第17話「マリアの選択」
限界が来たのは、次の村だった。
名前のない、地図にも載っていない小さな集落。十数軒の家が寄り集まっただけの場所。
着いたとき、村人のほぼ全員が、広場に座り込んでいた。
目が虚ろで、互いに言葉もない。子供が泣いているのに、親が反応しない。犬が吼えているのに、誰も気にしない。
マリアが真っ先に駆け寄った。
「大丈夫ですか。怪我はありますか——」
誰も答えない。
マリアが子供の隣に膝をついた。子供は泣きながら、母親の袖を引いていた。母親は空を見たまま、動かなかった。
マリアが回復魔法を発動した。光が母親を包んだ。
一瞬、目が動いた。でも、すぐに戻った。
マリアが別の人間に移った。回復魔法。また戻る。
また別の人間へ。また戻る。
マリアの手が震え始めた。
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俺はマリアの後ろに立っていた。
止めるべきか。
俺の中で、葛藤があった。
マリアは今、全力を使っている。これは彼女の選択だ。俺が止めることは——彼女の課題に踏み込むことだ。
でも、このまま使い続ければ、また倒れる。
前回と同じことを繰り返す。
俺は声をかけた。
「マリア」
マリアは止まらなかった。
「マリア」
また止まらなかった。
俺はマリアの前に回り込んだ。目が合った。
マリアの目には、俺は見えていなかった。村人の顔だけを見ていた。
「……まだいる。まだいる人がいる」
「マリア、聞いてくれ」
「でも——」
「聞いてくれ」
マリアが、ようやく俺を見た。
目が赤い。いつから泣いていたのか。
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「この人たちを、全員助けたいか」
「……当然です」
「お前の回復魔法は、身体を治す。でも、この人たちが失っているのは——立ち上がる理由だ」
「わかってます。それでも、今できることをするしかない——」
「できることと、やるべきことは違う」
マリアが黙った。
俺は続けた。
「お前が今、全員に回復魔法をかけても、一時間後に元に戻る。それを見てきた」
「でも何もしないよりは——」
「本当にそうか」
マリアが俺を見た。
「お前が回復魔法をかけ続けることで、村人たちは——自分で立ち上がる機会を失う可能性がある」
「……どういうことですか」
「お前が来るたびに、楽になる。でも、お前がいなくなれば元に戻る。それは、お前への依存を生む。本人が自分の力で立ち上がる代わりに、お前に依存するようになる」
マリアの顔が、止まった。
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長い沈黙があった。
広場の子供の泣き声が、続いていた。
マリアが俯いた。
「……私は……」
声が出なくなった。
俺は待った。
「私は……今まで、ずっと……誰かの痛みを取り除くことで、自分が価値を感じていた。誰かが楽になるたびに、私も楽になった。でも……」
「でも」
「……それは、相手のためだったのか。それとも……自分が楽になりたかっただけなのか」
その問いを、マリアが自分で立てた。
俺が植えた問いではない。マリアが自分で育てた問いだ。
「……両方だと思う」俺は言った。「相手のためでもあり、自分のためでもある。それは、悪いことじゃない」
「でも……今それをすることで、相手の自立を邪魔しているとしたら」
「そうなら、やり方を変える必要がある」
「……どう変えれば」
「それを、今、一緒に考えている」
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マリアが顔を上げた。
泣いていたが、目に何かが灯っていた。
広場を見渡した。
虚ろな村人たち。泣いている子供。動かない母親。
マリアが立ち上がった。
でも、回復魔法は発動しなかった。
代わりに、子供の前に膝をついた。
「……名前は?」
子供が泣きながら、マリアを見た。
「……ロン」
「ロン、お母さんが心配だね」
「……うん」
「お母さんに、話しかけてみて。ロンの声は、きっと届くから」
子供が戸惑った顔をした。
「……でも、話しかけても、返事しない」
「返事がなくても、届いてる。ロンの声は、お母さんにとって一番大事な声だから」
子供がゆっくりと母親の方を向いた。
「……お母さん」
母親が動かない。
「……お母さん、ロンここにいるよ」
数秒の沈黙。
母親の目が、かすかに動いた。
子供の顔を見た。
ゆっくりと、手が伸びた。子供の頭に、触れた。
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俺は、それを見ていた。
マリアは何もしなかった。
回復魔法も、手を貸すことも、何も。
ただ、子供に言葉を渡した。
子供が動いた。
子供の声が、母親に届いた。
母親が動いた。
それだけだった。
でも——確かに、何かが変わった。
リリアが俺の隣に来て、小さく言った。
「……マリアが、変わった」
「そうだな」
「いつもと、違う」
「そうだな」
「何が変わったんだ」
俺は少し考えた。
「自分が助けることをやめて——相手が自分で動くことを、信じた」
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その後、マリアは広場を歩き回った。
回復魔法は使わなかった。
ただ、虚ろな人々の隣に座り、話しかけ、時に笑い、時に静かに傍にいた。
全員が動いたわけではない。
でも、二人が、三人が、ゆっくりと顔を上げた。
子供たちが、少しずつ声を出し始めた。
その声が、親に届いた。
親が動き、声が広がり——広場が、少しずつ、人間の空間に戻っていった。
虚無王の影響が、薄れていくのを俺は感じた。
消えたわけではない。でも、小さくなった。
人が動き始めると、虚無は退く。
それがこの世界の法則だ。
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夜、マリアが俺のところに来た。
「……怖かったです」
「何が」
「助けないことが。目の前に苦しんでいる人がいて、何もしないことが——こんなに怖いとは、思わなかった」
「でも、やった」
「……やりました」マリアが少し笑った。「天城さんが、ずっと言っていたことが、今日少しだけわかった気がします」
「何が」
「助けることと、信じることは、違う。助けることは、相手が無力だという前提に立つことがある。でも、信じることは——相手が動けると思って、待つこと」
俺は頷いた。
「……怖いですね、待つのって」
「そうだな」
「でも……信じることの方が、本当の優しさかもしれない」
マリアの声は、確信ではなく、問いに近かった。
でも、その問いが、今日のマリアのものだった。
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「信じるとは、任せること」
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