎりしめた拳がかたかたとゆれる。
にやにやと笑いながら、ゐきるがあたりを歩きはじめた。腰の後ろで手を組んでいる。悠々とした歩みである。そうして、回りながら、時おり青年の激昂する姿を盗みみては、喉を鳴らし、くっくっと笑うのである。いつの間にか、周囲を野次馬の輪がとりかこんでいて、輪が、ゐきるの歩みに合わせ、生きもののように広がったり縮んだりした。
「怒ったか。この程度で怒るから、単細胞だと言うのだ」
「てめえ」
「まあいい。ではお主の言うとおり、わしが自殺志願者ということにしようか。ならば、仮に、一つ聞きたいことがある」
青年は、なんだ、と低い声で聞き返した。
「死ぬまでなぐられる。わしは今、そう決めた」
野次馬から、小さくどよめきの声が生まれた。ゐきるはもう笑っていなかった。
「何を」
ゐきるは歩みもやめ、顔を、青年へむけた。
「何を、だと」
そうしてそう聞き返し、青年にむかって歩みはじめた。
「何を、だと、小童。よもやお主、自分はまだ決めていないと言うつもりではないだろうな。わしを自殺志願者と言っておいて、まだ自分の心は定めていない、そう言うのか。わしを自殺志願者と言った。つまり、わしを暴力で殺す。お前はそう言ったのだぞ」
「バ――」
「さあどうする。この干枯らびたごぼうのような手足をもぐか。それとも息をしなくなるまで投げ飛ばすか。わしはこの生を、自殺志願者の生と決めた。今さきほど、決めた。到底暴力でかなわない相手に、暴力で立ち向かう自殺志願者だ。命知らずだ」
ゐきるは、もうさけんでいた。さけびながら青年に詰めよる。
「さあ。この老いぼれババア、六十二年生きぬいた肝、肉体、すべてをかけてお前と立ちあおうじゃないか。さあ小童ッ。もう始まっているぞッ」
青年は、動かなかった。否、ゐきるの気迫に押されて動けなかったのである。だが――
「くっ、ババアのくせに。畜生、畜生――ッ!」
――今度は青年が叫び声を上げた。まさに天を仰いでの絶叫であった。そうしてあろうことか、自らの両拳で、自らの両腿を殴りつけはじめたのである。
「動けッ。動け俺の心ッ。俺の、まだ自らの足で立ち上がってもいない青き若輩な心よッ」
ゐきるの歩みが止まった。
「小童。お主」
青年は、腿を殴りつけつづけている。涙が流れている。涙を流しながら、動かない両足を、拳で叱咤しつづけている。
「なぜ。なぜ動かない俺の、まだ自らの足で(割愛)心よッ」
歩みをとめたゐきるは、しばらく青年の姿を見つめていた。真剣な眼差しであった。だが、このときゐきるは、あえて踏み込むという選択肢を選んだ。意識が遠のきつつあり、力が抜けつつあるゐきるであった。熱中症。完全に、熱中症の領域。だが、ここでやめるわけにはいかなかった。足を開き腰を落とし、あらためて丹田に力を入れ直し、射抜くように若輩を指さした。
「答えを聞いていないぞ小童。さあどう決めた。それだけの、精力あふるる若き肉体で、非力な老人を突きたおしておいて、よもや傷つける気はなかったなどと言わせんぞッ」
ゐきるの、肝の芯からのさけびが、通りに響きわたった。ゐきるの全身が発光した。メルヒェンランドに伝わる、つよい意志の持ち主の体におこる、イマジンオーバーフローであった。だがよくよく考えてみると、後ろをむいて歩いていたゐきるの前方不注意であった。
「バッ、ババアから光がッ」
「イマジンだわッ。イマジンの光ッ」
野次馬たちがどよめく。
「突き抜けろッ。燃やせッ。生き切れッ」
ゐきるの、青年を差した人差し指が、ふるふると震えている。体調不良もあったが、大半は年齢的なものであった。
「生きろ――ッ。燃やせッ、燃やせ――ッ」
ゐきるの黒目が、ぐるりとせりあがり、まぶたの裏側へいなくなった。
「バ、ババアッ」
そのとき、青年の体の硬直がとけた。青年がゐきるに駆けよる。上体を抱きおこした青年に、ゐきるは笑いかけた。
「すまなかったな青年。小童などと――」
「どうしたババア。あんたらしくもない」
「青年。お前は、生きなさい」
ゐきるのまぶたが、ゆっくりと閉じた。
「ババアどうした。死ぬなッ。ババア、ババア――ッ」
青年の、悲痛な絶叫が、通りを、四方につらぬいた。野次馬たちは、ただ遠巻きに見守るばかりであった。その野次馬たちのなかに、複雑な表情で二人を見つめる、供を連れた金髪巻き髪の令嬢の姿があった。伏線であった。