11:53:00 密室
「……つまり、外部からの侵入は不可能ということですね」
警備員と給仕長の証言を聞き終え、すみれは納得したように小さく頷いた。
彼女はゆっくりと踵を返すと、部屋の中央、無機質な作業台の上に横たわる館長の遺体へと近づいていった。
その歩みは、優雅でありながらも慎重だった。
床には、ラピスラズリの青い油彩と赤黒い血液が混じり合い、不吉な紫色の模様を描いている。彼女はスカートの裾がその汚泥に触れぬよう気を配りながら、わずかに残された乾いたコンクリートの地肌を選んで、迷路を辿るように爪先を運んでいく。
不規則なヒールの音が、地下室の冷たい空気を揺らす。足元の惨状に注意を払いながらも、彼女の視線は、致命傷となった頭部の生々しい裂傷や、作業台から垂れる赤黒い液体には向けられていない。
彼女が熱心に見つめているのは、不自然に固く握りしめられた右手の拳だ。
葵翔は息を殺してその背中を見守った。
彼女の長い髪が、蛍光灯の青白い光を受けて艶やかに光る。その背中からは、惨劇に対する恐怖よりも、目の前の矛盾を解き明かそうとする静かな高揚感が漂っていた。彼女の観察眼が、そこにある違和感を正確に捉えようとしている。
「事務長さん」
すみれは遺体に触れないよう慎重に顔を寄せ、細くしなやかな指先でその手元を示した。
「見てください。館長が、何かを強く握りしめています」
呼ばれた事務長がおずおずと近づき、顔をしかめながら遺体の手元を覗き込む。
血の気を失い、石膏のように白く硬直した拳。その指の隙間から、真鍮色の鈍い輝きが覗いていた。
「あ……」
事務長はハッとして、記憶の底から重要なピースを拾い上げたように声を上げた。
「そ、そうだ。それは、この修復室の鍵だ。館長はこの部屋の鍵を常に持ち歩いていたんだ」
「この部屋の鍵、なのですね。……ちなみに、合い鍵はいくつあるのですか」
すみれの問いに、事務長は即座に給仕長の顔を見た。
「彼が金庫から持ってきたスペアキーがある。それ以外には存在しない」
「でも、警備室や清掃用のマスターキーがあるのでは?」
「いえ、ありません」
今度は事務長が首を横に振った。
「この修復室は、重要文化財を扱う特別なセキュリティエリアです。館内のマスターキーシステムからは独立しており、専用の鍵でしか開きません。その鍵は、館長が持つ一本と、金庫の中の一本。この世に二本しか存在しないのです」
事務長はそこで言葉を切り、チラリと神崎の方を見た。
「それに、彼女は分析が専門で、普段は奥のX線室を使っている。この修復室で作業するのは館長だけだ。彼女自身、この部屋には数回しか入ったことがないはずです」
「山岡さん」
すみれは踵を浮かせて、つま先で床に小さな円を描く。流れるような動作で、まだ息の上がっている給仕長へと視線を転じた。舞踏会のステップのように滑らかなその動きに、葵翔は目を奪われる。
「その金庫について、確認させてください。……金庫が開けられた形跡は?」
「……いえ、ありませんでした」
山岡は首を横に振り、断言した。彼は汗を拭い、プロの給仕としての冷静さを取り戻そうと背筋を伸ばす。
「金庫はダイヤル式とシリンダーの二重ロックです。私が開けた時、ダイヤルはランダムに回されて施錠されていましたし、こじ開けられたような形跡も一切ありませんでした。それにダイヤルにはうっすらと埃がかぶっていたことを記憶しています。正規の手順で解錠したのは、私が最初です」
その言葉を聞いた瞬間、すみれはゆっくりと顔を上げた。
彼女の視線が、入口に聳える重厚な鉄扉へと吸い寄せられる。
その茶色の瞳の奥で、光が揺らめいた。バラバラだった事象が急速に繋がり、ひとつの結論へと収束していくのが、葵翔には手に取るように分かった。
「……奇妙ですね。犯人はこの部屋にいない。つまり、犯行後に外へ逃げたことになる」
彼女の鈴を転がすような声が、静まり返った地下室に響く。
「けれど、発見時、扉には鍵がかかっていました。……今ここにある二本の鍵の在り処を整理しましょう。一本は、金庫の中にあり、発見後に給仕長さんが持ってきた。そしてもう一本は、ここにある遺体の手の中です」
その指摘が意味することを理解した瞬間、室内の空気が張り詰めた弦のように軋んだ。
事務長が、警備員が、そして部屋の隅にいる修復士が、息を呑んで立ち尽くす。
鍵を持たない犯人が、どうやって外へ逃げ、外側から鍵をかけたというのか。
葵翔はポケットの中にある「黒い糸」を強く握りしめた。その物理的な解法を隠滅したことによって、この空間は変貌してしまったのだ。
それは単なる殺人現場ではない。物理的な矛盾を孕んだ、異常な空間。
「窓のない地下室。逃げ場のないコンクリートの箱」
すみれは呆然としたように、けれどその瞳を爛々と輝かせながら周囲を見渡した。
そこにあるのは、論理的な出口が一切存在しない閉鎖空間。
「……密室」
すみれの唇から、その言葉が甘美な響きを伴ってこぼれ落ちた。




