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密室殺人にスミレは白くうつろふ  作者: 霧島響矢
第五章 覆い零れる

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19/22

11:57:00 青い嘘

 悪魔の証明。

 神崎は膝から崩れ落ちるようにして、赤い水溜りを見つめた。

 彼女の目には、ただの不快な汚れが、自身の完全犯罪を成立させてしまった決定的な要因に見えていることだろう。

「そんな……。ただ、私は……」

 否定の言葉は、喉の奥で嗚咽に変わった。

 葵翔は拳を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みで罪悪感を相殺しようとした。

 これで、密室の謎は解かれたことになる。

 犯人は神崎。トリックは氷。

 葵翔が隠滅した「黒い糸」の存在は、この偽りの真実によって完全に上書きされ、永遠に闇へと葬られる。

「……相転移を利用した、時間のトリック。美しいわ」

 すみれが、感嘆の吐息を漏らした。

 彼女はうっとりとした瞳で、濡れ衣を着せられた神崎ではなく、扉の真鍮製の鍵を見つめていた。その横顔には、謎が解けたことへの純粋な喜びだけが浮かんでいる。

 しかし、葵翔には、その美しい瞳の奥底を読み取ることができなかった。ただ、彼女の無邪気な一言が、犯罪者となった自分の背中を冷たく撫でたような気がした。

「私には……動機がありません。館長を殺す理由なんて」

 神崎は最後の砦にすがるように、床に突っ伏したまま叫んだ。涙で濡れた顔を上げ、すがるような視線を周囲に彷徨わせる。

 だが、葵翔は冷たい鉄仮面を被ったまま、ゆっくりと首を横に振った。

 その表情とは裏腹に、葵翔の背中を冷たい汗が伝い落ちていた。握りしめたポケットの中の拳は、じっとりと湿っている。

 彼はまだ、彼女を追い詰めるための最後のピースを持っていなかった。

 だが、ここで言葉を濁せば、築き上げた論理の塔は崩壊する。彼女を犯人として確定させるためには、動機の不在さえも論理の一部として取り込み、その上で彼女が逃れられない理由を、今この場で手繰り寄せなければならない。

「殺人に、他人が納得できるような立派な動機が必要だとでも?」

 葵翔の乾いた声が、地下室の淀んだ空気を切り裂く。

 彼はしゃがみ込み、神崎の目線に合わせて、諭すように、しかし残酷な言葉を紡いだ。

「積年の恨みや、巨額の金銭トラブル。……小説の中なら、そんな劇的な理由が必要でしょう。ですが、現実はもっと滑稽で、悲惨だ」

 葵翔は言葉を続けながら、油断なく視線を巡らせた。

 何かないか。彼女と館長を結びつけ、殺意、あるいは殺害に至る必然性を説明できる事実は。

 彼の視線が、部屋の中を鋭く走査する。壁際のスチールラックに詰め込まれた画材。床に散らばるガラス片。

「ほんの些細な衝動。偶然の不運。あるいは、ちょっとした言葉の行き違い。それだけで、人は一線を越えてしまう。殺意などなくても、結果として相手が死ねば、それは殺人なんです」

