1 路面電車
ガラガラと音がして電車の扉があき、明け方の冷たい空気が入り込んできて璃子は眼を開けた。 大きな荷物を背負った老婆が一人、ゆっくりとタラップを上ってきて璃子と反対側の端に座ると、路面電車はまた扉を締めてのろのろと動きだした。 ポイントの切り替えで、車体が脱線するのではないかと思うほどガタガタと大きく揺れたが、璃子は口の中であくびをかみ殺して、窓ガラスに頭を寄せて外を眺めた。もううっすらと空が明るくなり始めている。
久しぶりの徹夜明けで璃子は疲れ果てていた。
13年物の璃子の愛車は、月曜日に急に調子が悪くなってしまい、修理工場に持っていくと、あれもダメこれもダメといろいろ直すことになって、来週まで帰ってこない。 いい加減に寿命なのかもしれないけれど、長年の愛着もあるし、モデルチェンジしてSF映画に出てくるような形になってしまった新型に買い替える気にもなれず、結局ずっと同じ車に乗り続けている。 そんなわけで今週は高校の時以来の電車通勤だ。 会社のある駅前から、璃子の住んでいる海辺のアパートまでは、バスかこの路面電車で30分ほどかかる。 タクシーを呼べば深夜料金で3千円超。 昨夜、10時を過ぎても全然仕事の終わりが見えてこなかったときには、これは始発までやるしかないと腹をくくった。 コンビニまで夜食と目覚ましガムと栄養ドリンクを買いに行き、頑張ったおかげで何とか今日は一日休みがとれる。
また、ひどい音を立てて電車が止まった。 誰もいない停留所で律儀に数分間止まった後、再び動き出す。 ピンポンパンとチャイムが鳴って、テープに録音されたアナウンスが流れた。
「次は野村、野村。 あなたと明日の街を作る、地場産業センターはこちらでお降りください。」
路面電車はガタゴトと揺れながら進む。 すり減った木張りの床、てかてか光る黄ばんだ吊革、いつから貼ってあるのかわからない歯医者の広告。 静まり返った明け方の街を行く路面電車の中は暖かくて、まるで昭和時代にタイムスリップしたようだ。
璃子が大学の時にこの街に移り住んで来てもう10年近くがたつ。 そこそこの都会育ちだった璃子には信じられない事に、ここでは電車が1時間に1本ほどしか来ない。 更に駅からのバスは3時過ぎでなくなるし、タクシーに乗ると時間はそんなに経っていないのに驚くような料金になる。 地元の友達の家で、一人に一台ずつ車があるのには驚いたけれども納得できる。 自然が多くて食べ物がおいしい、のんびりした暮らしやすい街だけれど、要するに田舎、車がなければ何もできない様な土地だった。
そんな中で、旧国営鉄道の駅と海辺の街をつなぐこの路面電車は、漁港の朝市が始まる5時過ぎから、最終の寝台特急が出る深夜の0時過ぎまできっちりと1時間に3本ずつ、他の交通機関が止まる嵐の日も、大雪が降った日でも雪をかきわけて、ガタゴトと走り続けている。 何度か経営難で廃線になりかけたらしいけれど、そのたびに地元の反対運動が起こって存続してきたそうだ。 水色の背景にピンクのお花が書いてあったり、正面が黄色の猫の顔になっていたり、バラエティに富んだレトロな車体で頑張り続ける路面電車に、何故か愛着がわいてしまうのも判らなくもない。 「効率」や「採算」では測りきれない大切なものをこの電車は一緒に運んでいる様な気がする。 初めて乗った時は、ガタゴトというよりはグラグラに近い乗り心地の悪さにびっくりしたけれども、慣れてしまった今ではそのゆれが疲れた体に心地いい。 不思議な安心感に包まれて璃子はまた眼を閉じた。
カタン、カタン、カタン、カタン。
少し目を閉じるだけのつもりが、いつの間にか眠ってしまっていたようだ、規則正しく響く音によびさまされた璃子はゆっくりと目を開けた。
すっかり夜が明けて朝靄が白く立ちこめている。 路面電車は長い鉄橋の上を走っていた。
海辺まで来た路面電車は、そこで右に折れて終点まで海沿いを走るのだが、その途中大きな川の河口にかかった橋を渡る。 璃子が座っている席からは一面に海が見えて、まるで海の上を走っているようだった。 アパートに帰るにはこの橋の手前の停留所で下りなければいけないから、乗り過ごしてしまった事になるけれど、こんな幻想的な朝焼けの海が見れたのだからこれはこれでいいかもしれない。
カタン、カタン、カタン、カタン。
路面の上を走っていた時とは別の乗り物のように軽快に、電車は鉄橋を渡っていた。 いつの間にか、さっき乗ってきた老婆はいなくなっていて車内には璃子一人だった。
内陸生まれの璃子は、この街に来るまでほとんど海に来た事がなかった。 たぶん小学校の時の臨海学習と、一度家族で四国に旅行に行った時、それくらいしか覚えがない。 だから、「あんなところ、寒くて湿っぽいだけだからやめておきなさいよ。」という友人の忠告を押し切ってまで、今住んでいる海辺のアパートを借りることにした。 それから5年以上、毎日のように海を見ているけれどいまだに飽きる事がない。
カタン、カタン、カタン、カタン。
それにしても、この鉄橋はこんなに長かっただろうか。 いつまでも続く規則正しい音に、璃子はふと疑問を感じた。 後ろの窓を振り返ってみたが、そこにあるはずの川と街は朝霧で真っ白に覆われていて何も見えなかった。 ため息をついて璃子が前を向き直すと、誰もいなかった向かいの席に一人の男が座っていた。
「・・・・ルイ。」
璃子はようやく、自分が夢の中にいる事に気がついた。