桜の約束 -遠い日に咲いた言葉-
かつて交わした“再会の約束”を胸に、老いた男は春になると桜の木の下に通い続けていた。
時の流れに取り残されたようなその習慣は、やがて周囲の風景に溶け込み、誰も気に留めることはなくなる。
だがある春の日、舞い散る花弁のなかで、彼は“彼女に似た誰か”と出会う。
幻のようなその瞬間は、忘れていた記憶と想いを静かに揺り起こし、彼の人生にひとつの答えをもたらしてゆく――。
花弁が風に舞い、柔らかなその輪郭を描くように緩やかに地面に降りていく。
一枚の花弁が、空に向けた私の手のひらに、確かな存在を持ってふわりと舞い降りた。
幻のようでいて、確かな存在感を持つその花弁。温もりすら感じる気がして、私は微笑む。
なんて優しい、なんて穏やかな桜色だろう。
そして、指先ほどしかないこの花弁が、こんなにも大きく心を満たすとは。
手のひらから視線を上げると、満開の桜が枝を大きく広げていた。
枝の隙間から漏れる春の光が、まるで懐かしい記憶を照らすかのように温かい。
今は桜が一番美しく咲き誇る季節。
その美しさの前に言葉は多くいらない。
ただ、私はそれを美しいと感じる、それだけでよかった。
そんな情調を感じる毎日、
木漏れ日が眩しく、そよ風が頬を撫でるこの日、私はいつも桜の下に立っていた。
この木の下にいると、今でも蘇る声がある。
“もし離れ離れになっても、この木が一番綺麗なときに、ここでまた会おうね”
五十年以上前の会話。
あてのない、約束。
ふとある時私はこの約束を思い出し、今では十年以上、私はこの桜の木の下に通い続けている。
だが、待ち人は一度も姿を見せなかった。
ひょっとしたら、既に相手が死んでいてもおかしくない。
「もう、この桜も終わりだな……」
老いた指で、手のひらの花弁をそっと摘み、地面の仲間たちのもとへ返す。
独りぼっちは寂しいだろうと、そんなふうに思ってしまう自分に、苦笑した。
……まったく、何をやっているんだか。
こんなにも老いぼれた体で、いったい何を期待しているのか。いや、分かっているのだ。彼女が来るわけがないことくらい。
それでも、私はここに立ってしまう。
私が通い始めた前に、彼女は既に来ることを止めてしまったかもしれない。
そもそも、通っていなかったかもしれない。
そんな考えが胸を締め付ける。
だけど、もしかしたら、、もしかしたら、、と思ってしまう自分が今でもいる。
人を信じるというのは、こんなにも厄介で、愛しいものなのだろうか。
そのとき、気配がした。
ふと顔を上げると、そこには——
夢を、見ているのだと思った。
長く美しい黒髪が、春風にそよぐ。
桜色の頬、形の良い唇に浮かぶ微笑み。
白いワンピースに包まれた、すらりとした細い体。
最後に別れたあの時のままの彼女が、私の目の前に立っていた。
「まさか、、」
「修平さん」
同じように、彼女は私の名を呼ぶ。
信じられない。
頭の中はその言葉で埋め尽くされていた。
「かおるこ、か?」
彼女は返事をしないで、優しく微笑んだだけだった。
「まさか、こんなことが……」
もう五十年以上の月日が過ぎているというのに、彼女には老いた姿を微塵も見受けられない。
あのときの若いままの、私が愛した彼女が居る。
「修平さん、お元気そうね」
そうだ。
彼女はいつもこうやって私に言葉を掛けてくれていた。
二日開いただけだったとしても、いつもその言葉に笑みを添えて。
「ほんとうに……私は、夢を見ているのか……」
彼女に向かって震える手を差し伸べかけたとき、彼女の温かい笑みに陰りがさした。
「ごめんなさい、もう行かなくちゃ……」
「待ってくれ! 少しでいい、ほんの少しで良いんだ!」
「ごめんなさい、修平さん」
私の制止の声が届かないかのように、彼女は背を向けて歩き出してしまった。
追いかけたくとも、私の足がまるで地面に縫い付けられているようにピクリとも動かないのだ。
見失ってしまう……!
