ネモフィラの花をあなたに
よろしくお願いいたします。
「リサ、すまないな。アーニャが動けたらよかったのだが」
私の隣を歩く兄さまが申し訳なさそうに言うけれど、私は頭を横に振った。
「ぜんぜん。今はお義姉さまも無理はできない時期ですし。私としてもむしろ渡りに船です」
私はそういって兄さまが持ってくれているかごを見て目を細めた。「それに王都にも一度は来てみたかったですし」
そういって、あたりをきょろきょろと見渡す。
完全にお上りさんだ。
それも仕方ないだろう。
数年前まで王都の王城内で宮勤めをしていた兄はともかく、ずっと領地に引きこもっていた私は王都に来るのも―――そもそも領地を出るのも生まれて初めての経験だったのだから。
今回、兄さまがパートナー同伴で宮廷晩餐会に招かれたのだけれど、兄さまの奥方であるアーニャ様がつい先日出産したばかりで遠方への移動がかなわず、母も兄の留守を領地で守るため、妹の私が代理で同伴することになったのだ。
去年、父さまが病により身罷られ、予定していた私のデビュタントも延びていたので、今回はそれとなく私のお披露目も兼ねている。
家族は、一年間の喪が明ければちゃんとお披露目しようね、と言ってくれているけれど、私は特にそれを望んではいない。
とにかく兄さまをはじめ家族はみんな私に甘いのだ。ありがたいけれど。
「お前にも学園生活させてやりたかったんだけどな」
兄さまは遠くを見ながらつぶやくけれど
「学園には通いませんでしたが、素晴らしい先生をつけてくださったので私は十分学べましたよ」
私は苦笑いした。
「まぁ、エビアン先生は文句なく才媛だからな。よくお前の家庭教師についてくださったと思うよ」
兄さまは頷いて、それからふと私を見た。「バスク様が、喪が明ければずっと延ばしていた話を進めたいと申し出があったよ。長く待たせてすまなかったな。お前も、シリルも」
兄さまがポンと私の頭に手を置いた。
それこそ私は首を横に振る。
そしてまた私は兄さまの持つかごの中身を見て目を細めた。
それにはバスク様から預かったものや、私が作ったお菓子などが詰められている。
今向かっているのは、バスク様の長男であるシリル様の宿舎だ。
アシュビー伯バスク様と私たちのお父様が親友で、領地も近いことからシリル様とは幼いころからよく遊んだ。
私よりも兄さまのほうが年が近いこともあって、シリル様と兄さまのほうが仲良く、二人でやんちゃな遊びをたくさんしていたけれど、でも同時に二人でたくさん私のこともかわいがってくれた。
『リサ、大きくなったら僕と結婚して』
シリル様は私にシロツメクサの冠を作ってプロポーズしてくれた。それは私が8歳、彼が12歳のときのこと。
私の家族も彼の家族も手放しに喜んでくれた。
私が17歳でデビューしたら婚約をして1年後を目安に結婚する予定にしようと話がすんなり決まってしまうくらいに。
彼はその後学園に進み、卒業後に騎士団に入団した。
離れてしまってもまとまった休みには会いに来てくれたし、毎月私の誕生日の数字の日には手紙とちょっとしたプレゼントを贈ってくれた。
私もこまめに彼に手紙を書いて送ったし、毎月彼の誕生日の数字の日には贈り物をした。
婚約できる日を楽しみにしてた。二人とも。
その矢先に私の父さまが病に斃れた。
医師からは手の施しようがない状態だと余命宣告をされ、王都で文官として働かれていた兄さまに急遽戻ってもらい、予定よりも早く父の跡を継いで伯爵家の当主になってもらった。
そして当時婚約していたアーニャ様と予定を繰り上げて結婚式を挙げた。
父はそれを見届け安堵した顔で旅立っていったけれど……。
この一年は兄さまやアーニャ様は本当に大変だったと思う。優秀な兄さまなのでそつなく回せているけれど、アーニャ様は結婚してほどなくして妊娠がわかり出産して、と本当に目まぐるしかっただろう。
私のデビュタントや彼との婚約が一年延びるくらい全く問題がない。
それにこの延びた一年だって、私たちはちゃんとつながっている、そう思っていた―――のに……。
シリル様の宿舎に着いて、兄さまが玄関先のノッカーをコンコンコンと叩いた。
どきどきと私は兄さまの隣で逸る胸を押さえて中の様子を耳を澄まして窺った。
しばらくしてぱたぱたと軽快な足音が聞こえてきて
「はぁい。どちら様ですかぁ?」
甘い声音の女性が扉を開けて首を傾げた。
見知らぬ女性に私も兄さまも一瞬固まった。
しかしさすがの兄さまはすぐに
「ここはアシュビー小伯爵の住む家ではなかったか?」
彼女に尋ねた。
彼女はぱあっと顔を笑顔にして頷く。
「はい。シリル様の住まいです」
苗字ではなく、下の名前で呼ぶ彼女に私の心がぎくりと音を立てた。
この人は、だれ?
