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密室殺人にスミレは白くうつろふ  作者: 霧島響矢
第三章 密かに香る

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9/22

11:49 混色

 油切れの蝶番が軋むような、重苦しい音。

 事務長が、震える手でゆっくりとノブを引く。分厚い鋼鉄の塊が外側へ開いていくにつれ、密閉されていた地下室の空気が、冷たい風圧となって葵翔の顔に吹き付けた。

 その風が運んできたのは、予想していた画材や薬品の匂いではなかった。もっと生々しく、鼻腔の奥にへばりつくような、濃厚な鉄錆の臭気――圧倒的な、血の匂いだった。

 誰かの短い悲鳴と共に、全員がその場に立ち尽くした。

 最初に動いたのは警備員だった。彼は職務上の義務感に突き動かされるように、警棒に手をかけながら慎重に室内へと足を踏み入れる。続いて事務長と白衣の女性が恐る恐るその背中を追った。

 すみれもまた、彼らの邪魔にならないよう距離を保ちつつ、部屋の中を覗き込むように進んでいく。

 取り残された葵翔は、鉛のように重くなった足を無理やり動かした。

 この先に、変わり果てた父がいるかもしれない。その現実を見るのが恐ろしくて、彼は一番最後に、恐る恐るその境界線を越えた。

 そこは、華やかな美術館の地上階とは似ても似つかない、殺風景で実務的な空間だった。

 広さは教室二つ分ほどだろうか。壁は冷たい打ちっ放しのコンクリートで、天井には空調のダクトや配管がむき出しのまま這っている。だが、それらは空気を循環させるための細い管に過ぎず、ネズミならともかく、人間が通り抜けられるような太さの排気口は見当たらなかった。

 窓もなく、通気口も塞がれている。ここはこの扉以外、外界との接続を持たない完全な閉鎖空間だった。

 無機質なスチールラックが壁際に並び、そこには夥しい数の溶剤の瓶や筆、ロール状のキャンバスが無造作に詰め込まれていた。

 頭上の蛍光灯が微かなノイズを立て、青白く寒々しい光を部屋の隅々まで投げかけている。長年染み付いたテレピン油の鋭い揮発臭と、膠の獣臭さ。それらに今、あのむせ返るような鉄錆の臭気が混じり合い、呼吸をするたびに肺の奥へねっとりと張り付くような不快感をもたらしていた。

 彼は作業台に突っ伏すように倒れていた。

 そのすぐ傍らには、一枚の絵画が無造作に転がっている。

 倒れているのは、御影館長だった。

 後頭部には鈍器のようなもので殴られた裂傷があり、そこから流れ出たどす黒い血が、作業台を伝って床へと滴り落ちていた。傷口の状態と出血量から見て、一撃で意識を刈り取られたことは明らかだ。

 即死か、それに近い昏倒。

 これは事故死でも、自殺でもない。明確な他殺だ。

 その衝撃で乱れたのか、シャツの襟元が大きくはだけていた。

 露わになった喉仏の下に、どす黒く変色した鬱血痕が浮かび上がっているのが、葵翔の目に留まった。

 それは明確な、人の指の形をしていた。

 誰かが正面から、強い力でその細い首を絞め上げようとした痕跡だ。抵抗したのか、変色した皮膚の上には、爪で引っ掻いたような細いミミズ腫れも幾筋か走っている。単なる事故や軽い口論ではない、濃密な殺意の残滓がそこに刻まれていた。

 床に投げ出された彼の右手は、何かを掴み込んだ形のまま、石膏のように硬直していた。

 白く血の気を失った指の隙間から、真鍮色の鈍い輝きがわずかに覗いている。この部屋の鍵だろうか。

 だが、彼が薄れゆく意識の中で、自ら扉まで這っていき、内側から鍵をかけて戻ってくる――そんな猶予など、一秒たりとも残されていなかっただろう。

 そして、何より異様で、見る者の生理的な嫌悪感を煽ったのは、遺体を取り巻く床の惨状だった。

 コンクリートの床一面に、砕け散った幾つものガラス瓶の破片と共に、目が覚めるほど鮮烈な青い液体がぶちまけられていたのだ。

 蛍光灯の寒々しい光を濡れた表面で鈍く反射するその青は、この薄暗い地下室には似つかわしくないほど高貴な深みを湛えている。

 その色彩が、つい先ほどの展示室での会話を、葵翔の記憶の底から鮮明に引きずり出した。

 ウルトラマリン。海を越えてきた青。最高級のラピスラズリを砕いて作られた、金と同じ価値を持つ顔料。

 床に広がっているのは、まさにその砕かれた宝石を油で溶いた、星空の海だった。

 葵翔は、言葉にはできない神聖さを感じ取った。

 だが、その聖なる水面へ、作業台の上からポタリ、ポタリと滴り落ちる赤黒い液体が、静かに、しかし確実に波紋を広げている。

 生温かい鉄の臭いを放つ、生身の赤。

 永遠を約束された鉱物の青が、朽ちゆく肉体の赤によって侵食され、汚されていく。

 相反する二つの色は、転がったキャンバスの上で、あるいは冷たい床の上でゆっくりと混じり合い、ドロドロとした粘り気のある土気色の紫へと変貌していく。それはまるで、コンクリートの床そのものが巨大な打ち身の痣となって浮き上がってきたかのような、生理的な嫌悪を催す不吉な色彩だった。

 美しい風景画が、暴力的な毒によって塗り潰され、死んでいく過程。

 葵翔は、その毒々しい混濁が靴底に触れるのを恐れ、無意識に足を縮めた。

 足の踏み場は、島のように点在する乾いたコンクリートの地肌しかない。彼は息を詰め、革靴の爪先がその粘つく紫色の沼を犯さないよう、慎重に重心を移動させながら、遺体の顔が確認できる位置へと回り込んだ。

 父ではなかった。

 あまりの惨状に足が竦んだが、同時に、葵翔は心の底から安堵のため息が漏れそうになるのを必死に噛み殺した。

 被害者は父ではない。彼はすぐ隣に立つすみれを見やった。

「すみれ、君は言ったよね。『モリカワ』って」

 給仕長が電話で叫んでいた名前。彼女はそれを読み取ったはずだ。だが、被害者は「ミカゲ」だ。「モリカワ」と「ミカゲ」。口の動きは似ても似つかない。読み間違えるはずがないのだ。

「あ……ごめんね?」

 葵翔の無言の追及に対し、すみれはコクリと小首を傾げた。彼女は両手を胸の前で合わせ、上目遣いで彼を見つめる。

 ひどく慌てていて、「ミカゲ」が「モリカワ」に見えてしまったのだという。長い睫毛を震わせ、申し訳なさそうに眉を下げるその仕草は、責める言葉を封じるのに十分な愛らしさを湛えていた。

 潤んだ瞳でそう囁かれると、追及する気力も失せてしまう。彼女は葵翔をこのステージに引きずり込むためなら、息をするように嘘をつき、そしてこんな風に可愛らしく笑ってみせるのだ。

 背後では、我に返った警備員が震える手でスマートフォンを取り出し、警察への通報を始めている。

 その怒号のような声をBGMに、葵翔は紫色の泥を見つめながら、自分が彼女の手のひらの上で完全に踊らされていることを痛感していた。

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