グラスと壁と、猫
「そこ、狭くない?」
「狭い。それと寒い。
あと酒くさい」
「……文句多いなあ」
「夜中に呼び出されたら、
....…文句ぐらい言うでしょ」
グラスの中で猫がしっぽを揺らした。
氷が揺れてカラン、と鳴る。
壁紙の角が少し剥がれている。
前から気づいてたけど、
直してない。
テーブルの上には、
しわくちゃの退職通知と、
ウイスキーボトル。
「失業した。
......もういらないって、」
「うん」
「……ちゃんとさ、
積み上げてたつもりだったんだけど」
「何を」
「仕事、信頼とか立場とか、そういうの。
遅刻しないし、仕事できるし、
無理なシフトも埋めたし、
私が抜けたら困るでしょ、って…」
「思ってた?」
私は一瞬、黙った。
猫はグラスの内側をコツンと叩く。
「だいたいその年齢で、
それ思うよね」
「慰めてる?」
「いや、共有してる」
私は壁にもたれて座り込む。
冷たい。
前にここに住んでた人の気配が残る壁。
もういない人の温度。
「結果、普通に回った。
笑える位きれいに消えた」
「そりゃ回るよ。会社は」
「じゃあ私、何だったの」
「縁の下の力持ち、
みたいな?」
「何それ」
「目立たないけど、
いないと困るやつ」
私は少し笑った。
「でもさ、
もういらないって言われたよ」
「それは、
場所が違ったんだよ」
「何それ、
簡単に言うなあ」
「だって簡単に言わないと、
今夜、終わらないでしょ」
氷が溶け猫の輪郭が
まるくなる。
「ねえ」
猫が言う。
「これから、何するの?
やりたいことは?」
私は天井を見る。
「書くのとか、歌うの、
好きだった」
「知ってる」
「なんで」
「高校の頃から、
ノート持ち歩いてた。
風呂でよく歌ってたし」
「何で知ってんの?
...…見てたの?」
「うん。
見てた。地味にね」
私は吹き出した。
「忙しくなって、
“今さら”って
言い訳してやめちゃった」
「四十前で“今さら”は便利すぎ」
「うるさい」
真っ直ぐ私を見上げて、
猫は言った。
「でも、今、思い出した」
私はグラスをテーブルに置いた。
「今日は、もう飲むのやめとこ」
「あら珍しい」
「えらい?」
「はいはい」
猫はふーっと息を吐き、
大あくびして伸びをすると
グラスの底で丸くなった。
私は、
少し小さくなった猫を指でつつく。
「次、呼ぶなら」
「うん」
「コーヒーにして。
そろそろ、
夜型の人生きつい」
「あはは、同感」
朝。澄み切った冬の空。
いい天気だな。
人の気も知らないで。
壁の冷たさを思い出しながら、
コーヒーを淹れる。
空をぼんやり眺めていると、
ラインの着信音がした。
――久しぶり。
昨日、昔のノート見つけてさ。
あんた、まだ書いてる?
高校時代からの友達。
いつも一緒にいた、
懐かしい名前。
私は少し考えて、返した。
――久しぶり。
ちょうど、また始めようと
思ってた。
――そうなんだ。じゃあさ、
今度一緒に、
何かやらない?
シンクの中には、空のグラス。
見つめて、つぶやいた。
「……見てるの?」
もちろん返事はない。
でも、壁の向こうで、
猫が鼻で笑った気がした。