「今シリルは?」
兄さまが尋ねると
「シリル様は今朝緊急討伐に呼ばれて出動されました。お戻りは討伐が終わり次第と聞いていますので確実なことは言えません。あの、お客様はどなたでしょう?」
彼女が答え、そして兄さまと私を見て首を傾げた。
「私はキャロワ伯ネイト。シリルの幼馴染だ。こちらに来るにあたりシリルの両親から荷物を預かってきたのだが……」
兄さまが持っていたかごを掲げる。
彼女は心得たように手を出した。
「お預かりいたします」
しかし兄はその手にかごを預けるのをためらった。
「君は誰だい? ここで何を?」
兄が努めて笑顔で尋ねると、一瞬彼女は顔を赤らめた。兄の顔は妹の目から見ても整っているので、彼女に限らず兄の顔を見て頬を赤らめる女性は割と多い。
「私はモンナ・オセアン、士爵家の三女です。ここでシリル様の留守を守ってます」
彼女は照れたように恥じらいながらはっきりといった。
兄さまもその名を聞いて
「退団されたオセアン副団長のお嬢さんでしたか」
と頷いた後、「シリルとはどういう関係ですか?」
ズバリと尋ねた。
彼女はさらに頬を赤らめ
「その、将来を沿う仲です」
そういった。
ぴしり。
私の中で何かが破けた気がした。
「……アシュビー伯は君のことをご存知ないようだが?」
兄さまが慎重に尋ねる。
彼女はもじもじしながら
「近くご挨拶に伺えたらとは思っているのです。……子ができる前には」
そっと腹部を押さえながら恥じらうように視線を逸らせた。
……子が、できる―――。
足元がぐらぐらと揺れる気がした。
「そうか。シリル本人とも話がしたかったが、どうやらお邪魔のようだな。これを」
兄さまはかごを彼女に預けると私の背をすっと支えてくれた。
失礼する。
兄さまは彼女にそう言って私を支えてその場から私を引きはがしてくれた。
いったいどう歩いたのかわからない。
タウンハウスに戻ったとき、兄さまはまっすぐに私の部屋に私を戻してくれてソファに座らせてくれた。人払いし、手ずからお茶を入れてくれる。
「よく我慢した。もう我慢しなくていい」
兄さまは私の手のひらに温かい茶器を載せるとゆっくりと頭を撫でてくれた。
手に包んだティーカップから伝わる温かさと、兄さまの手のやさしさが、マヒしていた感情を少しずつ解してくれる。
ぽたぽたと私の目からしずくがこぼれた。
静かに、ただ静かに涙だけがぽたぽたと零れ落ちる。
「―――去年くらいから毎月いただいてたお手紙の頻度が少なくなって、最近もさらに減ってはきていたのです。昇進されて忙しくされているとあったので、大変なのだろうと思っていたのですが」
彼の実家であるアシュビー家への便りも減ってきているとバスクさまがぼやいていたので、本当に忙しいのだろうと思っていた。
しかし、実際は忙しかっただけではなかったのだ。
「……リサは、どうしたい? 彼女は騎士爵家の三女と自分で言っていた。それが本当なら身分差的に彼女はシリルと結婚はできないが」
兄さまが額に手を当てながら私に尋ねる。
私は肩をすくめた。
「二人に身分差があったとしても。私は子どもから父親を奪う気はありません」
私は呟いて、少しぬるくなったお茶をゆっくりと飲み込んだ。「もともと口約束のみの婚約者候補です。正式な婚約を結んでいたわけでもない。私の初恋が終わっただけです。お兄様」
私はそういって、親指の腹で涙をぎゅっとぬぐった。
家同士の口約束だけで書面があったわけでも何もないのだ。
ただあの時の口約束があったからバスク様は私に筋を通そうとしてくれているだけで。
「……わかった。バスク様には私からお断りのお手紙を出そう。今日はもうゆっくりお休み」
兄さまは私にそう言って、おでこにそっとキスをして離れた。
「ありがとう、兄さま。兄さまが一緒でよかったです」
きっと一人だったら何も聞けずに走り去ってた。もっとみっともないことになってただろう。
私はお兄さまにそっと微笑んで、おやすみなさいとあいさつをした。
一人になって私はソファで膝を抱えて小さく丸くなった。
自分で自分を抱きしめる。
目を閉じると大好きな彼の優しい笑顔がすぐそこに思い出せるのに。
私の16歳の誕生日、休みが取れたからと会いに来てくれた彼は、私にきれいな彼の瞳の色の青色の石がついたネックレスをくれた。
私はそのネックレスを彼につけてと頼んだ。
子どものころは柔らかかった彼の手は、まじめに訓練を積んでいるのだろう、とても硬くてたくさんの剣だこができていた。
華奢な鎖に悪戦苦闘する彼をほほえましく思いながら、私はそっと髪を片側に寄せて自分の首を差し出した。そんな私の姿に彼がぐっと息をのんだ。
私の首にネックレスをつけ終えた彼は、そのまま私のうなじにキスをした。思いがけない感触に私の背中が震え、彼に背後から抱きしめられた。
