第1話「戦わない勇者」
森の空気が、血の匂いに変わった。
木々の隙間から差し込む夕陽が、赤く染まった地面を照らしている。俺——天城恒一——は、剣の柄に手もかけないまま、その場に立っていた。
「天城、何してんの!」
リリアの声が飛んでくる。怒りと焦りが混じった、彼女らしい叫び声だ。
目の前には、体長二メートルを超える魔物がいた。グレイウルフ——灰色の体毛を持つ群れの魔物で、単体でも並の冒険者なら手を焼く相手だ。牙から涎を垂らし、低く唸りながら、俺たちを睨んでいる。
リリアはすでに剣を抜いていた。右手に輝く白銀の刃が、夕陽を反射してぎらりと光る。セレスは後方で魔法陣を展開中。マリアは回復魔法の準備をしながら、不安そうに俺を見ていた。
誰もが「当然戦う」という前提で動いている。
俺だけが、動いていなかった。
「……少し待ってくれ」
「は?」
リリアが目を剥く。その隙に、グレイウルフが一歩前に出た。威嚇の唸り声が低くなる。戦闘経験のある者なら誰でも理解できる——攻撃直前のサインだ。
俺は剣を抜かなかった。
代わりに、目を細めた。
これが俺の能力——認知可視化。
対象の認知構造が、うっすらと見える。信念、感情、回避している課題、行動の目的。人間相手でも魔物相手でも、「なぜそう動くのか」が視覚情報として浮かび上がってくる。
グレイウルフの認知が、俺の目に映った。
——恐怖。
——縄張り防衛。
大きな感情の塊が、二つ。怒りじゃない。支配欲でもない。この魔物は、恐れているのだ。自分の縄張りに踏み込んできた存在から、何かを守ろうとしている。
「天城!いい加減にして——」
「リリア、剣を下げてくれ」
「……なんで私が」
「下げてくれ」
俺の声は静かだった。怒鳴らない。命令口調でもない。ただ、確信があった。
リリアは舌打ちしながらも、剣先をわずかに下げた。完全にではない。彼女の性格上、それが限界だろう。
俺はゆっくりと、グレイウルフの方を向いた。膝を軽く折り、目線を下げる。
「お前は……巣を守ってるのか」
もちろん、言葉は通じない。
でも、認知は通じる。俺が感じているのはそういう感覚だ。この能力を得てから気づいたことがある——言語は手段に過ぎない。伝わるのは、言葉の中にある「意図」だ。
グレイウルフの唸り声が、少しだけ変わった。
攻撃的な低音から、様子を伺うような音へ。
俺は一歩だけ後退した。脅威ではないことを示す動作だ。
「俺たちはここを通るだけだ。お前の縄張りを奪いに来たわけじゃない」
魔物は動かない。
俺も動かない。
数秒の沈黙が、森に満ちた。
やがて、グレイウルフはゆっくりと向きを変えた。俺たちを一度だけ振り返り、そのまま森の奥へと消えていった。
静寂が戻ってくる。
風が葉を揺らす音だけが残った。
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「……意味がわからない」
リリアが剣を鞘に収めながら、吐き捨てるように言った。
俺は立ち上がり、服についた土を払う。
「戦わなくて済んだ」
「それの何がいいの」
「怪我をしなかった。魔物も死ななかった。時間もかからなかった」
「勇者が魔物を退けるんじゃないの?倒すんじゃないの?」
リリアの声には、本物の苛立ちがあった。彼女の認知が、うっすらと俺の目に映る。
——期待の裏切り。
——自分の出番を奪われた感覚。
俺はそれを指摘しなかった。今じゃない、と思った。
「確かに魔物を倒すのも一つの方法だ。でも今回は別の方法があった」
「あなたに戦う気があるの?勇者なんでしょ」
「戦う気はある。必要なら戦う」
「どこが必要なの、さっきは!」
マリアが間に入った。
「リリアさん、落ち着いて。結果的に無事だったんだから——」
「無事ならなんでもいいわけじゃないでしょ」
リリアはそれだけ言うと、さっさと先を歩き始めた。
マリアが困った顔で俺を見る。
「すみません、天城さん。リリアさんは……その……」
「気にしなくていい」
俺は本当にそう思っていた。リリアの怒りは、俺への攻撃じゃない。彼女自身の何かが、あの場面で刺激された。それだけのことだ。
セレスは魔法陣を消しながら、一言も発さずに歩き出した。こちらも相変わらずだ。
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王都への帰路、俺は少し後れを取って歩きながら考えていた。
前世の記憶は、まだ鮮明だ。
俺は日本で心理カウンセラーをしていた。専門はアドラー心理学。課題の分離、目的論、共同体感覚——そういった概念を、クライアントに伝えることが仕事だった。
死因は覚えていない。気がついたらこの世界にいて、「勇者」として召喚されていた。
最初は戸惑った。なぜ俺が勇者なのか、まったく意味がわからなかった。
でも今は少しわかる気がする。
この世界には、認知の歪みが多すぎる。強さへの執着、依存、他責、回避——前世でカウンセリングルームの中で見ていたものが、ここでは世界規模で起きている。
そして魔王は、その歪みの集合体だという。
戦って倒せるようなものじゃない。根っこにあるものを変えなければ、また生まれてくる。
俺が剣を持たないのは、臆病だからじゃない。
剣では、解決できないと知っているからだ。
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宿に戻ると、リリアはすでに自室に引きこもっていた。
マリアが夕食の準備を一人でこなしている。俺が手伝おうとすると、「いいです、私がやります」と穏やかに断られた。その笑顔の奥に、かすかな疲弊が見えた。
セレスは隅の席で、一人で本を読んでいる。誰とも目を合わせない。
俺は席について、スープを一口飲んだ。
……このパーティ、問題だらけだな。
前世なら、カウンセリングの予約を三人分入れるところだ。
でもここでは俺が勇者で、彼女たちは仲間で、一緒に世界を救わなければならない。
「世界を救う」という言葉の重さを、この世界の人々は軽く使いすぎる。
世界を救うとはどういうことか。
魔王を倒すことではないと、俺は思っている。
魔王を生み出す「関係の歪み」を、一つひとつ解いていくことだ。
それは地味で、遅くて、派手さのない仕事だ。
誰も称えてくれないかもしれない。
でも——
「……天城さん、スープおかわりいりますか?」
マリアの声に、俺は顔を上げた。
「ありがとう。でも、今日は俺がよそう」
マリアが少し驚いた顔をする。俺は立ち上がって、スープ鍋のそばに移動した。
「マリアも座って食べてくれ。全部一人でやる必要はない」
「……でも、私がやった方が早いですし」
「早さより、一緒に食べる方がいい」
マリアは一瞬だけ止まって、それから静かに席に着いた。
セレスは本から目を上げなかった。
リリアは来なかった。
それでいい、と俺は思った。
今日は今日の分だけ、進めばいい。
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夜、俺は窓から星空を見上げながら、今日のことを反芻した。
グレイウルフは恐怖から攻撃していた。リリアは承認欲求から苛立っていた。マリアは価値証明から動いていた。セレスは傷つきたくなくて距離を取っていた。
全員が、何かから逃げながら、何かを守ろうとしていた。
魔物も、仲間も。
問題は「敵」じゃない。
どう見るか、だ。
俺は目を閉じた。
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「問題は敵じゃない。どう見るかだ」
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