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密室殺人にスミレは白くうつろふ  作者: 霧島響矢
第三章 密かに香る

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11/21

11:51 黒い線

 葵翔は反射的に手を止め、視線を落とす。

 レバーハンドルのすぐ上、目線の高さに設置された施錠用の金具――古めかしい真鍮製の打掛に、黒い髪の毛のようなものが巻き付いていた。

 それは、現代的なシリンダー錠とは対照的な、極めて原始的な構造の鍵だ。

 扉側には、回転軸を持つ棒状のフックが取り付けられている。施錠する際は、この真鍮の棒を指で持ち上げて水平にし、枠側に固定された「コ」の字型の受け金具へとスライドさせる。そして指を離せば、棒は重力に従ってパタンと下へ落ち、受け金具の窪みにガッチリと嵌まり込む仕組みだ。

 バネも磁石も使わず、ただ金属の重みと引力だけを利用したシンプルなロック機構。

 彼はとっさに動きを止め、目を凝らす。

 髪の毛ではない。

 そこに巻き付いていたのは、妙にゴワついた極細の繊維だ。

 繊維は、年月を経て鈍い琥珀色に変色したフックの軸元に、三周ほどきつく巻き付けられ、その先端は力なく垂れ下がっている。

 千切れた断面がささくれ立ち、そこから鮮やかな黄色が覗いている。

 表面は艶消しの黒。けれど、芯は黄色。さらに言えば、黒い色は均一ではなく、所々に塗り残したような僅かなムラがある。

 黄色い高強度繊維を、手作業で黒く塗りつぶしたものに見える。

 葵翔の心臓が、早鐘を打つのとは違う、重く冷たい音を立てた。

 物理法則。

 フックに糸を掛け、扉の隙間から外へ出す。その張力でフックを持ち上げ、繊細なコントロールで受け金具の輪の中へと落とし込む。

 外にいる人間でも、内側の掛け金を操作できる。

 この糸は、この部屋が「密室」などではないことを証明する、唯一の物理的な解法だ。

 だが葵翔の懸念は別にあった。

 この糸を、隠滅しなければならない。

 彼にはその理由が、絶対的に存在した。

 だが、もし今、自分がこの糸を持ち去ってしまえば、どうなるか。

 外部から鍵を操作したという手段そのものが、この世から消滅する。残されるのは、内側から施錠された鉄壁の扉と、中にいる死体だけ。

 それは単なる証拠隠滅では済まない。

 タネのある「手品」を、解法のない「魔法」へ――完全なる密室殺人へと書き換えてしまう行為だ。

 自分が手を下すことで、この空間は論理の迷宮と化す。

「何をしている。早く出ろ!」

 背後から警備員の怒号が飛んだ。

 葵翔は肩を跳ね上がらせ、全身から冷や汗が噴き出すのを感じた。

 今ここで回収して隠滅しなければならない。

 指先を、わずかに数センチずらすだけでいい。そうすれば、この細い糸を摘み取り、ポケットの中に隠すことができる。

 喉が張り裂けそうなほどの焦燥が、彼の指を突き動かそうとした。

「おい、聞こえないのか」

 だが、至近距離から浴びせられた追撃が、その機会を奪い去った。

 警備員は葵翔の肩を強く押し、鉄扉を開けようと手を伸ばす。

 葵翔は奥歯を噛み締めた。

 目の前に落ちている爆弾を見過ごすような、強烈な恐怖。

 このまま外に出され、警察が到着すれば、彼らは必ずこの糸を見つけるだろう。

 そうなれば、捜査の方針は殺人だけではなくなる。父、厳の執念が、この現場に向けられることになる。

 それは、致命的な状況だった。

 この糸を隠滅しなければ。

 警備員の手がレバーハンドルに迫る。葵翔は全身を硬直させた。

「――お待ちになって」

 その声は、決して張り上げたものではなかった。

 だが、怒号と動揺が渦巻く室内の喧騒を、冷たい水で洗い流すように静まらせた。

 すみれだ。

 彼女は出口へ向かう人波には乗らず、死体が横たわる部屋の中央近くで、毅然と立ち尽くしていた。

 彼女は警備員の腕を掴むわけでもなく、ただその場を支配するような静謐な佇まいと、真っ直ぐな視線だけで、興奮状態にある大男の動きを制していた。

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