すっぽりと彼の体に包まれて
「リサ、好きだよ。君が成人を迎えたらすぐに結婚したい。婚約期間なんて設けたくない」
私の耳元で熱く彼がささやいた。とてもうれしかった。
私は後ろに振り返って彼を見上げた。「よかった。似合う」ネックレスを見てうれしそうに微笑んだ彼に大好きがあふれて、私も自分から抱き着いてしまった。
正式に婚約を結んだわけではなかったけれど。
ずっと互いに気持ちはちゃんとあったからぎゅうっと抱きしめあう。
額に、頬に。
彼の唇を感じそっと目を開けると、彼が真剣に私を見ていた。
「リサ、好きだ」
私の唇を彼の親指がたどるように撫でる。
「私も、好き」
私は目を閉じて彼のキスを受け止めた。
あの日から会えばキスを重ねるようになった。
服の上から体に触れられることはあったけれど、彼の手は決して服の中に入ることはなく。
彼は私の貞操をちゃんと守ってくれていた。
なのに。
彼に子どもが生まれるのだという。
私には最後まで触れることはなかったのに、彼女には触れたのだ、そう思うと悔しくて悲しくて。
大好きだった。本当に大好きだったのに。
泣いて泣いて、私は膝を抱いたまま眠った。
目が覚めると、私はベッドに横になっていた。
目元には冷えたタオルがあてられている。
服も、ドレスは脱がされて下着姿だ。
でも泣きすぎたせいで頭が痛む。
手で頭を押さえていると侍女のカヤが静かに入室してきた。
ベッドの上で起き上がっていた私を見て、ほっとしたように口元を緩めた。
「おはようございます。リサ様。レモンミント水をのまれますか?」
聞かれて頷く。
「いただくわ」
ほどなく差し出されたそれをお礼を言って受け取った。
ゆっくりと清涼感と酸味のある水を嚥下して、私はカヤを見上げた。
「ドレスを脱がしてくれたのはカヤ?」
尋ねると彼女は困ったように微笑んだ。
「ネイト様がベッドに運んでくださったので、私がそのあとのことをいたしました。……朝食はどうされますか?」
夕べ私に何があったのか聞かず、ただ労わってくれるカヤにありがたい。
私は世話をかけたわと小さく言うと、リンゴを少しだけ食べると告げた。それ以上は欲しくなかった。
朝からではあったけれど、風呂にぬるめの湯を用意してもらってゆっくりと浸かる。
お風呂から出た後は図書室で本を読んで過ごした。
カヤが、兄さまが私に会いたいと言っているがと伺ってきたので、私は本を閉じそれに応じると伝えた。
兄さまには昨夜ベッドに運んでもらった礼を言わねば。
居間に行くと兄さまがソファに座って手紙を読んでいた。
やってきた私を見て少し目元を緩める。
「話をしてもいい?」
尋ねられ私は先に
「兄さま、昨夜はお手間を取らせ申し訳ありません。ありがとうございました」
頭を下げた。兄さまは苦笑いして謝る必要はない、そういってソファに促される。
私が座ると、執事のレイモンドが私たちの前にお茶を並べる。
どこまでもできた執事だ。
そして侍女たちは下がり、レイモンドだけが扉の前に控える。
「さきほどバスク様から手紙が届いたよ。今朝王都に到着されたようだ。午後、お茶の時間に面会したいと申し出があった。私は会うけれど、君はどうする?」
問われて私は頷いた。
「お会いします」
どういうお話になるかはわからないけれど、いや、わかってはいるけれど、私も関係のある話なのだ。
ちゃんと自分でも知ってお行きたい。
だから兄さまは私にも声をかけてくれたのだ。
私の返事に兄さまは頷いてレイモンドを見やった。
レイモンドも頷き、兄さまは私を見た。
「リサ、私はリサに自分自身を大切にこれから生きてほしい。家のことも何も心配しなくていい。爵位を継いだばかりの私が言うことではないけれど、お前には一人の人として心を大切に生きてほしいんだ」
兄さまの優しい言葉に、もう泣ききったと思ってたのに、私の目じりからまた涙がこぼれる。
「ありがとうございます。兄さま」
貴族令嬢として生まれている私に、その役目をしなくていいと言ってくれているのだ。
本来ならしかるべき家へ黙って政略結婚をするのが筋であるというのに。
「お言葉に甘えて、もう少しだけお兄様の妹でいさせてくださいませ」
私は頭を下げた。
時が来れば、ちゃんと貴族令嬢としてふるまうようにするから。それができないなら修道院でも市井でも下って家に迷惑をかけないようにするから。
だからそれまで。
「―――リサ、君は一生私の妹なんだからまるで消えそうな言い方はやめてくれないかな」
兄さまが苦笑いするけれど私は肩をすくめただけだ。
午後、お約束の時間通りにバスク様が奥様であるベシー様と一緒に我が家に見えた。
その顔はひどく困惑した様子だった。
