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密室殺人にスミレは白くうつろふ  作者: 霧島響矢
第四章 棘を隠す

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16/21

11:53:30 空白

 すみれの決定的な一言が、限界まで張り詰めていた事務長の神経を逆撫でしたようだ。

 小野寺は、まるで死刑宣告でも受けたかのように顔面を蒼白にさせた。冬の地下室だというのに、彼の広い額からはとめどなく脂汗が噴き出し、こめかみを伝って顎先から滴り落ちている。彼はズボンのポケットからくしゃくしゃになったハンカチを取り出すと、皮膚が赤くなるほどの強さで顔を乱暴に擦った。

「み、密室……? だとしたら、まさか私が疑われているのですか」

 彼の声は極度の緊張で引きつり、裏返っていた。充血した瞳が、救いを求めるように周囲を激しく彷徨う。

「第一発見者で、このエリアに一番近かった私が、一番怪しいとでも言うつもりですか」

 小野寺は両手を広げて抗議の姿勢を取ったが、その指先は痙攣したように震えていた。

「……小野寺さん、貴方の事務室は、この通路のすぐ手前に位置していますね」

 すみれは事務長の動揺になびくことなく、静かな瞳で彼を見据えた。感情を挟まない冷徹な視線が、彼を物理的な距離という事実だけで追い詰めていく。

 小野寺の呼吸が荒くなり、言葉を失って立ち尽くす。

 だが、その追及を遮るように、横から警備員が重々しい口調で割って入った。制服の胸板を張り、小刻みに震える事務長を庇うように一歩前へ出る。

「いや、それは不可能です。彼の不在証明なら、私が保証します」

 警備員は太い腕を組み、確信に満ちた表情で断言した。

「私の詰めているモニター室は、事務室のすぐ隣に位置しています。もちろん業務中は双方のドアを閉めていますが、この地下フロアは壁の遮音性が低い。隣の物音は、壁越しでも驚くほどよく響くのです」

「音で、彼を監視していたと?」

「ええ。小野寺さんがデスクでパソコンのキーボードを叩き続ける打鍵音と、書類をめくる乾いた音が、壁の向こうから途切れることなく私の耳に届いていました。彼が神崎さんを呼びに部屋を出るその瞬間まで、音はずっと続いていた。……もし彼が犯行のために席を外していれば、音が止まるのですぐに気づいたはずです」

「……助かった。ありがとう」

 小野寺の膝から、文字通り力が抜け落ちた。

 彼は背後の冷たいコンクリート壁にずるずると背中を預け、今にも崩れ落ちそうな体を辛うじて支える。壁越しの聴覚による常時監視。それは、彼を容疑者リストから除外する鎖となる。

「待ってください」

 安堵の空気が流れた瞬間、すみれの涼やかな声がそれを遮った。

 彼女は小首を傾げ、悪戯っぽい瞳で警備員を見つめている。

「音だけ、なのですよね? だとしたら、ICレコーダーなどで録音したタイピング音を流しておけば、席を外すことは可能なのではなくて?」

 その鋭い指摘に、小野寺が再びヒッと息を呑む。

 だが、警備員は動じることなく首を横に振った。

「いいえ、不可能です。音が続いていただけではありません」

 警備員は断言した。

「十一時四十分すぎに、外部からの電話を事務室へ取り次ぎました。壁越しに小野寺さんが受話器を取り、応答する声も聞いています。録音に会話はできません」

「……なるほど。それなら完璧ね」

 すみれは得心がいったように一つ頷くと、興味の対象を事務長から外し、再び閉ざされた鉄扉の方へと向き直った。

 彼女の視線が向けられた先で、修復士の神崎がびくりと肩を震わせる。

「それでは神崎さん、貴方の不在証明は? 先ほどはずっとX線室にいたと仰っていましたが」

「は、はい……。機械のログが残っているはずです」

 神崎は縋るように、廊下の奥を指差した。

「X線分析装置は、照射中にドアが開けば安全装置が働いて強制停止します。十一時四十分から四十五分まで、エラーなく照射が続いていた記録が、私が部屋を出ていない証明になります」

