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密室殺人にスミレは白くうつろふ  作者: 霧島響矢
プロローグ

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プロローグ

 時計の針は、十一時三十五分を指していた。

 警視庁本庁舎十六階。捜査三課の広大なフロアは、昼休みを目前に控え、異様な熱気を孕んでいた。

 窓の外には、雲の切れ間すらない澄み渡った冬の青空が広がり、乾いた日差しが防弾ガラス越しに白々とフロアを焼き付けている。だが室内では、換気システムの唸りをかき消すように、絶え間なく明滅を繰り返す電話の赤ランプと、怒号のような報告の声、そして無数のキーボードを叩く乾いた打鍵音が不協和音となって渦巻いていた。

 年末年始は、人の動きに紛れて空き巣やひったくりが増加する。犯罪者たちにとっての繁忙期だ。それを追う盗犯担当の刑事たちにとって、今は一年で最も神経をすり減らす季節でもあった。古びた書類の匂いと、煮詰まったコーヒーの香りが混じり合い、淀んだ空気が天井付近に滞留している。

 その喧騒の只中にあって、森川(もりかわ)(げん)のデスクの周りには、周囲から切り離されたような重苦しい静寂が漂っていた。

 厳は、厚手のコートのポケットから透明な証拠品袋を取り出すと、山積みになった調書の塔の上に、放るように置いた。ビニール袋が書類の上で滑り、カサリと乾いた音を立てる。

 昨夜、自宅の書斎で捜査資料を読み込み、疲労のあまりそのまま机の上に置き忘れてしまった物だ。今朝、車を出してしばらく走ってからその事実に気づき、舌打ちと共にハンドルを切って取りに戻るという失態を演じた直後だった。

 袋の中に封入されているのは、わずか五センチの長さしかない、一本のよじれた黒い糸くずだ。

 蛍光灯の光にかざしてみれば、どこにでもある裁縫用の木綿糸に見える。だが、科捜研から届いた分析結果の書類は、その外見とは裏腹な異質極まりない事実を示していた。

『芯材は黄色のアラミド繊維。表面を黒色の塗料で不均一にコーティングしたものと推定される』

 防弾チョッキにも使われる世界最強度の繊維を、わざわざ手作業で黒く塗りつぶした特注品。

 厳の眉間に、深い皺が刻まれる。この糸こそが、ここ一年の彼の悩みの種だった。

 節くれだった武骨な指先が、デスクの上で苛立ちを逃がすようにリズムを刻む。

「警部」

 張り詰めた切迫した声が、その深い集中を破った。

 厳が顔を上げると、数席向こうで若手の捜査員が受話器を握りしめたまま立ち上がっていた。その顔色は血の気を失い、蒼白になっている。

 周囲の刑事たちの視線が一斉に集まった。

御影(みかげ)美術館から一一〇番通報です。館内で盗難発生とのこと」

「なんだと」

 厳の目が鋭く細められた。

 管内でも指折りの歴史と格式を持つ美術館だ。

「被害状況は」

「確認中ですが、現場は混乱している模様です。至急、臨場を要請されています」

 厳は舌打ちを噛み殺し、デスク上の証拠品袋を乱暴に掴むと、引き出しの奥へと押し込んだ。

 捜査というものは生き物だ。こちらの想定や準備などお構いなしに、状況は刻一刻と変化し、拡大していく。犯人が動いたのなら、こちらも動くしかない。

 だが、彼が顔をしかめた理由は、それだけではなかった。

 御影美術館。

 厳はふと視線を上げ、ブラインドの隙間から差し込む眩しい冬の日差しを見つめた。その光の白さが、今朝の自宅での光景を脳裏に鮮明に蘇らせる。

 午前七時。男二人暮らしの食卓には、いつものように静寂が流れていた。

 忘れ物を取りに一旦家に戻り、再び玄関を出ようとした厳に対し、外出の支度を整えていた息子、葵翔(あおと)が、珍しく自分から口を開いたのは、厳がドアノブに手をかけたタイミングだった。

『父さん、今日の夕飯いらない』

 背中越しに投げかけられた言葉に、厳は革靴を履きながら振り返った。法学部に通う大学生の息子は、普段なら六法全書と向き合い、家には食事と寝に帰るような生活を送っている。

『ん? ゼミの飲み会か』

『いや』

 葵翔は少しだけ視線を泳がせ、手元のスマートフォンに目を落とした。

 その服装が、いつもの飾り気のない洗いざらしのパーカーではなく、小綺麗なチャコールグレーのタートルネックセーターであることに厳は気づいた。ダイニングチェアの背には、仕立ての良い深いブラウンのチェスターコートがかけられている。

『御影美術館。……すみれと行ってくる』

 ぶっきらぼうな口調の端に、父親に対して「デートに行く」と告げる気恥ずかしさを隠そうとする、若者特有の硬さが混じっていた。

 息子に恋人ができたことは知っていたが、まさか今日、彼らが向かった先が、今まさに通報のあった現場だとは。

 あまりに間が悪かった。

「警部。どうなさいました」

 部下の怪訝そうな声に、厳は意識を引き戻した。

「……いや、なんでもない」

 厳は椅子の背にかけてあったジャケットを掴み、無骨な手でそれを羽織った。生地の擦れる音が、決意を促すように響く。

 刑事としての職務と、父親としての配慮。その二つが胸の中で軋み、重くのしかかる。現場に行けば、当然息子たちと顔を合わせる可能性がある。せっかくのデートだ、無粋な真似はしたくないし、何より事件に巻き込まれていなければいいが。

 だが、プロとして私情を挟むわけにはいかない。

 厳は革靴の紐を固く結び直し、腹の底から声を張り上げた。

「行くぞ。車を回せ」

「了解」

 厳の低い号令とともに、フロアにいた捜査員たちが一斉に動き出し、鉄の扉へと殺到する。

 窓の外には、雲ひとつない突き抜けるような青空が、冷酷なまでに美しく広がっていた。

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