11:25 ウルトラマリン
それは、豪奢な金色の額縁に収められた、横幅二メートルはあろうかという大作だった。
タイトルは『静寂の刻』。
キャンバスを圧巻の迫力で支配しているのは、日没直後の劇的な空の色だ。地平線の彼方で燃え残ったような鮮烈な茜色が、頭上から降りてくる夜の帳、底知れぬ深さを湛えた青色と溶け合い、息を呑むようなグラデーションを描いている。
その色彩は、鏡のように凪いだ湖面にそのまま映し出されていた。水面は油彩特有の艶やかな光沢を帯びており、見つめていると吸い込まれそうなほどの粘り気を感じさせる。
湖岸を取り囲む木々は、逆光の中で黒いシルエットとして描かれているが、単なる黒ではない。幾重にも塗り重ねられた絵具の厚みが、鬱蒼とした枝葉の不穏な揺らぎや、その根元にある湿った土の匂いまで感じさせるほど、緻密な筆致で表現されていた。
美しくも、どこか見る者の根源的な不安を掻き立てるような、魔的な引力を持った一枚だ。絵画の前だけ、周囲の気温が数度下がったような冷ややかな錯覚すら覚える。
「……すごい。なんて深い青色」
隣で、すみれが感嘆の息を漏らした。
彼女は目に見えない糸で引かれるように、その絵画へと歩み寄る。靴音が止まり、彼女はショーケースのガラスすれすれまで顔を近づけた。
頭上のピンスポットライトが、彼女の栗色の髪に天使の輪のようなハイライトを落としている。だが、彼女の意識は完全に目の前の色彩に没入していた。
その茶色の瞳が大きく見開かれ、絵画の中にある夜の青さを映し取って揺れている。彼女の唇が微かに震え、紡がれた言葉は、静寂な展示室の空気に溶け込んだ。
「ウルトラマリン……海を越えてきた青、ね。これ、本物のラピスラズリかしら……」
すみれがガラスに額が触れるほどの距離で、独り言のように呟いた。その熱を帯びた吐息が、冷たいショーケースの表面を白く曇らせる。彼女の視線は、絵画の中で永遠に凝固した夕闇の青色を、成分レベルで分解しようとするかのように鋭く注がれていた。
「おや、お嬢さん。お目が高い」
背後から、よく通る、それでいてビロードのように滑らかなバリトンボイスが掛かった。
二人が驚いて振り返ると、そこには一人の初老の男性が、いつの間にか音もなく佇んでいた。
銀糸のような白髪をオールバックに撫で付け、鼻梁には知的な銀縁眼鏡が光っている。身に纏っているのは、英国製と思しきヘリンボーンのツイードジャケットだ。その仕立ての良さは、袖口からわずかに覗くシャツの白さや、襟元を飾る洒脱なアスコットタイの結び目からも見て取れる。
顔中に刻まれた深い皺は、年輪のような威厳を感じさせる一方で、彼が微笑むたびに目尻に優しく集まり、実年齢よりもずっと人懐っこい好々爺の印象を与えていた。
「館長の御影です。若い方がこうして熱心に見てくださると、私も嬉しくてね」
「あ、すみません。つい夢中になってしまって……」
すみれは弾かれたように我に返ると、上体を起こして慌てて一礼した。
あまりに顔を近づけすぎていた自覚があったのだろう。彼女の白磁のような頬が、恥ずかしさでほんのりと桜色に染まっている。普段の冷静で大人びた彼女とは違う、年相応の少女のような反応に、葵翔は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「あまりに綺麗だったもので、失礼しました」
「いやいや、構いませんよ。むしろ、そこまで深く見入っていただけて、この絵も喜んでいるでしょう」
御影は嬉しそうに目尻の皺を深めると、慈しむような眼差しを背後の絵画に向けた。その視線は、まるで孫の成長を見守る祖父のように温かく、同時にどこか狂信的なほどの愛情を孕んでいる。
「お嬢さんの言う通り、この『静寂の刻』の青は、最高級のラピスラズリを砕いて作られたものです。当時、この顔料は金と同じ価値がありました。画家は全財産をはたいて、この一瞬の夕闇をキャンバスに留めようとしたのです」
「全財産を……。それほどの覚悟で描かれた青なんですね」
すみれが真剣な表情で絵を見つめ直す。その横顔は、画家の情熱と、それに支払われた代償の重さを推し量っているようだった。
御影はゆっくりと深く頷き、重々しい口調で言葉を継いだ。
「ええ。画家は貧困の中で死にましたが、その情熱はこの青の中に永遠に残りました。……私はね、時々聞こえる気がするんですよ。彼らの声が」
「声、ですか?」
「ええ。何百年という時を超えて、『私を見てくれ』『この美しさを忘れないでくれ』と訴えかけてくる、魂の叫びのようなものがね」
そこまで一気に語ってから、ふと我に返ったように、御影は自身の口元を手で覆った。
一瞬の沈黙が落ちる。
「……おっと、いけませんね」
彼はバツが悪そうに首をすくめると、少し顔を赤くして二人を見た。
「『声が聞こえる』なんて、これじゃあまるで幽霊か幻聴の話だ。……どうか引かないでくださいよ。まだそこまで耄碌はしておりませんので」
茶目っ気たっぷりに片目をつぶって見せると、彼は照れ隠しに小さく咳払いをした。
すみれは堪えきれずに吹き出し、つられて葵翔の唇も自然と綻んだ。
その屈託のない笑顔と、老人の照れたような顔。
葵翔はふと、目の前の館長の姿に、ある人物の面影を重ねていた。
父、厳だ。
対象こそ「美術」と「事件」でまるで違う。けれど、一つのことにのめり込む狂気にも似た情熱や、熱くなりすぎた後に見せる不器用な照れ隠しは、驚くほどよく似ていた。立場は違えど、何かを頑なに守ろうとする人間の瞳は、どこか似通った光を宿すのかもしれない。
「美術品はね、ただのモノではありません。画家の魂、時代の空気、そしてそれを守り続けてきた歴代の所有者たちの想いが結晶化したものです。戦火を逃れ、災害を越え、幾多の人の手を渡って、奇跡的に今ここにある」
館長は穏やかだが、腹の底に響くような力強い声で言った。
彼はガラスケースの縁にそっと手を添えた。その指先は震えるほど繊細で、美術品への敬意に満ちている。革手袋越しであっても、彼がそのガラスの向こうにあるキャンバスの鼓動を感じ取っているかのように見えた。
「私はこの美術館で、そうした奇跡のバトンを預かり、次の世代へ繋いでいきたいんですよ。それが、私に残された最後の使命だと思っています」
熱を帯びた言葉に、すみれが感銘を受けたように小さく息を呑む。
「……想いの、バトン。素敵な考えですね」




