11:48 落下
その瞬間、葵翔の世界から色彩と温度が剥ぎ取られた。
周囲で交わされる優雅な談笑や、食器が奏でる軽やかな音楽が、まるで水中から聞いているかのように遠ざかっていく。代わりに、鋭利な金属音のような耳鳴りが鼓膜の奥で膨れ上がり、脳内の思考回路を白く塗りつぶしていった。
モリカワ。
殺された。
すみれの唇から零れ落ちたその単語は、平和なランチタイムの空気を切り裂く凶器となって、葵翔の無防備な意識を貫いた。
父の顔が、フラッシュバックのように脳裏をよぎる。
父は盗犯担当の刑事だ。この美術館にいてもおかしくない。
今朝、玄関で見た無骨な背中。不器用な会話。それが最後だったのか。
胃の腑が冷たく縮み上がり、指先から急速に血の気が引いていく感覚に襲われる。握っていたフォークの感触すら消失し、カトラリーが手から滑り落ちそうになるのを無意識に強張らせて堪えた。
喉が引き攣り、酸素がうまく肺に入ってこない。視界の端が暗く明滅し、自分が座っている椅子の感覚さえもあやふやになっていく。
葵翔は乾ききった唇を震わせ、掠れた音を絞り出した。
「......父さん」
反射的に立ち上がった勢いで、葵翔の背後にあった重厚なマホガニーの椅子がバランスを崩した。
背もたれが床を強打し、雷のような衝撃音が優雅なランチタイムのBGMを切り裂く。
それまで店内に満ちていた穏やかな談笑や食器の触れ合う音が一斉に止み、張り詰めた静寂が訪れた。肌を刺すような無数の視線が、四方八方から突き刺さるのを感じる。
だが、今の葵翔には、自分が注目の的になっているという羞恥心さえ湧いてこない。
肋骨の奥で、心臓が不整脈を打つように激しく暴れ始めた。全身の血管が収縮し、指先から急速に熱が奪われていく。血の気が引いた手は氷のように冷たく、微かに震えていた。
視界の端が白く明滅し、遠近感が狂う。肺が凍りついたように強張り、酸素を求めて浅く喘ぐことしかできない。
世界が傾ぐような目眩の中で立ち尽くす葵翔の二の腕に、鋭い痛みが走った。
誰かが、容赦のない強さで掴み、引いている。
「葵翔君、立って」
低く、けれど芯の通った声が、混乱の渦中にある意識を現実へと引き戻した。
顔を上げると、すみれは既に席を立っていた。
その横顔には、決意の色が滲んでいる。
「行きましょう。……確かめなきゃ」
すみれは返事を待たずに腕を引いた。
混乱の中にいる葵翔は、操り人形のように彼女に従うことしかできない。
彼女は迷うことなく、出口ではなく厨房脇にある『関係者以外立入禁止』と書かれた通用口へと葵翔を引っ張っていく。
二人は通用口を抜け、冷たいコンクリートの階段を駆け下りた。
華やかなレストランの香りは遮断され、微かに薬品や油絵具の混じった、地下特有の冷たい匂いが鼻を突く。
革靴のソールが冷たいコンクリートの床を叩く不規則な打撃音。誰もいない地下通路に反響して鼓膜を打つ。
喉の渇きと、肺の奥からせり上がる荒い呼吸音もまた、閉鎖的な空間では異様なほどの質量を持って耳に届いた。
恐怖で思考の輪郭が白く飛び、正常な判断力が削ぎ落とされていく。
混沌とする意識の中で、父という単語が非常ベルのように絶え間なく鳴り響き、凍りついた足を無理やり前方へと駆り立てていた。
「止まれ」
通路の曲がり角を抜けた瞬間、行く手を塞ぐように男が立ちはだかった。
身につけているのは、金の飾り紐があしらわれた濃紺の制服と制帽。警備員だ。
彼は血相を変えて走ってきた二人を見て、体ごと通路を塞ぎにかかった。
「ここは立ち入り禁止だ。戻りなさい」
葵翔は息を呑んで足を止める。だが、すみれは止まらなかった。
彼女は走りながら表情を一変させた。冷静な相貌が、瞬時にパニックに陥った顔へと切り替わる。
「通してください。家族なんです」
すみれは悲痛な声を上げ、警備員の目の前まで詰め寄った。
「連絡があったんです。中で倒れたのは『モリカワ』ですよね」
「は……? モリカワ?」
制帽のつばの下で、警備員の太い眉が大きく寄せられた。
すみれが叫んだ具体的な名前に、完全に虚を突かれた反応だ。
厳格に結ばれていた唇が、何かを言い淀むように半開きになった。
被害者の氏名までは知らされていないのか、あるいは目の前の男女の悲痛な剣幕に混乱したのか。思考の空白が生まれた。
その大柄な体が通路を塞ぐ壁としての機能を失った、ほんの数秒の沈黙。それが、この場における致命的な隙となった。
「急いでるんです」
すみれはその一瞬を見逃さず、警備員の脇を強引にすり抜けた。
葵翔も慌ててその背中を追う。
背後で制止する声を置き去りにして、二人は地下廊下を疾走する。