ある種異様な空気だったけれど、侍女たちは静かにお茶を用意すると、すっと部屋から下がった。レイモンドが一人扉口にたたずむ。
バスク様もベシー様もまず私たちに謝罪した。ただ、二人も王都に着いてすぐにシリル様の宿舎に行かれたそうなのだが、家は完全に留守でシリル様にも彼女にも会えなかったのだという。
「リサ嬢には申し訳ないが、私たちが事実確認できるまで結論を決めずに待ってもらえないだろうか?」
バスク様の申し出はもっともだと思う。
兄さまが私を見たので、私も頷いた。
「承知しました」
私たちの返事に、バスク様もベシー様もほっとしたように胸をなでおろす。
「騎士団に問い合わせたのだが、シリルが戻るにはもう少し時間がかかるということだ。戻り次第本人に話を聞くから」
バスク様は頭を抱えて息をついた。
それもそうだろう。生真面目なシリルが自分たちのあずかり知らぬところで女性と懇意にし子までなしたというのだから。
二人はお茶を飲むと、それ以上の言葉はなく、早々に我が家を出た。
私たちも引き留めはしなかった。
私たちもまた持てる情報は少なく、困惑したままだったのだから。
そうして事態が進展することはなく、晩餐会の日がやってきた。
朝から私は湯あみをしたり肌を整えてもらったりと忙しい。
時折母の準備の様子を眺めたことがあったけれど、実際自分が体験してみるととても大変だった。
化粧も髪型もいつもよりもずっと念入りに施され、初めて袖を通す首回りが開いた豪奢なドレスに私の気持ちも自然と引き締まった。
ドレスの色はシルバーに近い灰色。まだ喪中ということもあり色味は抑えている。
アクセサリは自分の瞳のアメジストのものをそろえた。
……最初は彼の色である青い石にしようと思ったのだ。領地で準備をした時には。
しかし、今は青い色を身に着けるのは憚られた。気持ち的に。
なので、自分の色を身に着ける。
そうして出来上がった姿に私は驚いた。
いや、ちゃんと私だ。
髪型はすっきりと美しく結い上げられて、化粧も華美になりすぎていない。もっときついイメージになっていたらどうしようと思っていたがそんなことはなく、ちゃんときれいなのだ。
「ありがとう」
準備してくれた侍女たちに礼を言うと彼女たちは満足そうに頭を下げた。
「お、可愛い! いや、美しいな、わが妹は」
玄関先で燕尾服に身を包んだ兄さまが目を見開いた。「あんな小さいと思ってたのに。ああ、今は小さなアリスもいつかこんな風に大きくなって私は見送ることになるのか? 辛いな」
兄さまは領地を出立する前に生まれたばかりの自身の娘を思い出したのだろう。複雑そうに胸を押さえる。
突然父の顔になって遠い未来を心配しだす兄さまに私はつい笑ってしまった。レイモンドも苦笑いを浮かべる。
「その日が来ても平気なように、領地に戻られましたらしっかりと日々目に焼き付けてくださいな」
私が言うと兄さまは苦笑いした。
「そうだね。でも同時にわかっているんだ。後悔の無いよう目に焼き付けても、きっとその日が来たらそれでも寂しくなるんだろうなって」
兄さまはそう困ったように肩をすくめて、それから私の手を取った。
ちらりと見えたカフスボタン。それは義姉さまの瞳の色をした緑だった。
ここに義姉さまは来れなくてもちゃんとお二人はつながってるんだな、そう思うと私は嬉しくなった。
さりげないことだけれど、でもちゃんと政略結婚以上の気持ちを持ち合ってる兄夫婦をうらやましく思った。
順番に馬車を降りると、ホール前で王太子殿下夫妻が来客を迎え入れてくださっていた。
私たちは最上礼をしてご挨拶する。
「子が生まれたそうだな。おめでとう。ネイトも元気そうでよかったよ」
学園時代に王太子殿下と同級生だったという兄さまは、はにかみながら笑って、そして私を殿下に紹介してくれた。
「妹のリサです。アーニャが出席できないため代理で付き添ってもらいました」
「リサ・キャロワです」
私が挨拶をするとお二人ともうれしそうに微笑んで
「さすがネイトの妹、美しいな。リサ嬢、よく来てくれた。今日は楽しんでいってくれ」
中へと促された。
王城のホールは人であふれていた。
案内待ちをしていると、バスク様夫妻が手を挙げてきてくれた。
今のところは現状維持な状態なので、これまでと変わらず私も兄さまもにこやかに挨拶をする。
「まぁまぁ! きれいな子だと思っていたけれど、着飾ると本当きれいね!」
ベシー様が私を見て嬉しそうに目を細めた。
「恐れ入ります」
私が頭を下げると
「ネイト、あなたこれは明日の朝から大変なことになるわよ?」
少し寂しそうに兄さまに言う。
兄さまは苦笑いして
「覚悟はできてますから」
ベシー様に頷いた。
何の話をしているのだろう。兄さまが今日から社交界で本格的に動き出したそのことだろうか?
