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密室殺人にスミレは白くうつろふ  作者: 霧島響矢
第四章 棘を隠す

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13/21

11:52:20 箱庭

「正確な状況を把握しておきましょう。……皆様、お名前とここでの役職、そして発見時の状況を伺ってもよろしいかしら」

 鉄錆のような血の臭気と、鼻をつく揮発性の溶剤の匂いが淀む地下室に、すみれの凛とした声が響き渡った。

 それは犯人を追及する取り調べの厳しさというよりは、床に散乱したパズルのピースを一つひとつ丁寧に拾い集めるような、冷静で透明な響きを持っていた。蛍光灯の寒々しい明滅の下、パニックに陥りかけていた大人たちの意識が、吸い寄せられるように彼女へと向く。

 アイボリーのコートを纏った彼女がその場の空気を支配してくれたおかげで、波打っていた緊張の糸がわずかに緩み、数秒の空白の時間が生まれた。

 葵翔は扉の脇にある無機質なコンクリートの壁に背中を預け、誰にも悟られないよう、ゆっくりとズボンの右ポケットの奥へ指を滑らせた。

 指先が、小さく丸められた硬い異物に触れる。

 ワイヤーのように強い反発力を持つその感触を、指の腹で確かめる。先ほど警備員の死角を突き、とっさに真鍮製のフックから回収した黒い糸だ。

 ささくれ立った繊維の鋭利な先端が、湿った指先の皮膚に食い込む。その微かな痛みだけが、彼がたった今、決定的な証拠隠滅を行った共犯者であることを現実に引き戻していた。

 証拠を隠滅した代償は、あまりにも重い。

 葵翔は視線を上げ、自分たちが通り抜けてきた重厚な鋼鉄の扉を見据えた。

 物理的な解法であったこの糸が消えたことで、この部屋は出口のない論理の檻――完全な密室へと変貌してしまったのだ。内側から施錠された扉と、中に残された死体。鍵は、館長が握っているものがそうだろう。

 このままでは、不可解な状況そのものが、かえって警察の執拗な捜査を招き寄せてしまう。

 空白になってしまった「犯行手段」を埋める、代わりのトリックが不可欠だ。

 葵翔は乾いた喉の渇きを堪えながら顔を上げ、視線だけで薄暗い室内をまさぐった。

 壁際のスチールラックに並ぶ画材、床に散らばるガラス片、そして顔面蒼白で立ち尽くす関係者たち。誰かを生贄にしてでも構築できる、偽りの真実。その材料になり得る「何か」を、乾いた眼差しで必死に探した。

「わ、私はここの事務長の小野寺だ」

 事務長の上ずった声が、コンクリートの壁に反響した。

 彼は額に滲んだ脂汗を手の甲で拭いながら、自身の身分を明かした。灰色のスーツは小太りの体に窮屈そうに張り付き、ネクタイの結び目は苦しげに緩んでいる。その呼吸は浅く、地下室特有の冷気の中でも彼一人だけが暑さに喘いでいるようだった。

「事務長の小野寺様ですね。……第一発見者は貴方ですか? その時の経緯を教えていただけますか」

 すみれは事務長の動揺になびくことなく、静水のように澄んだ声を返した。彼女は小首を傾げ、長い睫毛の奥にある瞳で事務長を真っ直ぐに射抜く。その視線には、混沌とした状況から事実だけを濾過しようとする、冷徹な理性が宿っていた。

 すみれの落ち着いた問いかけに、事務長は再び脂汗を拭い、渇いた唇を舐めてから口を開いた。

「ああ。あれは十一時四十五分頃だったか……。私は、そこの修復士の神崎君に急ぎの用事があって、通路へ出たんだ。だが奥のX線室へ行ったら照射中のランプがついていて……。作業の邪魔をしてはいけないと引き返そうとして、ふとこの部屋の小窓を覗いたら、館長が倒れているのが見えて」

 事務長はそこで言葉を詰まらせ、脳裏に焼き付いた惨劇の映像を振り払うように激しく首を振った。

「慌ててドアを開けようとしたが、駄目だった。鍵がかかっていて、開かなかったんだ。そこで私はすぐに奥のX線室のドアを叩き、中にいた神崎君に鍵を持っていないか確認した。だが、彼女は持っていないと言う。だから慌てて内線で山岡を呼び出し、金庫のスペアキーを持ってくるよう指示したんだ」

 その言葉が、鉛の塊のようにその場の空気を押し潰した。

 葵翔は無意識に、背後の重厚な鉄扉へと視線を走らせた。

 犯人が閉ざしたのだ。内側から施錠されたこの扉を、外側から閉ざす方法。そのために必要な物理的な仕掛けは、今まさに葵翔の右ポケットの中で、指先にささくれ立った感触を伝えている。

 だが、表向きには何もない。この部屋の鍵が見つからなければ、物理的に矛盾した状況だけが存在することになる。

「神崎さん」

 すみれの声の矛先が変わり、部屋の隅で縮こまっていた女性に向けられた。

 彼女は袖口に絵具の染みついた白衣を身に纏い、自分の腕を抱くようにして立っていた。視線を向けられた彼女は、ビクリと肩を震わせる。

「は、はい……修復士の神崎です」

「事務長がここを訪れた時、あなたはどこに」

「X線室です。ずっと中にいました」

 神崎は震える声で、しかしはっきりと答えた。その顔色は蒼白で、ボブカットの髪が乱れているが、瞳には潔白を主張する強い光が宿っている。

 すみれは短く頷くと、流れるような所作で給仕長の山岡へと視線を滑らせた。

「念の為お尋ねしますが、あなたはどこに」

「ずっとホールに立っていました」

 給仕長がハンカチで額の汗を拭いながら、恭しく一礼する。

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