 神崎の喉が引きつり、小さく空気を吸い込む音が漏れる。

 葵翔は言葉を畳み掛ける。それは彼女への追求であると同時に、思考を巡らせるための時間稼ぎでもあった。

「動機を探し出し、そこに事情を見出して同情するのは、残された生きた人間たちの、勝手な贖罪に過ぎません。……理由があれば、罪が軽くなるとでも思いたいのでしょう」

 葵翔の視線が、ある一点で止まった。

 床一面にぶちまけられた、目が覚めるほど鮮烈な青い粉末。ウルトラマリン。

 そして、作業台の上に置かれた一枚のキャンバス。そこに描かれている聖母のマントは、床の粉末と同じ、深淵な青色で彩られていた。

 葵翔の脳裏で、先ほどの展示室での館長の言葉と、目の前の光景が火花を散らして結合する。

 美術館の地下にある密室。高価な本物の顔料。そして、卓越した技術を持つ修復士。

 葵翔は無表情のまま、彼女の目を覗き込んだ。

「ですが、死んだ人間にとっては、殺された理由が怨恨だろうが、ただの事故だろうが関係ない。結果は変わらないんです」

 神崎の瞳が揺れる。論理の刃が、彼女の心を削ぎ落としていく。

「動機なんてものは、後からいくらでも作れる。……重要なのは、貴方がそこにいて、彼が死んだという事実だけだ」

 葵翔はゆっくりと立ち上がり、作業台の上に転がる一枚の絵画と、床の青い粉末を見やった。

 蛍光灯の下で、砕け散ったガラス瓶の破片が鋭く光っている。それは、まるで星空を粉砕して足元にばら撒いたかのような、残酷な美しさを放っていた。

「そして、後付けの理由なら、ここにあるじゃないですか」

 葵翔は、無慈悲にその光景を指し示した。

「その絵。……修復していたんじゃない。貴方はここで描いていたんでしょう。失われた名画の、贋作を」

 その言葉が突き刺さると、神崎の喉が引きつり、ヒュッという空気を吸い込む音が漏れた。

 彼女の視線が、作業台の上のキャンバスへと吸い寄せられる。

 描きかけの聖母の衣。そこに使われている青は、現代の化学顔料ではない。床に散らばる高価な天然ウルトラマリン――かつて金と同等の価値を持っていた「本物の青」だ。

「美術館の地下にある、誰の目にも触れない密室。豊富な資料と、本物の画材。そして貴方のような優秀な修復士の腕があれば、過去の名画を現代に蘇らせることは造作もない」

 葵翔は、あたかもその光景を見てきたかのように、推論という名の杭を打ち込んでいく。

 ふと、葵翔の視界の端で、未完成の聖母像が冷ややかな視線を投げかけてきた。

 それは、過去の巨匠の筆致を完璧に模倣した、美しき贋作だ。本物よりも本物らしく見えるよう、計算され尽くした偽りの芸術。

 今、自分が紡いでいる言葉も、それと同じではないか。

 物理的な真実である「糸」を闇に葬り、誰もが納得する「氷」という虚構で上書きする。

 目の前の絵画が真実を模した精巧な偽物であるように、僕が今語っている論理もまた、真実を塗り込めるための贋作に過ぎない。

 その欺瞞の重さが、鉛のように舌にのしかかる。

 葵翔はその苦味を噛み潰し、さらに言葉を継いだ。

「館長はそれに気づき、激昂して粉をぶちまけ、口論になったのではないですか。あるいは、彼こそが貴方にそれを強要していた首謀者で、貴方がそれを拒絶しようとしたから……」

 神崎の唇が、何かを言おうとして微かに開き、けれど声にはならなかった。

 代わりに、彼女の身体を支えていた見えない糸が、ぷつりと切れたのが分かった。

 彼女はその場に崩れ落ちるように膝をついた。コンクリートの床に、人体が落ちる鈍く重い音が響く。

 彼女は首を振ることも、反論の言葉を叫ぶこともしなかった。ただ、作業台の上に横たわる未完成のキャンバス――聖母の衣を描いた鮮烈な青色――を、虚ろな瞳で見つめ続けている。

 その目から、大粒の雫が溢れ出し、白衣の襟元へと吸い込まれていく。

 震える指先が、床に散らばるラピスラズリの破片を、懺悔するかのように掻き集めようとして、力なく止まった。

 その背中の痙攣と、深淵を覗き込んだような絶望的な沈黙こそが、言葉よりも雄弁な、色彩を失った肯定だった。

「殺すつもりなんて……ありませんでした。ただ、掴みかかってくる彼を振り払おうとして、突き飛ばしただけなんです」

 突き飛ばされた館長が、勢い余って作業台の角に後頭部を打ち付け、動かなくなった時の恐怖。パニックに陥り、無我夢中で部屋を飛び出した時の記憶。それは断片的で、深い霧に包まれているようだった。

 だが、彼女の記憶の底には、恐怖とは別の、もっとおぞましい感情が沈殿していた。

 動かなくなった館長を見下ろしたあの一瞬。彼女の胸を支配したのは、悲しみでも後悔でもなく――深く、静かな「安堵」だったのではないか。

 この男がいなくなれば、もうあの贋作に向き合わなくて済むのか、あるいは、あの贋作を自分のものにできるのか。

 理由はどちらであれ、彼女は心のどこかで、彼の死を強烈に望んでいた。

 あぁ、これでやっと終わる。

 その昏い喜びが、彼女自身に「自分はずっと彼を殺したかったのだ」と錯覚させる。潜在的な殺意があったのなら、無意識のうちにトリックを仕掛けていても不思議ではない。自分の中に潜む怪物が、勝手に手を動かして「氷」を置いたのかもしれない。