「本当なら今日までにまとめておきたかったのだがなぁ」
バスク様が困ったように肩をすくめた。
兄さまは苦笑いして私を抱き寄せる。
そのとき
「キャロワ卿」
腰に響くようなバリトンボイスが響いた。
兄さまが嬉しそうに顔を上げる。
「グリーン閣下。ご無沙汰しております」
兄さまはその人のほうを向いて一礼して、それからくすぐったそうにはにかんだ。「閣下、どうか私のことはこれまでのようにお呼びください。閣下に敬称付きでと呼ばれるとむずむずしてしまいます」
兄さまが肩をすくめると、その人も響く声音でくつくつと笑い
「お互い様だ。貴公に閣下と呼ばれるのも違和感しかない」
二人で笑いあう。
慣れ親しんだ空気がそこにあった。
その人は嬉しそうに兄を見て
「子が無事に生まれてよかったな。おめでとう」
優しい目で兄に祝いの言葉をくれる。
「ありがとうございます」
兄さまは慣れた感じで話をしてるけれども、私はグリーンという名字を聞いて背筋が改まりましたが。
兄さまは数年前まで王宮内で文官をしていた。
内務省で勤めていたといっていたけれど、その実は宰相補佐官だった。
この方はその時の兄さまの上司。つまり―――宰相本人だ。
兄さまは昔の上司に気さくに近況報告を続ける。
「娘はアリスと申します。その節は娘に誕生祝をくださりありがとうございました」
兄さまはそうお礼を言って、それから「妹にグリーン様を紹介しても?」彼に尋ねた。
「もちろん」彼は嬉しそうに私を見た。兄も促されるように私を引き寄せる。
「グリーン様、私の妹のリサ・キャロワです。リサ、この方は宰相を務められているマクシミリアン・グリーン様。私の上司だった方だよ」
「はじめまして。リサ・キャロワです。兄がお世話になりありがとうございました」
私がカーテシーをすると彼は嬉しそうに頷いた。
「キャロワが宮勤めの時によく君の話を聞いていたよ。話を聞いているとまるで妖精かなと思っていたけれど、やっと実物と会えた。ちゃんと実在していてよかったよ」
彼はそういってくすくすと笑う。
……兄さま、何を言ったんですか?
これは後で要確認案件ですよ?
私が困った顔で隣を見上げると、兄さまは肩をすくめて
「そんな変な話じゃないから大丈夫」
落ち着いて、と手で合図した。
そんな私たちのやり取りに宰相閣下はくすくすと笑って
「ああ、どうやら案内が始まるみたいだ。また会おう」
手であいさつをして中に進んでいった。
私たちも案内を受けて中に入る。
晩餐会は厳かに、そして和やかな場だった。
国王陛下のあいさつに始まり乾杯をして―――。
ふるまわれた料理はどれも素晴らしかった。
コルセットの締め付けがなければもっと食べたかったと思うほど。
私と兄さまは左右に座られた方とも言葉を交わした。
初めての方だったけれども侯爵家と子爵家の方で素晴らしい方だった。
ご婦人も皆さま優しく、特に侯爵家の奥様には私のふるまいをすごく褒められた。
こっそりとどなたに師事されたのか尋ねられて、エビアン・アロワ侯爵夫人ですとそっと耳打ちをすると目を見開かれた。そして納得という顔をされる。
エビアン様は若い頃王妃候補として一通り厳しく教育を受けた方だ。残念なことに王妃様には選抜されなかったけれど、外交に来られていた隣国の侯爵様に見初められて嫁がれた。
なので、私は学園こそ通えなかったけれど教育は素晴らしい方から学んだのだ。
隣の侯爵夫人から感心しきりに頷かれ
「それはそれは良き方に師事されましたね」
私は微笑んで頷いた。
たまたま近くにいた方には、「アロワ侯爵夫人は隣国に嫁がれていましたよね? 習われたにしても、いつ?」いぶかしげに問われた。
私はそれにも頷いて答えた。
「アロワ侯爵がキャロワ領で織物機械の開発をされたのです。5年間滞在されましたので、その間に」
現在、キャロワ領と隣国のアロワ地方の繊維織物業は並んで名品だ。
それはライバル視ではなく互いに手を取り合って技術を開発したからだ。
そのことは一部で有名なので、侯爵夫人はうんうんと頷いた。
「その話は聞いたことあるわ。あなたはよい時期によい師に巡り合えたのね」
そういってもらえ、私は感謝した。
食事もひと段落し、あたりでも席を立って歓談が始まると兄さまが私を見たので、私も頷いて近くで話をしていたご婦人方に詫びを入れて立ち上がった。
兄さまがあいさつ回りをするのを、私は後ろで静かに微笑んで付き添う。
