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密室殺人にスミレは白くうつろふ  作者: 霧島響矢
第五章 覆い零れる

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18/21

11:55:00 シナリオ

 犯人は、修復士の神崎だろう。

 葵翔は、沸き上がる罪悪感を理性で冷徹に押し殺し、部屋の隅で震える白衣の女性を見据えた。

 無機質なスチールラックとコンクリートの壁に挟まれた薄暗い一角。そこで彼女は、自身を抱きしめるようにして身を縮めている。袖口に様々な色の絵具が付着した白衣は、頭上の蛍光灯が放つ寒々しい光を吸い込んで青ざめ、その華奢な肩は小刻みに揺れ続けていた。

 張り詰めた地下室の空気の中で、彼女の存在だけが脆く、今にも崩れ落ちそうに見える。

 頭上の壁掛け時計の針は、無情にも正午を指して重なろうとしていた。警察の到着は目前だ。

 ここで終わらせるしかない。警察がこの鉄扉をくぐる前に、葵翔自身の手で幕を引く必要があった。

 ズボンのポケットの底で、指先が硬く丸まった糸くずの感触を探り当てる。

 ささくれ立った繊維の鋭利な先端が、湿った指の腹に食い込む。その微かな痛みだけが、彼が今から行おうとしている行為の卑劣さと、引き返せない現実を伝えていた。

 喉が渇き、心臓が肋骨の内側を不規則に叩く。

 この糸を隠し通すためには、別の論理でこの密室を塗り潰さなければならない。それは、無実かもしれない人間を、言葉の檻に閉じ込める行為に他ならない。

 だが、迷っている時間は残されていなかった。

 葵翔は胸いっぱいに淀んだ血と油の臭いを吸い込み、強張る脚を一歩、静止した時間の中へと踏み出した。

「その付箋、落ちていたのは事務長の背中ですが、元々はドアの枠に貼ってあったものでしょう」

 静寂を切り裂く葵翔の声は、彼自身が思っていたよりも低く、冷たく響いた。

 全員の視線が一斉に集まる。

 修復士の肩が、びくりと大きく跳ねた。彼女は濡れた瞳を見開き、信じられないものを見るように葵翔を凝視する。

「どういうこと、葵翔君?」

 すみれが興味深そうに小首を傾げた。その瞳の奥で、新たな謎解きへの期待がきらきらと光る。

 葵翔は視線を逸らさず、言葉を紡ぐ。

「黒く塗りつぶした付箋をセンサーの受光部に貼れば、ドアが開いていても『閉じている』、あるいは『人がいない』とセンサーを騙せる」

 葵翔は、凍りついた空気の中で淡々と、しかし確信に満ちた口調で解説を続けた。

「この美術館のX線室には、放射線漏れを防ぐための安全装置――インターロックが設置されている。扉が開けばセンサーがそれを感知し、装置は緊急停止する。ログを残すためには、この安全装置を無効化する必要があった」

 彼は事務長の背中から剥がされた黒い紙片を視線で指し示す。

「光学式のセンサーは、光の反射や遮断によって物体の有無を検知します。ですが、光を吸収する『黒色』で受光部を塞いでしまえば、センサーは目の前が暗闇であると誤認し続ける。つまり、扉が閉まっている状態と同じ信号を返し続けることになる。……貴方はそうやって機械の目を欺き、扉を開けたまま部屋を抜け出した」

「そ、そんな……! 仮にセンサーを騙せたとしても、PCの操作ログはどう説明するんですか!」

 修復士が悲鳴のような声を上げて反論した。彼女はすがるように、自分の潔白を証明する唯一の砦にしがみつく。

「言ったはずです。対象は湾曲しているから、数分おきに手動で調整しなきゃいけないって。ログを見れば、私がずっと操作していたことが――」

「ええ。確かにログには、エラーもなく機械が動き続けていた記録が残っているでしょう」

 葵翔は彼女の言葉を遮り、冷徹に告げた。

 一歩踏み出すたびに、革靴が床を叩く音が、自身の良心を責めるように響く。それでも、彼は止まらなかった。

「ですが、肝心の『画像データ』はどうなっていますか」

「え……?」

「手動調整が必要なほど繊細な作業を、無人のまま放置すれば、機械はエラーを起こすか、作品を傷つける可能性がある。プロの貴方がそんなリスクを冒すはずがない」

 葵翔はさらに一歩踏み込み、彼女の逃げ道を論理で塞いだ。

「貴方は、本番の作業などしていなかった。……機械を空運転させていただけだ」

 修復士の顔から、さっと血の気が引いた。

「何も置いていないステージ、あるいはテスト用の平らな板に向けて、単調な長時間スキャンをセットして部屋を出た。それなら機械は文句も言わず、『稼働中』のログだけを吐き出し続けます」

