11:54:00 付箋
「……つまり、この場にいる全員に、犯行は不可能だったということですね」
すみれは給仕長の目を見て静かに頷くと、くるりと踵を返し、再び部屋の中央へと視線を戻した。
彼女の言葉が、重い鉛の塊となって地下室の空気を押し潰す。
事務長、修復士、警備員、そして給仕長。
全員が鉄壁のアリバイを持っていた。論理の積み木は完成し、そこには犯人が入り込む隙間など、針の穴ほども残されていない。
全員がシロ。
ならば、誰が鍵をかけたのか。誰が、この密室を完成させたのか。
行き場を失った沈黙が、血と油絵具の匂いと共に淀んでいく。
葵翔は、ズボンのポケットの中で、硬く丸められた異物を指先で強く握りしめた。
ささくれ立った繊維の感触。黒い糸。
この糸こそが、物理的な解法だ。だが、それを隠滅してしまった今、この部屋は論理的な出口のない「魔法の箱」へと変貌してしまった。
自分が手を下したことで、不可能犯罪が完成してしまったのだ。
冷たい汗が背中を伝う。このままでは、異常な状況そのものが、警察の、そして父、厳の執念を呼び寄せてしまう。
早く、代わりの答えを用意しなければならない。
「……隙間がないわね」
ふと、すみれが独り言のように呟き、重厚な鉄扉の蝶番の側へ歩み寄った。
彼女は細くしなやかな指先で、冷たい金属のフレームをなぞる。
その指は、金属の冷たさを確かめるというよりは、そこにあるはずの空気の通り道――「物理的な干渉が可能なルート」を探り当てようとしている動きだった。彼女の瞳は今、まさに「鍵を使わずに外からフックを操作する方法」――つまり、糸を通すべきわずかな隙間を見つめている。
葵翔の心臓が早鐘を打った。
彼女は目の前の不可能犯罪というパズルに魅入られ、無邪気にその解法を楽しんでしまっている。
もし彼女がこの場で正解を導き出し、「糸を使ってフックを持ち上げれば施錠できる」などと口走ってしまえばどうなるか。
止めなければならない。
彼女の鋭い推論が、葵翔がポケットに隠した真実まで暴き出してしまう前に、その思考のベクトルを物理的に逸らさなければならない。
葵翔は決意を固めると、すみれの背後を通り抜け、血眼になって周囲へと視線を巡らせた。
まずは犯人の痕跡を探すふりをして、床や壁、そして立ち尽くす人々を観察する。冷たい汗が背筋を伝い、シャツが肌に張り付く不快感が増していく。
論理の空転ではなく、彼女の関心を強制的に引き剥がせるだけの、目の前に存在する異物が必要だ。
視界の端で、事務長が脂汗を拭いながら身を震わせているのが見えた。彼は恐怖と混乱で、自身の身なりになど構っていられない様子だ。黒のスーツはサイズが合っておらず、背中や脇に窮屈そうな皺が寄っている。
その時、葵翔の目が、事務長の上着の裾――背面のベンツのあたりに張り付いている異物に吸い寄せられた。
それは、黒色の安っぽい化学繊維のスーツ地において、そこだけ空間が切り取られたかのような、不自然な黒い長方形だった。
「……すみれ」
葵翔は思考の沼から這い上がるように声を出し、彼女の思考の糸を強制的に断ち切った。
意識して作った硬い声色が、地下室の空気を打つ。
「ちょっと、事務長さんの背中を見てくれ。何か、変なものが張り付いている」
その声に、すみれはハッとして思考の海から浮上した。
彼女はドアの隙間へ注いでいた熱っぽい視線を外し、葵翔が指差す事務長の方へと振り返る。その瞳から、先ほどまでの「密室」への没入感が薄れていくのを見て、葵翔は肺の奥で安堵した。
突然の指名に、事務長が体を強張らせた。裏返った声を出す彼の背後に、すみれは躊躇なく歩み寄る。彼女はその背中に白く細い指を伸ばし、生地にへばりついていた異物を慎重につまみ上げた。
現れたのは、一枚の付箋だった。
しかし、それはただのメモ用紙ではない。
一般的な黄色い付箋の表面が、黒の油性マーカーで、執拗なまでに塗りつぶされていたのだ。
文字や記号ではない。ただの、黒い四角形。インクの揮発臭が微かに鼻を掠める。
本来なら目立つための文具が、光を吸い込むような闇色に塗り替えられ、薄暗い地下室の中で事務長の地味なスーツの背中に同化していたのだ。
「真っ黒な……付箋?」
すみれが眉をひそめる。
先ほどまでの密室構造への没頭は霧散し、彼女の関心は完全に目の前の不可解な物証へと切り替わっていた。
葵翔は小さく息を吐き、次なる手を打つべく視線を巡らせた。彼女の興味を繋ぎ止め、かつ犯人を特定するロジックを構築しなければならない。
「小野寺さん。……これは」
すみれが付箋を突きつけると、事務長は目を白黒させながら自身の背中を振り返ろうと体をよじった。
「な、なんだそれは。……私の背中にあったのか」
「ええ。心当たりは」
「皆目検討がつかない。そんな奇妙なもの、見たこともないし、いつ張り付いたのかも分からん」
事務長は必死に首を振った。




