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密室殺人にスミレは白くうつろふ  作者: 霧島響矢
第五章 覆い零れる

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21/22

12:00 背中

 給仕たちが不安げに囁き合う中、レストランの重厚なマホガニーの扉が、外側から押し開けられた。

 地下室から戻り、何食わぬ顔で窓際のテーブル席に着いていた二人の視界に、土足で踏み入ってきた数名の捜査員たちが飛び込んでくる。優雅なランチタイムの空気は、彼らが纏う鉄の臭いによって瞬時に霧散した。

 その先頭に立つ人物の姿を認めた瞬間、葵翔の心臓が肋骨を内側から強く叩いた。

 使い込まれた灰色のトレンチコート。長身を包む威圧感は、周囲の空気をピリつかせるほど鋭い。

 警視庁捜査三課、森川厳警部。

 葵翔の父であり、そして今、最も遭遇したくない相手だった。

 だが、戦慄と同時に、冷たい違和感が葵翔の思考を掠める。

 地下室にあるのは死体だ。殺人事件ならば、管轄は捜査一課のはず。盗犯担当である父が、なぜ真っ先にこの現場に現れたのか。

 厳は鋭い眼光をフロア全体に走らせる。その視線は獲物を探す猛禽類のように鋭く、客たちの顔を次々と検分していく。

 そして、葵翔たちが座る窓際の席に辿り着いたところで、その視線が止まった。

「……葵翔」

 厳は眉間に深い皺を刻み、大股で歩み寄ってきた。

 その表情に驚きはない。彼は今日、息子がこの美術館へデートに来ていることを知っている。

 だが、彼の顔には父親としての困惑が浮かんでいた。凶悪事件の現場となった場所に、息子が居合わせているという不運。そして、これからの捜査の邪魔になりかねないという懸念。

「食事中すまないが、直ちに退店しなさい。館内で殺人事件が発生した。ここはじきに閉鎖される」

 厳は葵翔の目前で足を止め、事務的に告げた。

 息子とその恋人を、一般客として速やかに避難させようという配慮だ。

 だが、葵翔は反射的に椅子を蹴るようにして立ち上がり、父の視線を遮るように前に出た。

 ここで大人しく従えば、後で署での事情聴取が待っているかもしれない。現場で全てを終わらせ、すみれへの干渉を断つ必要があった。

「父さん、待ってくれ」

「なんだ。急げ」

「……僕たちも、現場にいたんだ」

 厳の目が大きく見開かれた。

「なんだと?」

「給仕長が慌てているのを見て、何かあったのかと思ってついて行ったんだ。……そこで、事務長たちが遺体を発見する瞬間に立ち会った」

「馬鹿者が。素人が現場に踏み込むな」

 厳が低く唸る。だが、葵翔は父の叱責に怯むことなく、情報を畳み掛けた。

 現場の状況を詳細に伝えることで、父の関心を「葵翔たち自身」から「事件そのもの」へと逸らさなければならない。

「犯人は修復士の神崎さんだよ。もう地下で確保されてる」

「確保? どういうことだ」

「彼女が自白したんだ。カッとなってやったって。……密室になっていたけど、どうやら持っていたアイスコーヒーの氷を使って、鍵が閉まる時間を遅らせたらしい」

 葵翔は努めて冷静に、あくまで「現場で聞こえてきた話」として概要を伝えた。

 自分がその虚構のトリックを構築し、彼女を追い詰めたとは言わない。ただ、その場にいて成り行きを見届けただけだと装う。

 厳は眉間の皺をさらに深くし、呆れたように鼻を鳴らした。

「……氷、か。カーも苦笑いしそうな古典的な手口だな」

 彼は低く呟くと、つまらなそうに視線を外した。そこには、ミステリー小説のようなトリックが現実の殺人現場で使われたことへの、現場叩き上げの刑事らしい皮肉と徒労感が滲んでいた。

