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密室殺人にスミレは白くうつろふ  作者: 霧島響矢
第五章 覆い零れる

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20/21

11:59:00 融解

 嘘が、真実になった。

 これでいい。この部屋にあった黒い糸は永遠に闇に葬られ、この事件は氷を使った悲しい事故として処理される。

 すみれが興味を失ったように、ふい、と視線を扉から外す気配がした。彼女にとって、凡庸な氷のトリックで解決した事件は、もはや知的好奇心の対象ではないようだ。

 守り切った。

 だが、その代償として、葵翔の心には消えない染みが広がっていた。

「……行こう、すみれ」

 葵翔は逃げるように振り返り、すみれの背中に手を添えた。

 その手は酷く冷たく、感覚を失っていた。

「え? でも、まだ警察が」

「ここにいたら僕たちまで重要参考人として拘束される。ただでさえ勝手に入り込んだんだ、こっぴどく絞られるよ」

 葵翔は早口で捲し立てた。

 葵翔の右ポケットには、先ほど回収した「黒い糸」が入っている。

 彼は、この糸を隠滅しなければならなかった。神崎に濡れ衣を着せてでも、この証拠をこの場から消し去らなければならなかった。

 それは単なる保身といった、自己愛ではない。

 もっと致命的で、逃れようのない事実を知ってしまっていたからだ。

 葵翔の脳裏に、昨夜の光景が雷光のように蘇る。

 窓に打ち付ける激しい雨音。古びた紙の匂いが充満する父の書斎。

 大学のレポート資料を返すために忍び込んだその部屋で、彼は見てしまったのだ。

 机の上に無造作に広げられた、父、厳の捜査ノートを。

 几帳面な父にしては珍しく開かれたまま放置されていたそのページには、ある人物の顔が、写真と見紛うほど精緻な鉛筆画でスケッチされていた。

 描かれていたのは、一人の少年だ。

 目深に被ったキャスケットの影から覗く、すべてを見通すような涼やかな目元。そして、わずかに口角の上がった、不敵で美しい唇のライン。

 葵翔の心臓が、ドクリと不自然な音を立てた。

 間違いない。描かれているのは、すみれの姿だった。

 スケッチの傍らには、父の角張った文字で、犯人の特徴が走り書きされていた。

 『侵入経路:不明。物理的な破壊痕跡は皆無』

 『監視カメラの死角およびセンサーの反応速度を完全に掌握している』

 『痕跡として、特殊加工された黒い糸(芯材は黄色のアラミド)を残す』

 『性別:男(推定)』

 すみれは、なぜか男装している。

 父は、この姿の彼女を目撃し、性別を誤認したまま追い続けているのだ。

 プロの捜査官である父を欺く変装技術と演技力。そして何より、父の捜査ノートに「追うべきホシ」として、恋人の顔が記されているという現実。

 『――葵翔。どうかしたか』

 背後から投げかけられた父の低く静かな声に、全身の血液が凍りついた感覚は、今も指先に残っている。

 あの時、父は苦い顔で言った。

 『私が取り逃がした相手だ。……不徳の致すところだよ』

 その言葉に込められた執念と、自らのミスを許さない峻烈な正義感。

 父はまだ気づいていない。自分が追っている「少年」が、息子の恋人であることに。

 そして、すみれもまた知らない。葵翔の父親こそが、自分を追い詰める刑事であることを。

 だからこそ、葵翔はこの地下室にあった「黒い糸」を消さなければならなかった。

 あの糸は、単なる密室トリックの道具ではない。

 父、厳にとって、それは犯人を特定するための決定的なサインなのだ。

 もし現場検証でこの糸が見つかれば、父は即座に気づくだろう。ここに「ホシ」がいたことを。そして捜査の網は、今日この美術館にいたすべての来館者に向けられ、やがてすみれへと到達する。

「荷物も席に置いたままだ。……一般客のふりをして、上で待とう」

 葵翔は半ば強引に彼女を促し、血と油の匂いが充満する地下室を後にした。

 階段を駆け上がりながら、ポケットの中の糸を強く握りしめる。

 この糸を処分した瞬間、自分は完全に一線を越えることになる。

 正義を信じる父を裏切り、犯罪者である恋人の共犯者となる道へ。

 隣を駆け上がるすみれが、ふと足を止めることなく葵翔の顔を覗き込んだ。

 階段室の頼りない蛍光灯が、彼女の長い睫毛に淡い影を落としている。その奥にある茶色の瞳は、地下室の陰惨な空気や血の臭いなど一切知らなかったかのように澄み渡り、宝石のような透明な輝きを湛えていた。ただ大好きな相手と二人きりの秘密を共有できたことへの喜びだけが、無垢な光となって宿っている。

 先ほどまで遺体の手を冷徹に観察し、密室の構造を見抜いていた鋭利な知性は、今は跡形もなく消え去っていた。小首を傾げて微笑むその表情は、年相応の、あるいはそれ以上に幼さを感じさせた。彼女は、繋がれた葵翔の右手を、愛おしむようにぎゅっと握り返してくる。柔らかく、華奢な指先が、葵翔の無骨な掌に強く絡まる。

 彼女の掌から伝わる体温は、地下の冷気で凍えきった葵翔の皮膚を溶かすように温かく、そして甘美だった。その熱が血管を伝って心臓へと達し、彼を逃れられない深い泥沼の底へと引きずり込んでいく。罪の意識を麻痺させるようなその心地よい温もりに、葵翔は抗う術を持たなかった。

 彼女が何者であろうと、父が追う犯罪者であろうと、もう関係ない。自分が証拠を隠滅し、彼女の手を取ることを選んだ事実は変わらない。もう、引き返すための橋は落ちてしまったのだ。

 葵翔は奥歯を強く噛み締め、顎の筋肉を強張らせた。脳裏に焼き付いている父である厳の背中、その正義の象徴を無理やり振り払うように、彼はコンクリートの段差を蹴る。前方に見える地上への出口、そこから差し込む冬の白々しい光を目指して、彼は罪の重さをポケットに入れたまま、足を速めた。

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