2 夢先案内人
数年前から璃子はたまに不思議な夢を見るようになった。 普段はあまり夢を見ないし、見たとしても支離滅裂な内容だったり、起きた時にはどんな夢だったのか忘れているのだけれど、その夢だけはやけに鮮明で忘れる事が出来なかった。 その夢の中で、璃子は旅人になっていろんな所へ行った。 大きな木々の上にある都市、魔法使いのいる街、恐竜がいる国。 まるでファンタジーの世界に入り込んだみたいで、お姫様になるわけでも悪い竜を退治しに行くわけでもないのだけれど、璃子はその夢を見るのを楽しみにしていた。
そして、その夢を見るときは必ず一人の同じ人物が出てきた。
「夢先案内人」
初めて出会ったときに、彼はそう自己紹介してきた。 いつも同じジーパンに白いVネックのシャツ、肩を超える髪は無造作に後ろで一つにくくっている。 年は璃子よりも10ほど上だろうか、顔立ちはどう見ても日本人なのに何故かその髪と目は鮮やかな緑色をしていた。 その緑色さえ無ければ、彼は璃子の知っている人にたぶんとてもよく似ているはずだ。 璃子がその人を最後に見たのは15年以上前だけれども、その人が今も生きていたらきっとこんな感じになっているだろう。 だから、彼が好きな名前で呼んでいいと言ったときに、璃子は迷うことなくこの名前を選んだ。
「ルイ。」
目の前に腰かけていた男は、璃子に呼ばれて微笑んだ。
緑の目が細められて、感じのよい口元が少し上がると右の頬に小さなえくぼが出来る。そうやって、彼はいつも穏やかにゆっくりと笑う。
「久しぶりだね、リコ。 元気にしていた? 顔色が悪いけど、ちゃんと食べている? また、仕事のしすぎで疲れているんじゃないかい?」
久しぶりに会ったルイの口から最初に出た言葉に、璃子は思わず微笑んだ。 確かに、徹夜明けの上に、もう帰るだけだからいいだろうと化粧も直さず会社を出てきてしまったのだから、ひどい顔をしているのはわかっているが、まるで実家の父親みたいな言い様だ。心配性な所もルイはあの人に似ている。
「疲れていたけど、ルイにあえたから大丈夫。 長い間逢えなかったから、もう来てくれないのかと思ってた。」
「ごめんね、リコ。」
ルイは本当にすまなそうに謝ったが、逢えなかった理由は言わなかった。 璃子はルイについて何一つ詳しい事を知らない。 何の前触れもなく、ふらっと璃子の夢の中へあらわれて不思議な旅行に連れて行ってくれる自称「夢先案内人」。 でも、詳しいことなど何も知らない方がいいのかもしれない。 何しろここは夢の中なのだから。 そして、彼が優しい人で、璃子が彼にあうのをいつも楽しみにしているという事は変わらない。
「ルイ。今日はどこへつれていってくれるの?」
ルイはにっこりと笑って立ち上がると、璃子の前まで来て一枚の紙切れを手渡した。 青い海と白い浜辺に、ヨーロッパのどこかにありそうな街並みが続く。 そんな写真を背景に、真ん中には大きな白文字でこう書かれていた。
「ジェール鎖島周遊切符?」
「そう。今回の行き先はジェール鎖島。 海に連なる5つの島にそれぞれ街があって、この切符で島を行き来する電車に自由に乗れる。 そしてこれが帰りのこの電車の切符。」
もう一枚の切符はさっきの物よりずいぶん重くて、しっかりしていた。 濃紺の厚紙に、綺麗な金色の飾り文字で、ジェール鎖島と璃子の住む町の名前が矢印で結ばれて印刷されている。 そして、その下には今日から2週間後の日付。
「旅の条件は覚えている?」
「ええ。 この世界の法則に従うこと。 ここが私にとって夢の中だと人には言わない事。 必ず時間に間に合うように帰ってくる事。」
「それと、恋をしない事。」
ルイがもう一つ付け加えた条件に璃子はかすかに眉をひそめた。
「いつも思うのだけど、最後の一つは余計じゃない?」
「うーん。 確かにこれは自分の意思でどうこうなるものではないけれど、夢の中で恋をしてもリコが傷つくだけだからね。」
ルイがおおきな手を伸ばして璃子の前髪をかき上げたので、璃子は眼を閉じた。 額に柔らかく温かいものが当たる。 昔大好きだった童話に幸運を呼ぶ魔法のキスというのがでてきた。 ルイがいつも別れ際にくれるのは、そういうとても優しいものだ。
「楽しんでおいで、リコ。」
「ありがとう。」
そっと手が離れていき、璃子がゆっくりと目を開けるとそこにはもうルイの姿はなかった。