悲痛な思いで、私は声を張り上げた。
「明日もここで待っているから! お願いだ、もう一度……!」
声が届いたのかは分からない。
私の言葉が終わらないうちに、彼女の後姿は風に舞うように見えなくなってしまった。
——彼女との別れは、些細な喧嘩からだった。
それまで、意見の食い違いから起こった喧嘩ももちろんあった。
だが、いつもどちらからともなく頭を下げ、何事もなかったように接することが出来ていた。
情けないところも、気取ったところも、利点も欠点も、彼女の前に晒すことは恥ずかしくなかった。
彼女も同じように私に見せてくれたと信じている。
一生涯を共に出来る相手だと、信じて疑わなかった。
ただ、いつもは素直に謝れるはずがお互い譲らず、結局意地の張り合いになってしまったことを思い出す。
どうしてあの時に彼女を追わなかったのだろう。
あのとき私がもう一歩、素直になっていれば——。
そんな悔いは数え切れないほど反芻した。
その後、仕事の忙しさを理由にし、気がつけば彼女と連絡を取ろうという行動もしないまま
何年もの時間が経っていた。
仕事に全てを捧げ、無心で働いた。
そんな中、いつまでも結婚をしない私を心配した両親に薦められて見合いをし、所帯を持った。
当時の私の心の底に、彼女の残り火があったのは確かだが、
妻は、何も言うことなく私を支えてくれた。
ひょっとしたら、私の心の底も全てわかった上で、私と一緒になってくれたのかもしれない。
ふと、ある時妻と出会う前の私の話をしようとしたことがある。
だが、妻は静かにそれを遮って
「いいんですよ、そんなあなたのことが好きなのですから」
と一言だけ微笑んだ。
妻への愛情も、自分の血を引く子供への愛情も、誓って本物であった。
実際、本当にいい人生だった。
子供は期待以上に勉学に力を入れ、医者になるんだと上京していった。
妻は家を守り、子供と共に数えきれない思い出をくれた。
だが、十数年前に眠るように逝ってしまった。
そして私は、誰も居ない、ただ思い出が詰まった家で一人、静かに流れる時間を過ごすだけになった。
自身の記憶と対話する中、楽しかった妻や子たちとの思い出とは別の後悔の記憶。
今さら、会って何をどうしたいというわけではない。
ただ、彼女のことを胸に秘めたまま、誰にも打ち明けることなく、このまま死んでいくのだろうか。
ということを考えると、老体にも湧き上がる力が湧いてきた。
それから、毎年のように季節になると桜の下へ通った。
そして、私はついに薫子と再会したのだ。
夢だったのだろう、と何度も思い直した。
だが耳にした声は鮮明で、到底夢だと思い切れなかった。
そして私は今日もまた桜の下に向かう。
桜を背に立っていると、彼女が現れないような気がして、私は桜を見上げたままで待つことにした。
それは夜、眠れない頭で考え付いた理由からだ。
彼女は、人ではないものだったのかもしれない、と。
そうでなくては、あの若いままの姿だった理由が付かない。
私はこんなにも老いぼれてしまったのに、彼女はどうだ。
だが、そう考える反面、人ではない、何か別の存在でも構わないと感じたのも事実だった。
そんな姿になっても、私の前に姿を現してくれたことが、素直に嬉しかった。
私も当時のように声を掛けてみようと思う。
彼女がそうであったように。
「修平さん、お元気そうね」
背中に声が触れて、私はゆっくりと振り向いた。
やはり彼女は若く、美しいままだった。
「薫子も元気そうだな」
私の返答に、彼女は少し、戸惑いの色を見せた。
昨日のうろたえぶりとは打って変わって、落ち着いているからだろう。
一晩という時間が、私を冷静にさせてくれたのだ。
「良く、分かったね。私はこんなにも……老いぼれてしまっているのに」
