第9話「暴走」
リリアがいなくなったのは、夜明け前だった。
俺が気づいたのは、廊下を歩く足音の重さで、だ。装備をつけた人間の足音は、普段と違う。
窓から外を見ると、リリアが街道の方向へ歩いていくのが見えた。剣を帯び、革鎧を着けた、戦闘態勢のままで。
俺は少し考えた。
追うべきか。
認知可視化を遠くへ向けた。リリアの状態が、かすかに映る。
——焦燥。
——「今度こそ」という強迫的な決意。
——そして、その奥に……「負けたくない」。
誰に?
ガルドに。
あるいは——姉に。
俺は追わなかった。
すぐには。
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朝食の時間、リリアの席が空だった。
マリアが気づいて、顔色が変わった。
「リリアさんが……」
「出かけた」
「どこへ——」
「わからない。でも、戦いに行った」
マリアが立ち上がりかけた。俺は首を横に振った。
「待て」
「でも!」
「待て、マリア」
マリアが俺を見た。目に焦りがある。
「リリアが行方不明になって、なぜ落ち着いていられるんですか」
「落ち着いていない。ただ、すぐ追うことが正しいかどうかを考えている」
「何を考えるんですか、一人で行ったら危ない——」
「リリアは自分で選んだ」
マリアが黙った。
「彼女は今、何かと戦いに行った。それは彼女の選択だ。その選択を、俺たちがすぐに阻止することが——彼女のためになるかどうか」
「なりません、そんなこと!危険なんですよ!」
マリアの声が少し上がった。珍しかった。
「彼女が怪我をしたとき、助けに行く。それは俺がする。でも今、彼女が何かと戦おうとしている、その選択そのものを——最初から奪うのは、違うと思っている」
セレスが静かに立ち上がった。
「……場所の見当はつく。ガルドが去った方角に、廃墟がある。そこに向かったとすれば」
俺はセレスを見た。
「一緒に来るか」
「……リリアが嫌かもしれない」
「そうかもしれない。でも、傍にいることと、介入することは違う」
セレスが少し考えて、頷いた。
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廃墟に着いたのは、戦闘が始まってからしばらく経った頃だった。
音で、状況がわかった。
金属音。魔物の咆哮。そして、人間の荒い息。
廃墟の入り口から中を覗くと、リリアが戦っていた。
相手は二体のウォーベア——熊型の大型魔物で、Aランク相当。単独で挑める相手ではない。
リリアは動いていた。速く、鋭く、正確に。でも消耗が見えた。左腕に古傷が開いているのか、動きが少し鈍い。
俺の認知可視化が映す。
——「負けない」という意地だけが、今の彼女を動かしている。
恐怖は麻痺している。痛みも一時的に遮断されている。アドレナリンと意地の力だけで体が動いている状態だ。
こういう状態は、突然崩れる。
マリアが俺の袖を引いた。
「助けに——」
「見ていろ」
「でも——」
「もう少し、見ていろ」
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リリアの剣が、一体の脇腹を捉えた。
ウォーベアが吼えた。でも倒れなかった。体勢を立て直して、巨体で突進してきた。
リリアが飛び退いた。壁に背を当てて、もう一体の攻撃と同時に対処しようとした——
間に合わなかった。
二体の同時攻撃。
リリアが吹き飛んだ。
マリアが悲鳴を上げた。
俺は動いた。
走りながら認知可視化を最大展開した。二体のウォーベアの「次の動き」を読む。
「セレス!」
セレスはすでに魔法を展開していた。二体の足元に氷結の罠が展開される。ウォーベアが動きを止めた。
マリアがリリアの元へ駆け寄った。回復魔法の光が広がる。
俺は二体のウォーベアの前に立った。
剣は抜かない。
認知可視化で読む——二体ともに、今は混乱している。足元を拘束され、突然現れた人間に、攻撃対象を迷っている。
「お前たちの縄張りを荒らしたのは、俺たちだ」
声に力を込めた。威嚇ではなく、存在を示す声だ。
「ここでこれ以上戦っても、お互いに得るものはない」
ウォーベアの一体が唸った。
俺は退かなかった。
数秒の緊張。
やがて二体は、互いに目を交わすような動作をして——ゆっくりと、廃墟の奥へ引いていった。
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リリアは意識があった。
マリアの回復魔法で、最悪の状態は免れた。でも、肋骨が一本折れていると思われた。顔に擦り傷。左腕の古傷が再び開いていた。
目を開けたリリアが、俺を見た。
「……来たのか」
「来た」
「……助けに来たの?」
「傍に来た。助けたのはマリアとセレスだ」
リリアが、天井を見た。廃墟の天井に、穴が開いていて、空が見えた。
「……馬鹿だった」
「そうかもしれない」
「慰めてくれないの」
「事実は事実だ。ただ——」
俺は少し間を置いた。
「最後まで戦った。それも事実だ」
リリアが目を閉じた。
「……勝てなかった」
「そうだな」
「強くなれない」
「今日は、なれなかった」
「この先も——」
「それはわからない」
リリアが黙った。
痛みと疲弊と、もっと別の何かが、彼女の中で混ざり合っているのが見えた。
俺は何も言わなかった。
ただ、隣にいた。
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セレスがリリアの傍に近づいた。
リリアが目を開けた。セレスを見た。気まずい沈黙があった。
セレスが言った。
「……昨日のこと、気にしてない」
リリアが少し目を丸くした。
「謝ってないけど」
「わかってる」
また沈黙。
「……ありがとう」リリアが小さく言った。「助けてくれて」
「お互い様」
セレスはそれだけ言って、少し距離を取って座った。
でも、今度は背を向けなかった。
マリアが涙をぬぐいながら、治療を続けた。
俺は壁にもたれて、空を見ていた。
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帰路、俺はリリアをおぶって歩いた。
最初はリリアが抵抗した。でも、歩けない状態では抵抗も長くは続かなかった。
「……重い?」
「重くない」
「嘘くさい」
「少し重い」
リリアが小さく笑った。
「……ねえ、天城」
「なんだ」
「助けない選択、ってあるじゃない。あなたがよく言う」
「ある」
「今日……私を助けに来なかった時間、あったよね」
「あった」
「あれは……私を信じてたから?」
俺は少し考えた。
「信じていた。でも、それだけじゃない。君が戦う理由を、君自身で感じる必要があると思った」
「……感じた」リリアが静かに言った。「勝てなかったけど、感じた。私は——誰かに認められたくて戦ってたんじゃなくて……ただ、強くなりたかった。それだけだった」
俺は何も言わなかった。
その言葉は、リリアが自分で見つけたものだ。俺が言うより、ずっと重い。
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「助けることが正しいとは限らない」
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