 その罪悪感が、彼女の理性を蝕んでいく。

「……でも、鍵をかけた記憶がないんです。氷を使った覚えも……」

 神崎は縋るような目で葵翔を見上げた。抵抗の色はもう薄れている。

 彼女の瞳は、混濁した記憶の底から、確かな感触を掬い上げようと必死に瞬いている。

「たしか、私は……もっと細い、糸のようなもので……」

 葵翔の背筋に、氷柱を突き刺されたような戦慄が走った。

 真実の欠片が、彼女の口から零れ落ちそうになる。

 彼女は無意識のうちに、「正解」に触れていたのだ。おそらく、すみれが仕掛けた糸が、逃走する彼女の視界の端に映ったか、あるいは無我夢中で扉に触れた際に指先が糸を掠めたのか。

 もしここで「糸」という単語が明確に肯定されれば、この密室が「誰かの作為ーー糸のトリック」と「偶然の殺人」の複合であることを嗅ぎつけられてしまう。

 それを踏み潰さなければならない。

 葵翔は、神崎の言葉を遮るように、鋭く、しかし冷静さを装った声を被せた。

「糸? ……いいえ、それはあり得ない」

 葵翔は冷徹に断言した。

 神崎がビクリと肩を震わせて口をつぐむ。怯える彼女の姿に、胸が張り裂けそうな罪悪感が襲う。自分は今、父である厳が最も憎むべき卑劣な行為――真実の隠蔽と、記憶の改竄――を行っている。

 だが、止まるわけにはいかない。

「神崎さん、自分の手を見てください」

 葵翔は彼女の膝の上で固く握りしめられ、小刻みに震え続けている両手を指差した。

「貴方はパニック状態だった。人を突き飛ばし、動かなくなった姿を見て、恐怖で思考が真っ白になっていたはずだ。……そんな極限状態で、細い糸をドアの隙間に通し、フックに引っ掛け、繊細な力加減で操作するなんて芸当が、貴方にできましたか?」

 畳み掛けるような問いに、神崎は自身の震える指先を見つめ、言葉に詰まる。

「糸を使ったトリックは、冷静沈着な手品師の仕事です。逃げ惑う人間ができることじゃない」

 葵翔は一歩踏み込み、彼女との物理的な距離を詰めた。彼の影が、神崎の顔に落ちる。

「人間は、追い詰められると、無意識のうちに最も合理的で、かつ原始的な方法を選びます。記憶が飛んでいるのは、貴方の脳が恐怖から心を守るためにシャッターを下ろしたからだ。ですが、身体は覚えていたはずです」

 彼は言葉巧みに、彼女の記憶の中にある「細い感触」を、「パニックによる忘却」と「生存本能」へとすり替えていく。

「追っ手を防ぎたい一心で、手元にあった氷を、鍵の受け具に乗せた。それなら、震える手でも一瞬でできる。……違いますか」

 その時、分厚いコンクリートの壁を通して、微かだが不吉な音が地下室の空気を震わせた。

 サイレンの音だ。

 遠くから響くその高い周波数は、まるで獲物を追い詰める猟犬の咆哮のように、徐々に、しかし確実に近づいてくる。

「……聞こえますか」

 葵翔は天井を仰ぎ、無慈悲に告げた。

「警察です。もう、時間がありません」

 神崎の瞳が揺れる。

 彼女自身、自分が何をどうしたのか確信が持てないのだ。鮮明な記憶がない以上、目の前の少年が提示する「震える手では糸など扱えない」というもっともらしい理屈と、迫りくる権力への恐怖に、抗う術を持たない。

 今ここで、合理的な説明を受け入れなければ、さらに恐ろしい取調べが待っている。

 彼女の視線が、虚空を彷徨い、やがて力なく床へと落ちた。

「……そう、かもしれません」

 彼女は、葵翔が植え付けた偽りの記憶を、自らの真実として受け入れた。

「あんなに震えていて……糸なんて、使えるはずがない。……きっと、必死で、何も覚えていなくて……」

 彼女が口をつぐんだ瞬間、葵翔は肺の中に溜まっていた熱い空気を静かに吐き出した。それは安堵の息ではなく、自身の中に溜まった汚泥を吐き出すような、重苦しい呼吸だった。

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