「そんなことないわ。何も、変わってない」
「薫子の方が何も変わってないさ。若く、美しいままで……」
来てくれてありがとう、と続けると彼女は少しだけ肩を竦めて微笑んだ。
お互い向き合って立ち尽くしたまま、なんと言葉を続けてよいか分からず黙っていた。
こんな事も、昔は良くあった。
「よく覚えていてくれたんだな」
「約束、したでしょう」
この木が一番綺麗なときに……。
あれは約束だと思っていて良かったのだ、と許された気分がして私は無性に照れくさくなった。
そうでなくとも、当時のままの彼女を目の前にしているのだから、僅かに滲む緊張を悟られまいかと心配ばかりしているのに。
ふと、私は彼女の手元に気がついた。
前で指先だけを絡ませている。
そう、ほんの小さな小さな仕草に、私は雷に全身を貫かれたような衝撃を受けた。
過去の2人で笑いながら話していたあの時の記憶、、薫子の言葉が、仕草が鮮明によみがえる。
「違う……」
「修平さん?」
「違う、君は薫子じゃない」
その一言に、彼女の顔には狼狽の色が濃く浮かんだ。
私の言葉が正しい動かぬ証拠だ。
「君は一体……」
「どうして、分かったんですか?」
私の問いかけに、彼女は答えなかった。
肩を震わせ、視線を地面に落としてしまった。
「薫子は……立っているときに指先を絡めないんだ。指先は重ねるだけで……親指同士をこうやって、動かして……」
私は覚えている彼女の癖を再現して見せた。
彼女は困ったような笑みを浮かべて、そうね、と短く言葉を紡いだ。
「良く、覚えていらっしゃるのね」
「自分でも、驚いた」
「……騙してごめんなさい。気分を、悪くされたでしょう?」
「いや、そんなことは……」
確かにだまされたのは事実だが、怒りは一切なかった。
心の中は凪いでいて、むしろ清々しささえ感じるようだった。
「私は、薫子の孫の柚月といいます。祖母は、貴方に合わせる顔がないと……」
目の前に立つ彼女、柚月は、本当に薫子と瓜二つだった。
些細な癖に気がつかなければ、きっと私は彼女は薫子だと信じたままだったろう。
「彼女は……薫子、、薫子さんはお元気ですか?」
「はい、なんとか」
柚月はぽつり、と話し始めた。
私がこの桜の木の下に通っていたことを、同じようにある時から桜の様子を見に来始めた薫子は気がついていたらしい。
彼女も私と別れた後、同じように両親の薦める見合いをし、家庭を持った。
だが、私への思いが心の中に残っていたそうで、
ひょっとしたら、自分が待っていてくれるかもしれない。
結婚をしてからも、ふとそんな思いがよぎることがあったそうだ。
しかし、夫や子供たちに後ろめたさを感じ、桜の木を覗きに来ることはなかったそうだ。
早くに夫が事故で他界し、女手一つで子供を育てていく事は、決して楽なものではなかった。
桜の木に行くことで、その重圧から責任から逃げてしまうことになると思う。
そして何より、自分がいなかった時のことを考えると行く気になれなかったのだと。
薫子から話を聞いた柚月は語る。
だが、あの時の約束が、当時の祖母の心の支えになっていたと柚月は感じたそうだ。
「だからね、私とお母さんで言ったんです。そんなに後悔してるなら、桜の様子見に行ったらって」
それから、薫子も私と同じように毎年桜の様子を見に来るようになったのだと。
「ということは、薫子さんは、、でもそしたらどうして私の前に現れてくれないのですか」
「いえ、実際修平さんのお姿を見つけて、この数年どうしようとなんども迷っていたみたいなのですが、昨年骨折しまして車イスのお世話になっておりまして、、。修平さんに合わせる顔がないと……」
「そんな、私はそんなことまったく気にしないのに」
