背徳のエンジニア
八重は、鏡を見るのも久しぶりだった。
髪は乱れ、目の下には深い隈ができている。
湊に抱いた複雑な想いに対処できず、直接湊と顔を合わせられなくなり、外にも出られなくなった。
長い間、家に閉じこもり、日の光も浴びていない。
面と向かって人と話した記憶はかなり前で、リモートアバター『エビスちゃん』として作られた陽気なキャラで会話しているだけだ。
本来の八重という存在はすっかり薄れ、自分の話し方すら、もう思い出せない気がする。
そんな日々の中、八重は再現中の高見聡一郎とのチャットベースの対話を繰り返していた。
AIとライフログから再構築されたその人格は、まるで本物のように受け答えをする。
そして、彼と話すうちに、八重は、ある可能性に気づいてしまう。
八重は震える手でデータを開き、ひとつひとつの記録を照らし合わせた。
その全てが、ひとつの真実を指し示している。
そして、答えに辿り着いた瞬間――
八重の頬を、ぼろぼろと涙が伝った。
震える唇から、かすれた声が漏れる。
「……これは、あかん。
あかんやろ……。今すぐに、止めな……」
その声は、久しく発していなかった自分の声だった。
◇ ◇ ◇
伊豆谷凪。
かつて、アイノリア社でアイウェアの開発を担っていたエンジニアだ。
彼が力を注いでいたのは、『現実と仮想のインタラクション』という領域。
アイウェア越しに見えるARの幻がまるで本物のように触れられる技術の開発だ。
そのために凪は、極小ドローンから放たれる超音波を利用し、空中にわずかな『触覚』を再現することに成功していた。
仮想から現実に、物理的影響を与えられる。
それは、まさに夢のような技術だった。
だが同時に、その研究は軍事転用の懸念も抱えていた。仮想から現実に攻撃ができるなら、仮想の戦士を戦場に送り込めばいい。
慎重な進め方を求める高見聡一郎の姿勢に、凪は次第に苛立ちを覚えるようになる。
そんな折、ARクラウドを開発するアルカディア社から凪に声がかかった。
それは、破格の待遇のヘッドハンティングだった。
――ただし、ひとつだけ条件があった。
アイノリア社の一部の情報を持ち出すこと。
凪は迷ったが、好奇心と野心が理性を上回った。
やがて、凪は密かにアイノリア社の情報を外部に流すようになる。
だが、その不自然な挙動に最初に気づいたのは――高見聡一郎だった。
決定的な証拠はなかった。
それでも、彼の鋭い観察眼は凪の異変を見逃さなかった。
疑念の目が向けられた瞬間、凪は悟った。
このままでは終わる。
露見すれば、警察沙汰は避けられず、アルカディアへ移る道も閉ざされるだろう。
追い詰められた凪は、ある計画を立てる。
疑惑を打ち消し、自らの正当性を示すための一手。
まだ聡一郎が自分への疑惑を公開していない、今がチャンス。
凪は、『研究成果のデモンストレーション』の口実で、聡一郎を屋上へと呼び出した。
未発表の実験成果を見せ、信頼を取り戻すためだと説明した。
――だが、真の目的は別にあった。
複数の小型ドローンの出力を、限界値まで引き上げる。
見えない力が一点に収束し、それはかなりのエネルギーを発生させた。
その結果、聡一郎は屋上の柵を乗り越えて落下――狙いどおりの結果となった。
後に現場検証が行われたが、遠くの小型ドローンの存在は確認されず、事故として処理された。
数日後、凪は静かにアイノリア社を去る。
そして――アルカディア社へ。
その後、アイノリア社から持ち出した知識と技術を武器に、凪はアルカディアのシステムそのものを再構築していった。
本来はアイウェアの基本機能であった位置取得手段も、凪は独自の方法で置き換え、アルカディアの独自の高精度機能として導入。
アイウェアの公開されていない潜在的な機能や、本来は閲覧不能なはずのライフログの元データまでも、彼の手の中にある。
アルカディアは最大のシェアを持つARクラウドへと成長し、彼は社内で確固たる地位を築いた。
同時に一部の者からは『危険すぎる存在』として恐れられることになる。アイノリア社のデータを売った者というレッテルも影響した。
そんなある日――凪は出会った。
アルカディア社長、大神正道の娘、奈実に。
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