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密室殺人にスミレは白くうつろふ  作者: 霧島響矢
第二章 午后に浮遊する

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6/22

11:45 白身魚のポワレ

「んー、美味しい! ここのお魚、皮がパリパリで身がふっくらしてる」

 すみれは、香ばしい焼き目のついた白身魚のポワレをナイフで小さく切り分けると、それを淡い桜色の唇へと運んだ。

 咀嚼するたびに、パリ、と皮が砕ける微かな音が響き、ふわりと焦がしバターとハーブの芳醇な香りが漂う。彼女は至福の表情で目を細めると、柔らかい頬にそっと手を添え、ほう、と感嘆の吐息を漏らした。

 先ほどまでの、絵画の歴史的背景を語っていた知的な横顔はどこにもない。今の彼女は、ただ目の前の美味しいランチに心を弾ませる、無邪気な顔に戻っている。その飾らない愛らしさが、テーブル越しの距離を急速に縮めてくるようだった。

 高い窓から差し込む冬の柔らかな陽光が、彼女の姿を逆光気味に照らし出している。

 強い光を浴びた彼女の肌は、白磁のようにきめ細かく、血管が透けて見えそうなほどの透明感を帯びていた。耳の輪郭や首筋の産毛が光に溶け、輪郭を淡く滲ませている。

 その光の中で、緩く巻かれた栗色の長い髪が、ふわりと肩で揺れた。一本一本が光の粒子を孕んだように輝き、極上の絹糸のような艶やかな光沢を放っている。

 葵翔は自分の皿の上でナイフを動かす手がおろそかになるほど、彼女の姿に見入っていた。フォークを持つ手が止まり、ただその眩しさに目を奪われ続けていた。

「葵翔君? 手が止まってるよ」

 視線に気づいたのか、すみれが不思議そうに小首を傾げた。

 大きな瞳が、長い睫毛の隙間から葵翔を覗き込んでいる。

「......あ、ごめん。......すみれがあまりに美味しそうに食べるから」

 葵翔が慌てて手元のローストビーフに視線を戻すと、すみれはくすりと喉を鳴らして笑った。

「ふふ、見惚れてた?」

「……否定はしないよ」

 素直に認めると、彼女は少し照れたように視線を逸らし、フォークの先で魚の身を小さく突いた。

「もう。……でも、本当に美味しいの。このソース、絶品だよ」

 彼女は新しく切り分けた魚の身に、黄金色のソースをたっぷりと絡めた。そして、それを自分の口へ運ぶのではなく、すっとテーブル越しに葵翔の方へと差し出した。

「ほら、葵翔君も食べてみて?」

 悪戯っぽく細められた瞳が、期待に満ちて輝いている。

 周囲には他の客もいる。葵翔は一瞬、ためらいに視線を巡らせたが、彼女の無邪気な笑顔を拒むことなどできそうになかった。

 彼は観念して身を乗り出し、差し出されたフォークの先を口に含んだ。

 舌の上で、白身魚の上品な旨味と、濃厚なバターのコクがほどけるように広がる。

「……どう?」

 すみれが、答えを待つ子供のように前のめりになって尋ねてくる。

「うん、すごく美味しい。ハーブの香りが効いてるね」

「でしょ? 私の選んだメニューの勝ちね」

 葵翔が頷くと、彼女は満足げに胸を張り、自分のフォークを唇に戻した。葵翔の耳が熱くなる。

 光の中で微笑む彼女は、どんな名画よりも鮮やかに、葵翔の網膜に焼き付いていた。

 そのあまりの眩しさに、葵翔は照れ隠しするように、ふと視線を彼女の背後、光の届かない場所へと逃がした。

 華やかなメインホールとは対照的に、厨房へと続く通路は深い陰に沈んでいる。

 その暗がりの底に、異質な気配を感じて、葵翔の視線が吸い寄せられた。

 そこに、先ほどまでホールの中央で指揮を執っていた給仕長が立っていた。

 本来ならフロア全体に目を配るべき立場の彼が、今はなぜか薄暗い通路の隅に身を潜めていた。

 彼は客席に背を向け、壁に手をついて受話器を耳に押し当てている。壁にすがるような姿勢と、受話器を握りしめる手の力みは、遠目にも異常を感じさせた。額には脂汗が浮き、しきりにハンカチで拭っているが、その手つきは乱暴で落ち着きがない。

 周囲の優雅な談笑や、カトラリーが触れ合う軽やかな音とは裏腹に、彼だけが断崖絶壁に立たされているかのような焦燥感を漂わせていた。

 ただの電話ではない。

 胸騒ぎがした。何らかのっぴきならないトラブルが起きているのは明らかだった。葵翔はフォークを握る手を止め、その異様な光景を凝視した。

「……葵翔君?」

 葵翔の視線の強さに引かれるように、すみれもふと手元を止めた。

 彼女は、葵翔が見つめる先、薄暗い通路に立つ給仕長の姿へと、視線を滑らせる。

 その横顔から、先ほどまでのふんわりとした甘さが、潮が引くように静かに退いていく。彼女は長い睫毛を伏せることもなく、遠く離れた給仕長の口元の動きをじっと見据えた。

 周囲の雑音の中から、必要な情報だけを濾過しているかのような、透明な集中。

 やがて、彼女の唇が微かに動き、吐息のような声が零れ落ちた。

「……地下。修復室」

「え?」

「……スペアキー。……はい、金庫」

 不穏な単語の羅列に、葵翔の背筋が粟立つ。

 給仕長が電話を切ると同時に、彼は脱兎のごとくバックヤードの奥へと走り去っていった。

 あとに残されたのは、テーブルの上の冷めていく料理と、重苦しい沈黙。

 すみれがゆっくりと葵翔の方を向き、血の気のない顔で告げた。

「……『モリカワ』様が、殺された」

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