第15話「小さな魔王」
ブレイグの街に、異変が起きたのは夜だった。
俺たちが宿で休んでいると、外が騒がしくなった。怒鳴り声、何かが壊れる音、そして悲鳴。
窓から見ると、市場の広場で群衆が揉み合っていた。
夜の市場で言い争いが始まり、それが殴り合いに発展したらしい。だが、おかしかった。普通の喧嘩とは違う。人々の目が、何かに取り憑かれたようだった。
俺の認知可視化が、広場全体を映そうとした。
——敵意。
——恐怖。
——「あいつが悪い」「あいつのせいだ」という責任転嫁の渦。
個人個人の認知ではなく、それが集まって、何か別のものになっていた。
「行くぞ」俺は言った。
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広場に近づくにつれ、空気が歪んでいるのがわかった。
魔力的な歪みではなく、もっと根本的なもの——認知の歪みが、空間に滲み出している。
群衆の中央に、何かいた。
人間の形をしていたが、人間ではなかった。
身長は通常の人間と大差ない。でも、体の輪郭が定まっていない。霧のような何かが纏わりつき、顔らしき部分には目も鼻もなく、ただ口のような裂け目が開いていた。
俺の知識と、この世界での経験が一致した。
これが「小さな魔王」——ミニ魔王だ。
大きな魔王(虚無王)の断片が、人間の対立の中に宿って形を成したもの。討伐はできる。でも、根本の対立が残れば、また生まれる。
「あれは……」リリアが剣に手をかけた。
「待て」
「魔物だろう、あれは——」
「魔物だが、斬れば終わりじゃない」
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ミニ魔王は、群衆の敵意を吸って動いていた。
誰かが誰かを怒鳴るたびに、形が少し大きくなる。誰かが誰かを責めるたびに、輪郭が少し濃くなる。
逆に言えば、群衆の敵意が消えれば、弱くなる。
俺は広場の中央に歩いた。
群衆が俺に気づき、少し揉み合いが弱まった。見知らぬ人間が入ってきた、という反応だ。
「聞いてくれ」俺は声を出した。大きく、でも怒鳴らずに。
何人かが俺を見た。
「何がきっかけで争いになったか、教えてもらえるか」
誰かが叫んだ。「あいつが先に押してきた!」
別の誰かが叫んだ。「そっちが先に俺の荷物を蹴ったんだろう!」
また言い争いが始まりかけた。
「待って」
マリアが前に出た。
俺は少し驚いた。
マリアが、声を張った。珍しかった。
「怪我をしている人はいますか。私が回復魔法をかけます」
群衆が少し止まった。
怪我人が数人、手を挙げた。
マリアが歩いていき、回復魔法をかけ始めた。
その行動が、場の空気を変えた。
怒鳴り合いが、少し小さくなった。
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俺は認知可視化を続けながら、群衆の中を歩いた。
ミニ魔王は群衆の外れに移動していた。敵意が薄れると、それを求めて動く。
セレスが俺の隣に来た。
「……あれを直接無力化する方法はあるか」
「敵意の根を断てば、自然に消える」
「群衆全員の認知を変えるのは無理だ」
「全員じゃなくていい。中心にいる人間が変われば、連鎖する」
俺は群衆の中を見渡した。
認知可視化が最も強い怒りの源を映す。
——二人の商人。
一人は布地を売る老人、もう一人は食料を扱う中年の男。二人の間に、長年の商売上の確執があるようだった。今夜の争いは、その確執に別の怒りが乗った群衆が加わって、爆発したものだ。
俺は二人に近づいた。
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「少し話せるか」
二人とも、俺を見て怪訝な顔をした。
「俺には関係ない」布地商の老人が言った。
「関係ある。あなたたち二人が落ち着けば、この場が落ち着く」
「俺のせいか」食料商の男が声を荒げた。
「あなたのせいとは言っていない。あなたの行動が、場に影響するという話だ」
二人が睨み合った。
「こいつが先に俺の市場での縄張りを——」
「そっちが先に安売りで客を奪って——」
「一つだけ聞いていいか」俺は言った。
二人が止まった。
「この街が、もし明日なくなったら——あなたはどちらのことを後悔するか。争い続けたこと、それとも争いを終わらせなかったこと」
沈黙。
老人が先に黙り込んだ。
男も黙った。
ミニ魔王が、わずかに輪郭を薄くした。
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老人が、ゆっくりと言った。
「……うちの孫が、あんたの店のパンが好きだ」
男が驚いた顔をした。
「……知らなかった」
「言ったことがなかった。意地を張っていたから」
男が少し間を置いた。
「……うちの息子は、あんたの布で作った服を着ている。丈夫で、長持ちする」
「……そうか」
二人が、初めて互いを見た。
敵意ではなく、戸惑いと、わずかな柔らかさが混じった目で。
ミニ魔王が、さらに輪郭を失った。
霧のように薄くなり——消えた。
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広場の空気が、ゆっくりと変わった。
群衆が我に返るような顔をした。殴り合っていた人々が、互いに「なぜこんなことに」という表情を見せた。
リリアが俺の隣に来た。
「……消えた」
「ああ」
「なんだったんだ、あれは」
「人間の対立が形になったものだ。討伐しても、対立が残れば、また出てくる」
「……だから剣で斬らなかったのか」
「そうだ」
リリアが少し黙った。
「あの二人の商人に、何を言ったの」
「問いを置いただけだ」
「問い一つで、あれが消えるのか」
「消えたのは、二人が自分で変わったからだ。俺は何もしていない」
リリアが俺を見た。
「……それを言うの、いつも」
「本当のことだから」
「でも……あなたがいなければ、変わらなかった」
俺は少し考えた。
「かもしれない。でも、俺ができるのは問いを置くことだけだ。変わったのは、あの二人だ」
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宿に戻り、四人で今夜のことを話した。
セレスが言った。
「……魔王は、対立から生まれる。対立をなくせば、魔王は生まれない」
「理論上はそうだ」
「でも、対立は人間が生きている限りなくならない」
「そうだな」
「では……どうすれば」
マリアが言った。
「なくさなくても……今夜みたいに、その場その場で小さくすることができれば、いいんじゃないでしょうか」
セレスが少し考えた。
「……それは、根本解決じゃない」
「そうですね」マリアが答えた。「でも……根本より、目の前の人が大事なときもある、と思います」
セレスが少し黙った。
その答えに、反論できなかった様子だった。
俺は何も言わなかった。
マリアが自分の言葉で、何かを掴み始めている。
それが今夜の、一番大きな変化だった。
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「争いは形を変える」
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