第16話「絶望」
ブレイグを出て三日後、最初の兆候が現れた。
街道沿いの村が、空だった。
人が消えたわけではない。家の中に閉じこもっている。窓に板が打ちつけられ、扉が内側から閉じられている。声をかけても、返事がない。
次の村も同じだった。
その次の村では、住民が出てきたが、目が虚ろだった。
「……どうしたんですか、みなさん」マリアが声をかけた。
女性が答えた。声が平板だった。
「なぜ戦うんだろうと思って。どうせ魔物はまた来る。戦っても意味がない。頑張っても意味がない。何をしても変わらない」
マリアが固まった。
俺の認知可視化が、女性の認知を映す。
——深い虚無。
——「何も変わらない」という確信。
——行動する意欲の消失。
これは落ち込みではない。もっと根本的な何かだ。
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その後も村を回るにつれ、同じ症状の人間が増えていた。
リリアが言った。
「……魔王の影響か」
「そう思う」
「でも、魔物は出ていない。ガルドも動いていない」
「直接攻撃ではない。認知を歪める影響だ。この世界では、認知が現実に影響する。逆に、何かが認知を直接歪めれば——現実が歪む前に、意欲が消える」
セレスが言った。
「……虚無王の本体が動き始めている、ということか」
「可能性がある」
リリアが剣の柄を握った。
「どこにいる。行って戦う」
「戦えない。形がない」
「形がない?」
「虚無王は、人間の課題回避の集合体だ。責任転嫁、対立、承認欲求の極大化——それが形を成したもの。物理的に斬れる対象ではない」
リリアが苦い顔をした。
「じゃあ、どうするんだよ」
俺は答えられなかった。
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翌日、状況がさらに悪化した。
マリアが、虚無の影響を受けた村人たちに回復魔法をかけ続けた。
回復魔法は、身体の傷を治す。でも、これは身体の傷ではない。認知の傷だ。
回復魔法を使っても、村人たちの目は変わらなかった。
マリアが一人の老人に回復魔法をかけた。老人の顔が少しだけ和らいだ。でも一時間後に見ると、また虚ろに戻っていた。
マリアが俺のところに来た。
「……天城さん、なぜ効かないんですか」
「身体の問題じゃないから」
「では、どうすれば——」
「本人が自分で立ち上がる意欲を取り戻さなければ、外からは治せない」
マリアが唇を噛んだ。
「……私には何もできないんですか」
「今のやり方では、難しい」
マリアが俺を見た。傷ついた顔だった。
俺は続けた。
「マリア。お前の回復魔法は身体を治す。でも、人の意欲は——本人が選ぶしかない。お前が代わりに選ぶことはできない」
「でも……このまま見ているだけなんて——」
「見ているだけとは言っていない。ただ、やり方を変える必要がある」
「どう変えれば——」
「それを、一緒に考えたい。ただ今は——」
俺は言葉を切った。
正直に言うしかない。
「今の俺にも、答えがない」
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夜、野営しながら四人で話し合った。
リリアが言った。
「王都に帰るか。バルドに状況を報告して、大規模な対処を——」
「王都も、同じ状況になっているかもしれない」とセレスが言った。「虚無王の影響は、強い認知の歪みが集まる場所ほど大きい。王都は——怒りと権力と不安が集中する場所だ」
「……そうか」
マリアが静かに言った。
「……天城さん、本当に答えがないんですか」
「今は、ない」
「でも……これまでも、答えが見えないことがあった。それでも、何かを見つけてきた」
「そうだな」
「だから……もう少し、考えましょう」
マリアの声は穏やかだったが、以前と違う何かがあった。
以前のマリアなら、こういうとき、「私が何とかします」と言っていたはずだ。
でも今夜は、「一緒に考えましょう」と言った。
俺はその変化を、黙って受け取った。
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深夜、俺は一人で考えた。
虚無王の影響は、人間の「やってもどうせ変わらない」という無力感を増幅させる。
それはアドラー心理学でいう「劣等コンプレックス」——劣等感を行動しない理由にする状態だ。
前世で何度も見た。
「どうせ自分には無理だ」「変われるのは特別な人間だけだ」「頑張っても無駄だ」——そういう言葉を何度聞いたか。
でも、人は変われた。
何がきっかけかは、人それぞれだった。一つの言葉のこともあった。誰かの行動のこともあった。自分の小さな成功のこともあった。
変わるきっかけは、外から届く。でも、変わる選択は、中から来る。
俺にできることは——変わるきっかけを、置き続けることだ。
それが届かなくても、置き続ける。
届く人が、一人いれば、そこから連鎖する。
でも今夜は——それでも、重かった。
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翌朝、マリアが一人で早起きして、村を歩いていた。
俺はそれを遠くから見ていた。
マリアは虚ろな村人たちに、回復魔法をかけていなかった。
ただ、隣に座っていた。
何かを話していた。顔が見えないが、身振りから、楽しい話をしているような雰囲気だった。
老人が、少しだけ口元を動かした。
笑い、ではないかもしれない。でも、反応だ。
マリアが何かを変えようとしていた。
回復魔法ではなく、存在することで。
俺はそれを見て、少し、息が楽になった。
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「救えない現実もある」
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