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密室殺人にスミレは白くうつろふ  作者: 霧島響矢
第二章 午后に浮遊する

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5/21

11:35 テーブル

 「ねえ。まだ少し早いけれど、お昼にしちゃわない?」

 すみれの提案で、葵翔とすみれは美術館に併設されたレストランに来ていた。

 店内は、早めのランチを楽しむ客たちの活気で満たされていた。 案内された窓際の席に腰を下ろすと、周囲からは銀食器が陶器の皿に触れる軽やかな音や、各テーブルから湧き上がる穏やかな談笑が、心地よいさざ波のように聞こえてくる。

 ホールの中央では、先ほど葵翔たちを案内してくれた初老の給仕長が、見事な手際で指示を出していた。彼は予約客のリストを確認し、厨房にオーダーを通し、空いたグラスがあれば目配せだけで部下を走らせる。その動きには一切の無駄がなく、彼がこのフロア全体を完璧に掌握していることが見て取れた。

 厨房からは香ばしいソースや焼き立てのパンの香りが漂い、空腹を刺激した。 席に着いて一息ついたところで、すみれがふいに声を上げた。

「あ、そうだ。葵翔君、ちょっと待っててくれる? お手洗いに寄ってくるわ」

 彼女は申し訳なさそうに眉を下げ、両手を胸の前で小さく合わせた。上目遣いに葵翔の顔色を窺うその仕草は、頼み事をする子供のような愛嬌を滲ませている。

「うん、分かった。ここで待ってるよ」

 葵翔が快諾すると、彼女の表情がぱあっと明るく華やいだ。

「すぐ戻るね」

 すみれは小首を傾げて微笑むと、安心させるように小さく手を振った。

 向けられた手のひらの指は、猛獣の真似をするように曲げられており、指を倒す動作をランダムに繰り返している。垂直に置かれたキーボードを叩くような動きだった。

 時刻は十一時三十五分。

 彼女は翻り、回廊の奥にある化粧室の方へと歩き出した。

 アイボリーのコートの裾がふわりと揺れ、彼女の歩調に合わせて踊るように舞う。

 足音を忍ばせながらも弾むようなその後ろ姿は、見る者の目尻を自然と下げさせるような可憐さを纏いながら、角を曲がって見えなくなった。

 すみれの後ろ姿が角を曲がって見えなくなると、広いホールにぽつりと取り残されたような心細さが、葵翔の胸に忍び寄ってきた。

 葵翔は純白のテーブルクロスに手を置き、手持ち無沙汰に周囲を見回した。改めてこの空間が持つ歴史と贅沢さが、視界いっぱいに飛び込んでくる。かつては華やかな舞踏会が開かれていたというメインホールは、天井まで五メートル近い高さを誇り、圧倒的な開放感を漂わせていた。

 その遥か頭上、漆喰で装飾された天井の中央には、巨大なシャンデリアが幾重にも重なる葡萄の房のように吊り下がっている。今は昼間であるため電球の明かりは灯されていない。しかし、無数に連なるクリスタルガラスのカット面が、高い窓から降り注ぐ冬の陽光を捉えて乱反射し、天井の精緻なレリーフの上に、七色に輝く虹色のプリズムを投影していた。

 視線を下ろせば、壁面は腰の高さまで飴色に磨き上げられたマホガニー材で覆われ、長い年月を経た木材特有の深みのある艶を湛えている。

 葵翔の視線が、ホールの一角、わずかに影が落ちる太い柱へと留まった。そこには、この洋館が刻んできた長い時間を象徴するかのような、古色蒼然とした大きな鳩時計が鎮座している。

 筐体は黒檀を思わせる深く沈んだ色合いで、長い年月を経て磨かれた木肌が、窓から差し込む冬の陽光を鈍く吸い込んでいた。木箱の前面には、複雑に絡み合う蔦や実をつけた葉の彫刻が施されており、その細工の精緻さは、かつての名工の手によるものだと想像させる。彫りの深い陰影が、時計全体に触れがたい重厚な威厳を与えていた。

 色褪せた文字盤の下では、鈍い光沢を放つ真鍮製の振り子が、重力に従ってゆったりと左右に弧を描き続けている。周囲の客たちが交わす賑やかな談笑や、銀食器が陶器に触れる軽やかな音の隙間から、規則正しい乾いた駆動音が微かに鼓膜を揺らす。その厳格なリズムは、華やかなランチタイムの喧騒とは隔絶された場所で、この空間に流れる不可逆の時間を淡々と刻み続けていた。

 高い窓枠には、重厚なワインレッドのベルベット生地を使ったドレープカーテンが束ねられており、その深い襞が優雅な陰影を落としていた。その窓枠が切り取るガラスの向こう側には、手入れの行き届いた中庭の枯れ木が寒空の下で静かに佇んでおり、まるで額縁の中に収められた一枚の風景画のように、室内の暖かな空気とは対照的な冬の情景を描き出していた。 ふと、厨房の脇にある『関係者以外立入禁止』のプレートが掲げられた通路の奥に、人の気配を感じて視線をやった。

 華やかなホールとは対照的に薄暗いその通路を、一人のスタッフが歩いていくのが見えた。

 こちらに背を向け、ゆっくり歩いていく後ろ姿だ。

 その片手には、自販機の安っぽい紙コップが力なく握られている。湯気は立っておらず、中身は既に冷めきっているのかもしれない。

 身につけているのは、厚手のグレーのコートだ。

 スタッフは時折周囲を気にするように振り返りながら、小走りで闇の中へと消えていった。

 休憩中に随分と慌ただしいな、と葵翔はぼんやりと同情を覚えた。

 その背中はそのまま音もなく通路の角を曲がり、闇の中へと消えていった。

「お待たせ、葵翔君」

 五分ほどして、背後から銀の鈴を転がしたような澄んだ声が鼓膜を震わせた。

 葵翔が振り返ると、そこには、先ほどまでの重苦しい静寂を払拭するように、すみれが立っていた。彼女は縁に繊細なレースのあしらわれた純白のハンカチで、丁寧に指先の水滴を拭っているところだった。

「早かったね」

「ふふ、サプリメントという単語を辞書で引くの」

 すみれはハンカチをバッグにしまうと、悪戯を見つけた子供のように目を細め、内緒話でもするように声を潜めた。

 葵翔ははてなマークを頭上に浮かべる。意味がわからなかったが、彼女が戻ってきたことで世界に色彩が戻ったようだった。

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