「修平さん、私がいうのもなんですが、女性はね、いつまでも乙女なんです。
祖母は、あの時のままであなたに会いたがっていました。
なので、私が一役買ってあなたの目の前に現れたというわけなんです」
「本当にビックリしたよ。本当に瓜二つで、、」
柚月はそうでしょう、そうでしょうとほほ笑む
「修平さん、祖母に今でも会いたいですか?」
ふと、彼女の視線が私を覗き込む。
私の心を試すかのように、まっすぐ意思を持った瞳。
私は、ずっと胸に抱えていた想いを持ったまま彼女を見つめ返した。
「会いたい」
数秒、もしかしたら何分間だったかもわからない時間の後、
柚月の視線が、私を誘導するように右側に移動した。
そのまま、ゆっくりとほほ笑む柚月。
「ありがとう」
気がつくと、年取った体に鞭打って、私は走り出していた。
確信ではなかったが、完全に否定する材料もなかった。
ただ、必死にもつれそうになる足を何とか持ち直して、走った。
広い公園を横切り、ベンチの並ぶ一角。
距離にすればたいしたことはない。
しかし年のこともあり、私は肩で息をしていた。
走っている姿はさぞかし不恰好であったろう。
しかし、なりふり構っていられるような状態ではなかったのだ。
「どうして……」
目の前の彼女は、震える唇で何とかそう言った。
真っ白になった髪は艶を失い、こけた頬には深いしわが刻まれている。
細く骨と皮ばかりになった手足に、体に対して大きく感じる車椅子……。
「薫子……」
大きく見開かれた双眸から、涙が溢れて頬を伝った。
「修平さん」
私は力いっぱい、薫子を抱きしめていた。
そして、私もとめどなく涙を流していた。
「どうして、どうして……」
繰り返される呟きは、やがて泣き声に変わり、啜り泣きになった。
細い肩からは彼女の長年の苦労が伺えた。
だが、彼女の持つ温かさに変わりはなかった。
「お孫さんがね、君のほうを目で教えてくれたんだよ」
お互いの涙が収まって、私は薫子の傍のベンチに腰を下ろした。
薫子は泣きはらした真っ赤な目で私をじっと見つめていた。
私も同じように真っ赤な目をしているのだろう。
「……覚えていてくれて、本当にありがとう」
また涙が浮かんだのか、薫子は指先で目尻を拭い微笑んだ。
「修平さん、ごめんなさいね」
「何を謝るんだい? お孫さんのことなら……」
「いいえ、違うの。……覚えてないかしら、私たち喧嘩をしたでしょう?おかしな話かもしれないけど、ずっとずっとそれが今でも心の中に残っていて、、だから仲直りしましょう?」
今まで生きてきた中で、これほどまでに優しく、温かい言葉を私は知らない。
「僕のほうこそすまなかった。本当にすまなかった」
私は彼女の手を取って、何度もお礼を言い続けた。
それから、私たちは今までの時間を取り戻すように話をした。
日が暮れる頃、柚月が声をかけに来るまで、それこそ時間を忘れるように。
季節はめぐり、また春が訪れた。
私はまた桜の下に佇んでいたが、もう薫子が現れることはない。
私たちが再会を果たした数ヵ月後、風邪をこじらせてあっけなく薫子は旅立ってしまった。
「貴方に会えて、祖母は本当に後悔なく逝けました」と柚月が話す。
そして薫子が愛用していたという、小さな手鏡を形見分けとして戴いた。
私は、この桜の下に来るのも今日で最後にしようと決めていた。
待ち人はもう現れない。
ただ、最後にもう一度だけこの木を見ておきたかった。
遠い昔と今を繋げてくれた桜の木を。
“もし離れ離れになっても、この木が一番綺麗なときに、ここでまた会おうね”
老木は変わらず、いっぱいに花を抱え、さわさわと揺れていた。
いつまでも、いつまでも、、。
完
※挿絵は本文を元にChatGPTで出力したイメージビジュアルとなります