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密室殺人にスミレは白くうつろふ  作者: 霧島響矢
エピローグ

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エピローグ

 給仕が恭しく運んできたデザートの皿が、純白のテーブルクロスの上に音もなく置かれた。

 赤い果実のタルト。

 薄くスライスされた苺とフランボワーズが幾重にも重ねられ、艶やかなナパージュが冬の陽光を弾いてきらきらと輝いている。

 すみれはフォークを手に取り、一口サイズに切り分けたそれを、淡い桜色の唇へと運んだ。甘酸っぱい果汁と濃厚なカスタードの風味が口いっぱいに広がり、先ほどまで地下室で吸い込んでいた埃っぽさと鉄錆の臭いを、優雅な香気で上書きしていく。

 対面の席に座る葵翔は、自身の前に置かれたコーヒーカップの縁を、指先で所在なげになぞっていた。

 彼は食欲がないと言って、飲み物だけを注文していた。カップの中の黒い液体は、湯気も立っておらず、すっかり冷めきっているように見える。彼はそれを口に運ぼうともせず、逃げるように高い窓の外へと視線を逸らしていた。

 厚いガラスの向こう側、手入れされた前庭のロータリーでは、騒然とした光景が広がっている。パトカーの赤色灯が回転し、冬の枯れ木を不穏な赤色で染め上げている。制服警官たちが規制線を張り、無線機片手に動き回る姿が、サイレント映画のように音を遮断された状態で目に入る。

 葵翔の視線は、その喧騒の奥、パトカーの影あたりに釘付けになっていた。その横顔には深い陰が落ち、喉仏が緊張で強張っている。

 おそらく、あの光の向こう側に、彼の父親である森川厳の姿を幻視しているのだろう。正義を信じる厳格な父と、恋人と共に現場を立ち去った自分。その乖離に心を痛めているのかもしれない。

 すみれは、そんな彼の苦悩すらも、今日のデートを彩るスパイスのように感じながら、最後の一欠片を口に運んだ。

「ごちそうさま。美味しかったわ」

 彼女がナプキンで口元を拭い、微笑みかけると、葵翔はハッとして視線を戻した。彼は複雑な感情を喉の奥へ押し込むようにして、短く頷き返す。

「……行こうか。そろそろ規制が厳しくなる」

 葵翔が伝票を掴み、立ち上がった。

 会計を済ませ、二人はレストランを後にした。

 正面玄関は警察車両と野次馬でごった返しているため、庭園側の通用口へと回る。重厚な木扉を押し開けると、冬の乾いた北風が容赦なく吹き付け、二人のコートの裾をバタバタと揺らした。

 枯れ木が並ぶ遊歩道を歩く葵翔の足取りは、どこか重い。

 彼は右手をズボンのポケットに深く突っ込んだまま、頑なにそこから出そうとしなかった。握りしめられた拳が、生地を内側から引っ張っているのが見て取れる。

 すみれは自身のアイボリー色のコートの左ポケットに手を滑り込ませた。

 底に眠る、微細な遺留品の感触を指先で確かめる。

 それは、十センチほどの黒い糸くずだった。硬く、撚りの強い特殊な繊維。

 地下室の騒動の最中、鉄扉の外側――蝶番の隙間に挟まっているのを偶然見つけ、誰にも気づかれずに回収したものだ。

 指先で転がすその糸は、少し短く見えた。この長さであの分厚い鉄扉の複雑な段差を越え、真鍮製の打掛を吊り上げて受け金具へと落とし込む操作を行うことができるだろうか。指に巻き付けて引くための持ち手部分を含めれば、回収したこの切れ端だけではあまりに頼りない。

 しかし、彼女はそれ以上深く考えなかった。

 予期せぬ死体との対面、そして緊迫した現場。少し感覚が狂ってしまっているのだろう。回収できたのはこれで全てのはずだ。

 もっとも、彼女が描いていたシナリオにおいても、殺人は計算外の出来事だった。一時間前、化粧室へ向かうふりをして公衆電話から通報した時点での目的は、あくまで「贋作ビジネスの告発」だった。

 すみれは贋作を奪い警察の目に晒すつもりだったが、結果として、警察は彼女の想定よりも早く、そして大規模に介入することとなった。代償として一人の命と、一人の修復士の未来が失われたが、贋作の工房は封鎖され、館長の野望もまた永遠に閉ざされた。

 すみれはポケットの中の糸から指を離した。この不吉な遺留品が捜査線上に浮かぶ前に回収できたことは、僥倖だったと言える。

 ふと、隣を歩いていた葵翔の気配が遠のいた。

 すみれは歩調を変えずに、耳だけで彼の動きを探る。

 彼の足音が、数歩後ろで止まっていた。

 庭園の隅、人の目が届かない植え込みの陰あたりだ。

 すみれは振り返らなかった。彼には、彼だけの時間と、処理すべき感情があるのだろう。

 冷たい風が吹き抜け、枯れ葉がカサカサと音を立ててアスファルトの上を転がっていく。

 やがて、背後から再び革靴の音が近づいてきた。そのリズムは、先ほどまでの重苦しいものとは違い、どこか憑き物が落ちたように軽やかだった。

「葵翔君」

 彼が追いついてきたタイミングを見計らって、すみれはくるりと振り返った。

 冬の低い日差しを背に受け、その輪郭が光に溶けて滲んで見える。

 葵翔の右手は、いつの間にかズボンのポケットから出ており、今は自然にコートの脇に垂らされていた。その掌は空っぽで、強張っていた肩の力も抜けている。

 彼の横顔に浮かんでいたのは、安堵と、そして決して消えることのない微かな苦味が混じり合った、静かな色だった。

「今日の美術館、とっても素敵だったわね」

 すみれは、まるで普通のデートの感想を述べるように、屈託なく言った。

 葵翔が一瞬、虚を突かれたように立ち止まる。

 だが、すぐにその表情を柔らかなものへと変え、彼女の元へと歩み寄ってきた。

「……そうだね。忘れられない一日になったよ」

 差し出された彼の手を、すみれはそっと取る。

 その手は冷たく、けれど確かな存在感を持って、すみれの指に絡んできた。

 互いに秘め事を抱えたまま、それでも指を絡め合う歪な関係。この糸がどこまで続いているのか、それを手繰り寄せる楽しみは、まだこれからだ。

 遠くから響くパトカーのサイレンが、冬の陽光に晒された街の喧騒へ溶け込み、白く霞むようにして遠ざかっていく。

「ねえ、葵翔君。どうして信号機は赤で止まるか知ってる?」

「え? ……危険だから、とか?」

 唐突な問いかけに、葵翔が困惑したように瞬きをする。

 すみれは真顔で小首を傾げ、さも重大な秘密を打ち明けるように声を潜めた。

「ううん、違うわ。……ルンバに掃除されないためよ」

「は?」

 葵翔は口を半開きにしたまま、遥か頭上に設置された信号機と、床を這う円盤型の掃除機との物理的な接点を想像しようとして、思考をフリーズさせた。

「……それ、青になったらどうなるの?」

「さあ……。遊園地に遊びに行ってしまうんじゃないかしら」

「……」

 論理の通じない世界に放り出され、返答に窮して立ち尽くす彼を見て、すみれは悪戯っぽく目を細め、くすりと笑った。

「ふふ、意味なしジョークよ」


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