 葵翔は、あたかもPCの画面を見てきたかのように断言した。

「PCを確認すれば、すぐにわかるでしょう。そこに残っているのは、苦労して撮ったはずの湾曲したキャンバスの画像ではない。……真っ暗で無意味な、アリバイのためだけのデータだ」

 図星だったようだ。

 彼女は膝から崩れ落ちるようにして、背後の壁に手をついた。

 もし今、警察が踏み込んで画像ファイルを開けば、そこに「作業の実体」がないことは一目瞭然だ。彼女の不在は、空っぽのデータによって科学的に証明されてしまう。

「そ、それは……あなたの想像ですよね。ただの紙切れ一枚と、データがないだけで……」

 修復士の声が震え、後ずさる。背中が冷たいコンクリートの壁に当たり、彼女は逃げ場を失った。

 彼女の反論は弱々しい。もはや彼女自身、自分の嘘を支えきれなくなっていた。

 修復士の濡れた瞳の奥で、必死に燃えていた抵抗の灯火が、ふっ、と音もなく掻き消えるのを葵翔は見た。

 恐怖に引きつっていた表情筋が弛緩し、張り詰めていた肩から力が抜け落ちていく。それは安堵などではなく、自身の運命に対する完全な降伏だった。

 専門家としての誇りも、無実の人間としての抗いも、剥がれ落ちた漆喰のように彼女の顔から崩れ落ちていく。後に残ったのは、ただ目の前に突きつけられた残酷な「論理」を、自らの「真実」として受け入れるしかない、空っぽの抜け殻のような表情だけだった。

 彼女の唇が、諦めの形に凍りつく。

 葵翔はさらに一歩、彼女の方へ踏み出した。

 革靴が硬い床を叩く乾いた音が、自分の心臓を蹴り上げる音のように響く。彼はズボンのポケットの中で握りしめた拳の中に、じっとりと嫌な汗が溜まるのを感じながら、口を開いた。

「修復士さん。アイスコーヒーはもう、飲み干されましたか」

 葵翔は、あたかも既成事実を確認するかのような、平坦なトーンで問いかけた。

 不意を突かれた神崎が、弾かれたように顔を上げる。

 その表情に浮かんだのは、殺人犯として疑われている恐怖よりも、もっと原始的な動揺――「誰にも見られていないはずの行動」を言い当てられた驚愕だった。

 彼女は一瞬、きょとんとして葵翔を見つめ返した。

「アイス……コーヒー、ですか?」

 彼女の声には、動揺というよりは、あまりに突拍子のない質問への戸惑いが滲んでいる。

 彼女の視線が、自身の空っぽの両手と、葵翔の顔との間を頼りなげに行き来する。

 葵翔は一歩、神崎の方へ踏み出した。

 革靴が硬いコンクリートの床を叩く乾いた音が、静寂な地下室に銃声のように響く。その音は、自分自身の心臓を容赦なく蹴り上げる音のようにも聞こえた。

 彼はズボンのポケットの中で、湿った拳を痛くなるほど強く握りしめた。掌に滲む脂汗が、自身の卑劣さを象徴しているようで不快だった。

 これは、薄氷を踏むような賭けだった。

 先ほど、レストラン裏にある関係者通路で見かけた、小走りで歩くスタッフの後ろ姿が修復士だったか。さらに、その手に握られていた紙コップの中身がアイスコーヒーだったか。どちらも不確定だ。

 もし中身がホットコーヒーや紅茶、あるいはスープであったなら、葵翔が口にした「アイスコーヒー」という具体的な名称は、彼がカマをかけていることを察知される致命的な失言となる。

 不確かな記憶を、さも決定的な事実であるかのように突きつける。それは、無実の人間を言葉の罠に嵌める、最も卑劣なやり口であり、正義を信じる父・厳が最も憎む欺瞞そのものだ。

