11:48 匂い
地下廊下の突き当たり。薬品のツンとした刺激臭と、古びた紙の匂いが濃く漂う一角に、二人の男女が立ち尽くしていた。
重厚な鉄扉の前で、短く刈り込んだ髪に小太りな体型の男性職員が、頭を抱えて落ち着きなく歩き回っている。
その横、扉の脇の壁に背中を預けているのは、ボブカットの女性だ。白衣を着ているが、今はその身体が小刻みに震えている。彼女は虚ろな目で宙を見つめ、口元をハンカチで強く押さえていた。
閉ざされた鉄扉の中央には、網の入った分厚い強化ガラスの覗き窓が嵌め込まれている。
そのガラスの表面は薄暗く、こちらの光を鈍く反射しているだけだ。だが、扉の脇で崩れ落ちそうになっている女性の視線は、その小さな四角い枠から逃れられないでいる。
異常な憔悴と、扉に対する拒絶反応。
彼女が先ほどまで、そのガラス越しに何を目撃していたのか。言葉を聞かずとも、彼女の全身が雄弁に惨劇の存在を物語っていた。
「父さん!」
葵翔が叫びながら駆け寄ると、小太りの職員は悲鳴に近い声を上げて振り返った。
「な、なんだ君たちは。ここは立ち入り禁止だぞ」
職員が慌てて両手を広げ、二人の前に立ちはだかった。
葵翔は彼の腕に阻まれながら、必死にその背後にある扉へと視線を走らせた。
そこにあるのは、無骨なほどに堅牢な灰色の鋼鉄扉だ。厚みのある金属の枠、鍵穴。まるで金庫室か独房の入り口のような威圧感が、彼を拒絶している。
葵翔は、行く手を阻むように差し出された職員の太い腕に、自らの指を食い込ませた。
制止の言葉など、今の彼の耳には届かない。
喉の奥が恐怖と渇きで張り付き、言葉が形を成さずに崩れ落ちそうになる。それでも、肺に残った全ての空気を使い、彼は叫びに近い声を絞り出した。
「息子です。森川の息子です」
自分の名乗った姓が、この状況でどれほどの効力を持つのか、あるいは混乱を招くのか、計算する余裕など微塵もない。ただ、あの鉄扉の向こう側にある真実を知る権利が自分にはあるはずだと、全身で訴えるしかなかった。
職員の目が驚愕に見開かれるのを至近距離で捉えながら、葵翔はさらに一歩、身体を強引に押し込んだ。
走ってきた熱で、シャツの襟元が汗ばみ、冷たく肌に張り付いている。
「父さんは……、父さんは無事なんですか」
問いかけは、祈りにも似た悲痛な響きを帯びていた。
肯定の言葉が欲しい。間違いだと言ってほしい。
葵翔の視線は、職員の硬い表情の奥にある答えを無理やり引きずり出そうとするかのように、相手の瞳孔を揺るぎなく覗き込んでいた。握りしめた職員のスーツの生地が、指の中で軋みをあげるほどに力が込められている。
葵翔は職員の肩越しに、扉の中央に穿たれた小さな覗き窓を睨みつけた。
網の入った分厚い強化ガラスの向こう。だが、ここからでは角度が悪く、見えるのは無機質な白い天井の隅と、木製のイーゼルの先端だけだ。肝心の床が、部屋の奥が見えない。
「モリカワ……? 何を言っているんだ君は」
葵翔の切迫した問いかけに対し、小太りの職員は眉間の皺を深く刻んだ。
彼は顔をしかめ、まとわりつく葵翔の手を乱暴に振りほどく。
「うちにそんな名前の職員はいない。人違いだ、邪魔だから下がってくれ」
吐き捨てられた言葉に、葵翔は呼吸を止めた。
父がここにいるはずだ。すみれは確かにそう読み取った。だが、目の前の事実は異なっていた。
葵翔は職員の顔を凝視する。
相手の瞳孔は開き、額には脂汗が浮いている。視線は葵翔を通り越していた。嘘をついて何かを隠そうとする人間特有の躊躇いは見当たらない。ただ、一刻を争う状況下で、意味の通じないことを喚く侵入者を疎ましく思っている様子だった。
「はぁ、はぁ……。そこで止まれ」
その時、背後から先ほどの警備員が息を切らせて追いついてきた。
彼は葵翔の肩に手を伸ばしかけたが、職員たちの青ざめた顔色と、異様な空気を感じ取り、ぴたりと動きを止めた。ただの迷子騒ぎではないことを察したのだ。
続いて、廊下の奥まった闇の中から、革靴のソールがコンクリートを強く叩く音が近づいてきた。その足取りはリズムを失い、切迫した響きを帯びている。
やがて照明の下に姿を現したのは、レストランの給仕長だった。
「お待たせしました……!」
彼は走ってきた勢いを殺しきれず、よろめくようにして立ち止まる。額には大粒の脂汗が浮き、頬を伝って顎先から床へと滴り落ちていた。激しい運動のせいか、あるいは精神的な重圧のせいか、その顔面は赤く充血し、肩で大きく息をするたびに上質の黒いベストが窮屈そうに軋む。
「事務長。スペアキーを持ってきました」
彼が震える手で差し出したのは、鈍い銀色の光を放つシリンダーキーだった。
持ち手の部分には、管理用と思われるプラスチックのタグがぶら下がっている。その無機質な金属の重みが、事態の深刻さを物語っているようだった。
「貸してください」
小太りの職員、事務長が、それをひったくるように受け取った。
現場には、張り詰めた糸のような緊張が走る。
誰もが固唾を呑んでその手元を凝視する中、すみれだけがスッと葵翔の腕を離した。彼女は邪魔にならないよう一歩後ろへ下がると、静かにその光景を見つめる。
「開けます」
事務長が鍵穴に鍵を差し込む。
手が震えているせいで微かな金属音が鳴ったが、やがて奥まで刺さり、彼は力任せにそれを回した。
指先に伝わる重い手応えと共に、シリンダーが回る。連動して、扉の内側で打掛が持ち上がり、受け具から外れる硬質な金属音が響いた。