正式なデビューもしていないので私は会話には参加しない。時々相槌を打つ程度。
何人か兄さまの同僚だった方や学生時代の先輩の方とご挨拶をしたけれどその程度だった。
まぁ、場に慣れていない私はすぐに疲れてしまったけれど、それでも淑女教育のたまものもあって笑顔だけは崩さない。
何人か独身の方に声をかけられたけれど、兄さまが「妹はデビューをまだしていないので」とやんわり断ってくれた。しかし彼らは私の瞳の色と私のつけるアクセサリーの色を見て、「お手紙をお送りしてもよいだろうか?」と申し出てくる。
夜会や晩餐会などで女性が自分の色を身に着けるのは、婚約者不在といっているのも同義なのだ。
「色よいお返事を出せないかもしれませんけれども……」
兄さまが困った顔で私を見る。
「それでもご一考いただけるなら、ぜひ」
彼らは私に、ウィンクをして手を振って離れた。
「……明日から本当に大変そうだな。疲れたし、もう帰ろうか」
兄さまは苦笑いして私の背中をたたいた。
国王夫妻は先ほど退室されているとはいえ、
「もういいのですか? シガールームはさすがについていけませんけれども」
私は兄さまに確認をした。
「うん。挨拶をしなきゃいけない方々には挨拶できたし、まだ一周忌はしてないからね。もともと顔見せだけで帰るつもりだったんだよ」
兄さまは頷いて歩き出す。私も静かにそのあとに続いた。
初めて訪れた王宮は煌びやかで、眩しくて……。
ああ、私には縁遠い場所だな、そう思った。
翌朝。
兄さまは新聞を読み、私が食後のお茶を飲んでいると、レイモンドが書類の束のようなものを抱えるように持ってきた。
「ある程度は覚悟しておりましたが、今の段階でこの状態です」
それを兄さまの前に置くと、兄さまは新聞をとじて、そしてくつくつと笑った。
「まだデビューさせてないんだけどなぁ。一晩でこれかぁ」
机の上のそれをポンポンと叩いて、私を見た。「よかったな、リサ。嫁の引き取り手には困らないぞ?」
いたずらっぽく言われて、私は目を丸めた。
え? なんか嫌な予感がする。
「リサに見合いの話だよ。より取り見取りだな」
絶対そんなこと思ってもいないだろうに、兄さまは楽しそうだ。
と、そのとき廊下が騒がしくなった。
レイモンドがさっと動いて扉の前に動いたとき、その扉がバンと開いた。
「ネイト! リサ!」
久しぶりに見る幼馴染が慌てた様子で入ってくる。そのあとに侍女たちが困ったように入ってきて私と兄さまは顔を見合わせて苦笑いした。
「シリル、勤めは終わったみたいだな。お疲れ。……けど今日お前がくる話は聞いてないぞ?」
兄さまは彼をねぎらいつつ優雅に首を傾げた。
先ぶれもなくこんなプライベートルームまで入り込む無礼さをやんわりと指摘すると、彼は眉をひそめる。
彼もそれなりに年を重ね、ちゃんと宮勤めをしている身なのだから自分のやらかしには気づいているのだろう。
眉をひそめながら
「それは申し訳ないと思う。でもいてもたってもいられなくて、その、俺とリサの婚約が白紙になったって、なんで」
私と兄さまの顔を見比べる。
久々に見る彼はやはり精悍できりりとした顔立ちの美しい人だと思う。
でも、もう……。
私は顔を伏せた。
彼は婚約が白紙に戻ったことを疑問に思いここに来たというけれど、私たちとしてはそれをとがめられることのほうが意外でもある。
「なんで? とは心外だな。君には都合がいいと思うけれど?」
兄さまは笑顔を張り付けたままシリルに首をかしげる。シリルが眉をひそめた。
「私はリサには面倒のない幸せな結婚を願っているんだよ。シリルが宿舎に招き入れている彼女と生まれ来る子をどうするかは知らないけれど、私は身ぎれいな男に妹を嫁がせたい」
「は? 彼女? 子? いや、身ぎれいって俺は身ぎれいだろう?」
シリルが意味が分からないと首をかしげるけれど、それは私も兄さまも眉をひそめた。
「先日君の宿舎にいたときに応対に出てきたオセアン嬢が、君の子を孕んでるような話しぶりだったが」
兄さまが嫌悪あらわに言うと、彼はこれ以上ないほど目を見開いた。
「―――は? え? 俺の子? はぁぁぁ!?」
その素っ頓狂な声に私と兄さまは顔を見合わせた。
「シリル、認知しないのは男として見苦しいと思うが?」
兄さまが声をさらに低くするとシリル様はこれ以上ないほど首を横に振った。
