黒いアニマ
湊は仲間たちと別れ、一人、帰路についた。
来週に迫るアルカディアeスポーツ決勝戦。その対戦相手は、女子だけで構成されたチーム――『タカミカグラ』。
そのリーダーを務めるのが、高見結日。
彼女はただのゲーマーではない。体操競技インターハイ個人総合優勝――そして、次のオリンピックではメダル獲得の期待も高い天才アスリート。
アルカディアでは、ゲーム戦術や連携も重要だが、AR空間における戦闘では身体能力そのものが勝敗を左右する。
そして結日は、その肉体性能において、間違いなく人類最強クラスのプレイヤーだ。
そんなことを考えながら、湊はコンビニに立ち寄る。
扉をくぐると、すぐにアニマの店員が明るい声で「いらっしゃいませ」と挨拶を寄越した。
しかし、湊がアイウェアを外せば、そこには誰の姿もない。
すでにほとんどのコンビニは、アニマ――AIによる仮想店員に切り替わっている。デジタル決済や商品説明を担当する彼らには、ロボットのような実体も不要だ。
アイウェア越しに見える彼らとは、普通に会話も成立する。お得なクーポンの使い方から、日常の相談にまで、美しい声音と完璧なスマイルで柔軟に対応してくれる。
加えて人件費はゼロ。不眠不休で、時には複数人に分身し、クレームひとつ言わずに働き続けてくれる。
「ミナト様、今日もお疲れさまです。最近は夜が少し涼しくなってきましたね。お飲み物は、いつもの冷たい緑茶ラテをご用意できますが……今日は温かいものがよろしいでしょうか?」
アニマの店員は、まるで人間のように柔らかな笑みを浮かべてそう言った。湊は苦笑しながら温かい緑茶ラテを選び、電子マネーで支払いを済ませる。
外に出ると、空はすっかり茜色に染まり、ビルの影が通りに長く伸びていた。
ここは少し寂れた裏通り――だが、アイウェアを通せば話は別だ。
虚空に浮かぶ立体広告が、まるで祭りのように賑わっている。
アニマの街頭ナビゲーターが商品を紹介し、通販グッズが光をまとって回転し、
『美味しい笑顔、ここにあります』
『高級感あふれるひとときを、あなたに』
――そんなキャッチコピーをささやくアニマたちが空間に溢れている。
どの商品も興味があればその場ですぐに購入でき、翌日には自宅に届く。もはや、現実の店舗など必要ないのかもしれない。
そのとき、ふと、耳に届いた歌声があった。
『もう二度と会えないけど
君の声を探してしまう
街の喧騒に耳をすませる僕は
届かないってわかっていても
歌い続けてしまうんだ』
路上の一角――少年がギターを抱え、切ないメロディーを歌っていた。
これは『シャドウアニマ』。誰かが登録した自分のARの分身が、代わりに路上ライブをしているのだ。
本人は体力も時間も使わず、家で寝ているだけで、分身はエンドレスのリピートライブ。
ギターの演奏は正確で、声も完璧。……本当に本人の声かどうか、その保証はないけれど。
それでも、その歌詞と旋律は、湊の胸を締めつけた。
――鈴音。
思わず、湊はわずかながらチップを提供した。
それは報酬というより、心のどこかを震わせてくれた者への、イイネのスタンプのようなものだ。
その瞬間だった。
湊は妙な感覚を覚え、アイウェアを外した。
……何もない。
賑やかな広告も、ライブの熱も――すべてが一瞬で消え失せた。
そこにあったのは、街灯がちらつく寂れた通りと、自分ひとりだけの静けさ。他には何もない。
再びアイウェアを装着すると、風景は元に戻る。
ライブ、広告、キャッチコピーを囁くアニマたち。仮想の光と音に包まれた賑やかな世界。
けれど、湊は気づいた。
その中に、ひとつだけ異質なものが混ざっていた。
――黒い人影。
まるで、光を吸い込んでしまう穴が空いたような黒。
人影の顔には目も口もなく、どこを見ているのかも分からない。
「……黒いアニマ」
あの時、武が言っていた。
「そいつに攻撃されると、リアルで怪我するらしい」
現実に干渉する、仮想の怪物。タケルの話では幼児ほどのサイズと聞いていたが、この人影は、自分より大きいかも知れない。
「――あ――あぅ――ぁし――な――ぁい……」
黒いアニマが何かを呟いている。
ひどく掠れ、壊れかけた古いラジオから漏れ出すような声。女性の声のようにも聞こえた。
やがて、その異形はAR広告に手をかけた。その手が、ぬるり、と広告をつかむ。
――ぐしゃっ。
黒いアニマは、現実空間の広告に手をかけ、砕き、口に運んでいる。
やがてそれは他のアニマにも手にかけた。
『美味しい笑がァ……ぉッッッ』
文字も音声も、ぐちゃぐちゃに壊れていく。
アニマを、食べているようにも見える。いや、あれは侵食。喰らって、取り込み、同化している。
そして湊は気づいた。
さっきより……黒いアニマは少し大きくなっている。
『もう二度と会えない、ア、会えナハヒケ……ケ……ォォォ……』
次に異形は路上ライブのシャドウアニマにも手をかけた。
シャドウアニマの姿が奇妙に変形し、細く捩れたパンのようになって取り込まれていった。
湊も戦慄を覚える。これは明らかにまともなアニマではないし、システムバグというレベルでもない。
「きゃあああっ!」
突然、悲鳴が響いた。
通りの向こうで、ひとりの女性がしゃがみこんでいる。
彼女のアイウェア越しにも、あの黒い怪物が見えているのだろう。
黒いアニマが、振り向く。
目などないはずなのに、それは――まっすぐ彼女を見ているようだった。
そして、ゆっくりと、確実に、女性に近づいていく。
女性は、足がもつれ、膝が震え、逃げるどころか、その場から一歩も動けない。
「……ったく。俺も、武のことを悪く言えないな」
湊は反射的に、彼女の前に飛び出した。その異様な存在から彼女をかばうように立ちはだかる。
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