「システムによる密室証明、ですか」

 すみれは感心したように目を細めたが、すぐに意地悪な質問を投げかけた。

「でも、スイッチを入れて放置しておけば、人間がいなくても機械は動き続けるのではありませんか?」

 神崎は顔を蒼白にしながらも、必死に首を振った。

「い、いえ、それは無理です。今回の調査対象は湾曲したキャンバスだったので、数分おきに手動で焦点距離と照射角度を微調整する必要がありました。ピンボケするとエラーが出るので、これもログを見れば分かります。私がずっとコンソールを操作し続けていたことが」

「……なるほど。操作ログがあるなら、抜け出す隙間はありませんね」

 すみれは残念そうに、けれどどこか楽しげに肩をすくめた。

 彼女の視線は、そこから滑らかに、そして必然的に、その隣に立つ制服の男――警備員へと移動する。

「では、監視役である貴方自身の証明は? 誰が『監視者を監視』していたのかしら」

 その問いは鋭利だったが、警備員は眉一つ動かさなかった。

「モニター室の天井には、勤務中の警備員を監視するための『内部監査用カメラ』が設置されています。私の背中と手元は二十四時間体制で録画され続けています」

「映像データ、ですか」

 すみれは人差し指を唇に当て、天井を見上げた。

「でも、デジタルデータならループ再生させたり、事前に撮った映像に差し替えたりすることも可能なのでは?」

「あいにくですが」

 警備員は、彼女の推論を岩のような頑固さで跳ね返した。

「当館の監査システムは、改竄防止のために旧式のアナログテープ録画を採用しています。それに画面の隅には、一分ごとにランダムな監査コードが表示される仕組みだ。編集も細工も不可能です」

 警備員は葵翔とすみれを交互に見据え、力強く頷いてみせた。

 事務長は会話する声、修復士は複雑な操作ログ、そして警備員は改竄不能なアナログ映像。

 全員の完璧なアリバイが成立したことで、消去法が残酷なまでの明瞭さを持って機能し始める。

 葵翔の背筋を、冷たい汗が伝い落ちた。

 すみれが楽しそうに壁を叩けば叩くほど、ここが逃げ場のない「完全な密室」であることが証明されていく。

 残る人物は、あと一人しかいない。

「事務長は聴覚、修復士は電子ログ、そして警備員は視覚的な記録」

 三つの鉄壁が築かれた今、すみれの視線は最後に残された人物――給仕長の山岡へと静かに注がれた。

 山岡は、地下への疾走で乱れた呼吸をようやく整えたところだった。彼は純白のポケットチーフを取り出すと、額に滲んだ汗を丁寧に、しかし素早く押さえるように拭った。その仕草一つにも、長年ホテルやレストランで培われてきた洗練された所作が染み付いている。

 彼はすみれの問いかけを待つことなく、自嘲気味に口元を緩めた。

「私の不在証明については、これ以上の証拠はないでしょう」

 山岡はハンカチを胸ポケットにしまい、背筋を伸ばして葵翔とすみれを交互に見つめた。その瞳には、プロフェッショナルとしての矜持と、隠しようのない悲哀が混在している。

「何よりの証人は、そこにおられるお二人です」

 葵翔はハッとして、数十分前の記憶を手繰り寄せた。

 燦々と陽光が降り注ぐレストランのメインホール。葵翔とすみれが訪れた十一時三十五分の時点でもすでに賑わいを見せていた。ランチタイムの繁忙で戦場のような忙しさだったはずだ。

「私は十一時半すぎに、お二人のテーブルへオーダーを伺いに参りました。その前後も、ホールの入り口で予約客を捌き、厨房へ指示を出し、グラスの水が減れば即座に注ぎ足しに回っていた。……たった五分でも私がフロアを空ければ、ランチのオペレーションは崩壊します」

 葵翔の脳裏に、テキパキとホールを指揮していた山岡の姿が鮮明に蘇る。

 確かに、葵翔たちが食事をしている間、山岡の姿は常に視界のどこかにあった。入り口でコートを預かり、ワインを注ぎ、会計を済ませる客に頭を下げる。その姿が途切れた記憶はない。

「お二人が入店されてから、あの不吉な電話が鳴るその瞬間まで、私はずっとお二人の視界の中にいたはずです。……私がこの地下へ降りてきて、館長を殺害し、再び何食わぬ顔でホールへ戻ることなど、不可能です」

 山岡は静かに、しかし断固として告げた。

 その言葉に、葵翔は反論の余地を見出せなかった。自分たち自身の目が、彼の無実を証明するカメラだったのだ。

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