「いやいやいやいや!? ないない、ありえない! だって俺はリサに操を立てているんだ、まだ童貞だぞ!?」
彼の衝撃な発言にその場がしんと静まった。兄さまも、レイモンドすら時を止めた。
「当たり前だろ!? 貴族女性は嫁ぐまで貞節を守るっていうなら男だってそうあるべきだろ!」
ひたすら真摯に言う彼に、私たちは完全に毒気を抜かれた。
なんかもう、うん。
シリル様らしいまっすぐな意見だ。
その時再び部屋の外が騒がしくなった。
レイモンドが扉を開けると、今度はバスク様とベシー様、そしてあの時の彼女がいた。
バスク様が兄さまにまずは非礼を詫びて
「今日こそシリルを捕まえようと宿舎に行ったら、すでにシリルがこちらに飛び出していったというんでな、で応対に出てきた彼女もいっしょに連れてきた」
この状況を話してくれた。
兄さまはこめかみを揉みつつ息をつくと
「わかりました。応接間に移動いただいてよろしいですか?」
皆を一階に案内した。
うん。やっぱり兄さまは頼れる人だな。
私の中の兄さまの株がまた上がった。
広い応接間のソファに全員腰かけて侍女たちがお茶を配り、退室を待つ。
レイモンドが扉を閉め、戸口に控えた後バスク様が私たちに頭を下げた。
「朝から先ぶれもなく押し掛けたことは本当にすまない」
「いえ。驚きはしましたが、話が一度に進むことにはなるので好都合です」
兄さまは一口お茶に口をつけた。
バスク様がありがとうと言って今度はシリル様をにらんだ。
「シリル。お前、ここにいるオセアン嬢と浅からぬ付き合いをしているというのは本当か?」
端に座っていた彼女がぽっと頬を染める。
しかしシリルはぶんぶんと頭を横に振った。
「そんな事実はありません」
「しかしこちらの令嬢はお前の子を身ごもり、うちにあいさつに来るといったのであろう?」
「俺の子を身ごもるも何も、さっき二人にも言いましたが俺はいまだ正真正銘の童貞です」
恥ずかしげもなく言い切る彼に、バスク様も、お、おうとたじろぐしかなかった。
息子のまだ童貞という告白にベシー様が額に手を当て息を吐きつつ、気持ちを入れ替えるように彼女を見た。
「ではあなたは誰の子を身籠っているのかしら?」
ベシー様の問いかけに彼女は首を傾げた。
「私はまだ未通女ですよ?」
悪びれもせずいう。
は?
これにはその場にいた全員が眉をひそめた。ベシー様が額に手を当てつつ質問を続ける。
「あなたはシリルの子が生まれる前にうちにあいさつに来るといったのではなくて?」
その質問には彼女は頷く。
「ええ。子が宿れば生まれるまでにはご挨拶に行かねばと思いました」
……ええ、と?
私の理解が追い付かない。
兄さまが息をつきながら彼女に尋ねた。
「君の中で君とシリルとどういう関係なんだい?」
兄さまが問うと、彼女はまた頬を染めて恥ずかしそうに身をすくませた。
「今はしがないハウスキーパーですが、これから日々と想いを重ねてよき伴侶になれたならと」
彼女の言葉に、私たちはさらに混乱した。
彼女の言葉の真意が分からない。それでもベシー様が活路を見出そうと彼女に質問を続ける。
「シリルはあなたを特別に扱ったの?」
「いいえ? 私の中のシリル様が特別なのですわ」
彼女は笑いながらベシー様に言って、そして私を見てほほ笑んだ。
私はぞっとした。
この人は危険だ。
うまくは言えないけれど、非常に怖い。
きっと同じモノを感じ取ったのだろう、兄さまとシリル様の空気も固くなる。
「俺はこんなにおぞましいものを雇っていたのか」
シリル様が小さくつぶやいた。
「シリル」
バスク様が声を潜めて彼を呼ぶ。シリル様が頷いた。
兄さまも扉前にいたレイモンドを招き耳打ちした。レイモンドが頷き、静かに退室する。
「オセアン嬢、俺は君にそのような想いを返すことはできないししようとも思わない。俺の想いは別にあるからだ。今日まで勤めてもらったことは感謝しているが、これ以上君を雇い続けることはできない」
彼がきっぱりというけれど、彼女はきょとんと不思議そうにした。
「なぜですか?」
シリル様の言うことが全く意味がわからない、心外だという様子に皆が眉を顰める。
「俺が君を雇いたくないからだ」
「つまり私たちの関係が雇用関係からさらに進展するのですね?」
彼女は笑みを鮮やかにさせた。
それだけを見れば愛らしいであろう笑顔だ。このやり取りを踏まえなければの話だが。
この人は理解能力がないのか?