 その固有名詞が出た瞬間、葵翔の背筋を冷たい汗が伝い落ちた。

 心臓が嫌な音を立てて肋骨を叩く。

 無理もない。その古典ミステリー『三つの棺』を葵翔に貸し与え、氷のトリックという知識を授けたのは、他ならぬ目の前の父・厳だったからだ。

 まさか、この「作り話」の出典元が、自分の書棚にあると気づかれたのではないか。

 葵翔は表情筋が引きつりそうになるのを必死に堪え、ポケットの中で湿った拳を強く握りしめた。動揺を悟られまいと、あえて父の目から視線を外さず、無知を装って立ち尽くす。

 だが、厳はそれ以上追求することなく、つまらなそうに視線を外した。

 そこには、ミステリー小説のようなトリックが現実の殺人現場で使われたことへの、現場叩き上げの刑事らしい皮肉と徒労感が滲んでいるだけだった。

「……そうか。解決済みか」

 厳は葵翔の説明を聞き終えると、安堵の溜息をついた。

 事件が解決しているなら、息子がこれ以上危険に晒されることはない。だが、刑事としての習性が、葵翔の背後にいる人物を見過ごすことを許さなかった。

「彼女も、怖かっただろう。せっかくのデートが台無しだな」

 厳が葵翔の肩越しに視線を送り、一歩踏み出そうとした。

 葵翔の背筋に冷たいものが走る。

 対面させてはならない。厳は「窃盗犯」を追うプロだ。すみれの纏う独特の空気、その瞳の奥にある冷徹な観察者の光を感じ取ってしまうかもしれない。

 その時だ。

 テーブル席に座ったままのすみれが、優雅な動作で純白のナプキンを手に取った。

 彼女はそれをふわりと口元に当て、咳き込むような仕草を見せる。大きなナプキンが顔の下半分を覆い隠し、特徴的な唇や輪郭が見えなくなる。

 彼女はナプキン越しに、怯えたような上目遣いで厳を見つめ、小さく会釈をした。

 肩を小刻みに震わせ、葵翔の背中に隠れるように身を縮める。

 その姿は、殺人事件に遭遇してショックを受けている、どこにでもいる華奢な一般女性に見えた。

 厳が探し求めている、不敵な美少年窃盗犯の面影など、どこにも感じられない。

 厳は足を止め、バツが悪そうに視線を逸らした。

 堅物な彼は、怯える女性の領域に踏み込むことを無粋だと感じたようだ。

「……すまない。怖がらせてしまったな。詳しい話は後で署の者にさせよう」

 彼は短く詫びると、部下を引き連れて地下への階段を下りていった。

 遠ざかる父の背中を見送り、葵翔は大きく息を吐き出して椅子に座り込んだ。

 全身の力が抜け、指先が微かに震えている。

「お父様、迫力があるのね」

 すみれは、口元を覆っていた純白のナプキンをテーブルに戻しながら、悪戯っぽく微笑んだ。

 その言葉の響きに含まれているのは、恐怖ではなく、敬意のようなものだった。長い睫毛の奥で、茶色の瞳がスリルに潤んで輝いている。

 その時、二人の頭上で、歯車が噛み合う乾いた駆動音が響いた。

 壁の柱に掛けられた古びた鳩時計が、正午の訪れを告げようとしている。

 黒檀のように深く沈んだ色合いの木箱。その上部にある小さな扉が開き、塗装の剥げかけた木製の鳥が、バネ仕掛けの勢いで姿を現した。

 店内に漂う、捜査員たちが残していった鉄の臭いや緊張感など素知らぬ顔で、鳥は機械的な動作で頭を下げ、牧歌的な鳴き声を奏で始める。

 一回、二回、そして十二回。

 間の抜けたその報時音は、張り詰めていたレストランの空気を弛緩させ、ここが平和な昼下がりの食卓であることを高らかに宣言していた。

 最後の音が余韻となって天井のレリーフに吸い込まれていく。

 共犯者たちの長い午前が終わった。

 葵翔はポケットの奥底にある「黒い糸」の感触を確かめる。

 事件は解決した。犯人は捕まり、密室の謎も解かれたことになった。

 だが、真実はこのポケットの中と、彼女の胸の内にだけ封印されている。

 葵翔は目の前の愛らしくも恐ろしい共犯者を見つめ、覚悟を決めたように微笑み返した。

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