11:30 バトン
「ははは、つい熱くなってしまいました。年寄りの説教臭い話になってしまいましたね。ゆっくりしていってください」
館長は苦笑しながら、柔らかく目尻を下げた。その笑顔は、この美術館の穏やかな空気を象徴するかのように、優しく二人を包み込んだ。
彼は踵を返して立ち去ろうとしたが、ふと思いついたように足を止め、悪戯っぽい瞳で二人を振り返った。
「静寂な回廊で、問いかける影の群れ。
透明な障壁が分断する存在の虚空、
言葉なき視線が交錯するも、永遠の孤立を宿す。
実存の深淵を映す、夜の光景は何ぞや?」
突然、御影は朗々とした声で、まるで詩を吟じるように問いかけた。
「エドワード・ホッパーの『ナイトホークス』」
葵翔が困惑するまもなく、隣ですみれが涼やかな声を上げた。
一瞬の躊躇いもない即答だった。
御影は感服したように目を丸くし、やがて嬉しそうに柏手を打った。
「素晴らしい。正解です」
「ふふ、有名な作品ですから。……でも、どうして急にその絵を?」
すみれが小首を傾げると、御影は葵翔とすみれを交互に見つめ、意味深な笑みを浮かべた。
「いやなに、ふと思いつきましてね。先ほどのお詫びですよ」
彼は満足げに頷くと、今度こそ丁寧に一礼し、ジャケットの裾を翻して回廊へと歩き去っていった。
その背中は年齢を感じさせないほどしゃんと伸びており、この美術館そのものを背負っているような誇りに満ちていた。
葵翔は、遠ざかる館長の背中を見送るすみれの横顔をふと見た。
彼女の唇には、正解した時の愛らしい笑みがまだ残っていた。