 だが、今の彼に引き返す道はない。むしろ喜んで手を染められよう。葵翔は胸の奥からせり上がる強烈な罪悪感を奥歯で噛み潰し、能面のような冷徹な仮面を顔に貼り付けた。

「ええ。貴方が先ほど、バックヤードの自販機コーナーで買ってきたものです。十一時半過ぎに」

 葵翔の言葉に、神崎の視線が揺らいだ。

 彼女は無意識に、自分の聖域であるX線室の方角――鉛の入った重厚な防護扉の向こうへと目を向けた。

 彼女にとってそれは、激務の合間に一時の安らぎを得るための、ただのありふれた紙のカップだ。休憩時間に飲み物を買うことなど、隠すようなことでもない。

 だからこそ、無防備に反応したのだ。

 その視線の動きこそが、葵翔が求めていた答えだった。

「……ええ。確かに、X線室の机に置いてありますが」

 神崎は、それがどうしたのかと不思議そうに首を傾げた。そのありふれた飲み物が、目の前の凄惨な殺人現場とどう結びつくのか、皆目見当がつかないといった様子だ。

 彼女の肯定の言葉を聞いた瞬間、葵翔は心の中で重苦しい息を吐いた。

 当たってしまった。彼女はカップを持っている。そしてそれは「アイス」だった。

 何も知らない彼女を利用し、殺人犯の濡れ衣を着せようとしている自分への嫌悪が、どす黒い胆汁のように喉元までせり上がる。胃の腑が焼けつくように熱い。

 だが、ここで止まるわけにはいかない。

 葵翔は凍りついた心で、次の嘘を紡ぎ出す準備をした。目の前の無防備な女性が持っている「ありふれた日常の品」を、論理の力で凶器へと変えるために。

「そのカップの中身……氷こそが、この密室を生み出した鍵なんです」

 葵翔の言葉が、地下室の冷たい空気に波紋を広げた。

 神崎は意味が理解できず、唇を半開きにして凍りついている。

 すみれだけが、その言葉の意図を瞬時に汲み取ったようだった。彼女は興味深そうに目を細めると、ゆっくりと扉の方へ歩み寄る。その視線は、扉の縁に取り付けられた古風な真鍮製の打掛錠へと注がれた。

「氷を使って、鍵を……?」

 事務長が掠れた声で鸚鵡返しする。

 葵翔は頷き、乾いた喉を無理やり震わせて虚構の論理を紡ぎ出した。

「そうです。この打掛錠は、重力を利用してフックが下がり、受け金具の輪に収まることで施錠されます。通常なら、外からフックを持ち上げて落とすことは不可能です」

 彼は扉の前に立ち、身振りでその動きを再現してみせる。

「ですが、もし貴方が退室する際、受け金具の上に『氷の塊』を置いていたとしたらどうでしょう」

 葵翔は、あたかもそこに透明な立方体があるかのように、指先で小さな空間を示した。

「受け金具の上に氷を乗せ、その上にフックを預けるのです。フックは氷に支えられ、まだ鍵がかかっていない状態で宙に浮くことになります」

 全員の視線が、葵翔の指先に吸い寄せられる。

「貴方は、氷側に倒れるように傾きを調整して、扉が閉まる直前にフックを離した。あとは、そのまま立ち去るだけでいい。やがて室温で氷が溶け、支えを失ったフックは重力に従って滑り落ちる。……カチャリ、と音を立てて、受け金具の中に収まるわけです」

 時限装置としての氷。

 物理法則だけを利用した、消える密室トリック。

 それは、葵翔が咄嗟に組み上げた空論に過ぎない。

 脳裏をよぎったのは、かつて父の書斎から借りて読んだ古いミステリー、ジョン・ディクスン・カーの『三つの棺』だった。

『どんな謎も、ほどいてみればただの物理現象だ』

 普段は厳格な父が、その時だけは少年のような無垢な瞳を輝かせ、不器用な手つきで貸してくれた一冊。その作中で語られる「密室講義」の一節。氷が溶けて痕跡を消すという古典的な手法。

 父が信じる「真実を暴くための論理」を、息子である自分が今、「真実を葬るための虚構」として悪用しようとしている。

 その強烈な皮肉と背徳感が、胃の腑を冷たく焼き焦がしていくのを覚えながら、葵翔は言葉を継いだ。

 ミステリーファンなら苦笑するような古めかしい手品であり、現実の物理的制約、氷の形状や摩擦係数を考えれば、失敗するリスクの方が高いだろう。だが、この切迫した状況下で、それを即座に否定できる者はいない。

「そんな……まさか」

 神崎が顔面を蒼白にして首を横に振る。

「私の氷が使われたなんて証拠、どこにもないじゃないですか。氷は溶けて水になるんですよ?」

「ええ。痕跡は残りません。……だからこそ、貴方はその方法を選んだ」

 葵翔は冷徹に言い放ち、床を指差した。

 扉の直下。そこには、ぶちまけられたラピスラズリの青い油絵具と、どす黒い血液が混じり合い、不吉な紫色の泥沼を作っている。

「よく見てください。あの惨状を」

 葵翔が示したのは、錠前の真下に広がる混沌とした液体だ。

「床には大量の血液が流れています。血液の成分の大半は水分だ。もし、小さな氷が溶けて滴り落ちたとしても、その水は瞬く間に血液の海に飲み込まれ、同化してしまう」

 葵翔は、あたかも最初からそこには何もなかったかのように、淡々と虚構の事実を告げた。

「溶けた水は、赤黒い汚泥の中に紛れて消えた。貴方は、現場のこの状況を利用して、証拠を『透明』にしたんですよ」

 実際には、そこに氷など存在しなかったのだから、水などあるはずがない。

 だが、今の神崎には反論する術がなかった。「水がない」という事実そのものが、葵翔の提示した「血液に混ざって消滅した」というロジックを補強する材料になってしまっている。

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