兄さまとシリルは視線を合わせると互いに頷きあい、
「これ以上君とここで話する時間はとれない。後で話をしに行くので先にそこに行っておいてほしい」
シリルはそういうと彼女を連れて外に出た。
二人が退室し、扉が閉まると誰ともなく息をついた。
「時々粘着気質な者や付きまとい的な者がいるという話を聞いていたが、彼女の場合は思い込みと執着心が強いということだろうか? なんにせよ犯罪につながりかねない病を抱えているようだな」
兄さまが呟く。私も頷いて机の上のベルを鳴らした。
少し癖のあるならせ方をしたので、ほどなくして侍女がお茶を運んでくる。
なんだかもうぐったりと疲れた。
「ネイトの言う病というのは?」
ベシー様が尋ねると兄さまが頷いた。
「妄想と現実の区別がつかない、すべてを自分の都合の良いようにしか捉えられない心の病です」
簡単に説明するとベシー様が眉をひそめた。
「なんてはた迷惑な」
まったくだ。
私たちは彼女の妄想に振り回されていたということなのか?
私たちがお茶を飲んでいると、シリル様が戻ってきた。手にたくさんの書類束のようなお手紙をもって―――。
「ネイト、今レイモンドが運ぼうとしていたのを奪ってきたんだが、これはなんだ?」
バサバサと兄さまの前に積み上げる。
朝見た量の倍ほどの山がそこにできていた。
「あー、また増えたか」
兄さまがははと乾いた笑いをこぼす。私も視線を逸らせた。
「え? 釣り書き? 昨日の今日でしょう? もうすでにこんなに?」
ベシー様はそれが何か察したようで、その量に目を丸めた。
「昨夜のリサは美しかったからなぁ。無理もないが」
バスク様が苦笑いする。
彼らの声にシリル様が悲しそうに眉をひそめた。
「リサ……、見合い、するの?」
絶望したように言う彼に私はうつむいた。
「……よき縁があれば。婚姻は貴族の役目でもありますから」
私が言うと彼はぱっと私の手を取った。
「だったら相手は俺でもいいだろう? さっきの顛末の通り俺は君に操を立てて身ぎれいだ。家も両親も君の知るところだし、俺の仕事も騎士団で安定している。だから……」
しかし
「却下だ。あんなおぞましいのがうろちょろとしていたらリサが危ない」
兄さまがスパッと切り捨てる。
バスク様達も頷いた。
シリル様はくっと息を吐いて手を握りしめる。
そして改めて私をまっすぐ見つめると
「ちゃんと片付けてくる」
そういって我が家を後にした。
私がふうと息をつくと、バスク様達も息をついて立ち上がった。
「朝早くから騒がせてすまなかった」
兄さまに二人が謝罪する。
兄さまは頭を横に振って
「事の真相が知れたのはよかったです」
バスク様達に微笑んだ。
バスク様夫妻も安堵したように頷いて、私を見た。
「しばらくその釣り書きの山は増えるだろうね。君に良き縁が見つかることを願っているよ」
その言葉に私はぎくりとした。
ベシー様も寂しそうに私を見て微笑んでいた。
―――そっか……。
私がここにあるどれかの釣り書きを取ってしまえば、この方たちとの縁が潰えてしまうかもしれない。
私はこれまでの感謝を込めて礼をした。
翌日、私と兄さまは領地に戻った。
領地に戻っても、私の釣り書きの山は増えた。
毎日増える釣り書きに、お母様とお義姉さまが目を丸める。
でもそんな日も一度終止符を打つようだ。
「これだけ候補者がいたら本当より取り見取りだが、とりあえず私のほうでざっと検分はしてみたよ」
兄さまが私の前に三冊の釣り書きの入った封筒を置いた。「厳選に厳選を重ねて、年齢、本人の経歴、家柄、あと我が家的に親戚づきあいしてもいいと思える相手、かな」
もちろん、と兄さまは続けた。
「まだリサの婚活は始まったばかりだからね。この中で選ばなくてもいいから」
私は小さく礼を言って頷いた。
兄さまに感謝を述べる。
私だって、貴族としての役目はわかっている。
私は上から順番にめくっていった。
一人目は私と同い年の子爵家の嫡男の方だった。
我が家から遠くない領地で、侯爵家の執事見習いをしていらっしゃる方だった。
主である侯爵家も評判は悪くなく堅実な事業をされている。
絵姿なので何とも言えないが、見た目も誠実で優しそうな方だった。
二人目は私よりも7つ年上の侯爵家の次男。
近く彼の家の領地内の伯爵家を継がれるそうだ。そこは工業が盛んな地域で侯爵家の家業を手伝いながら事業を展開していくらしい。
本人の見た目も精悍でやる気に満ち溢れた絵姿が描かれていた。
ちなみに、この方は晩餐会で私の隣に座られていた奥様の息子だ。
あの奥様は理性的で聡明な方で本当に素敵な方だった。
あの方の息子だと思うとそれだけで信頼感が増す。
お二人ともとても誠実そうな素晴らしい方だった。
そうして最後の三冊目。
開いて私は息をのんだ。
目の前で素知らぬ顔でコーヒーを飲んでいる兄さまを見やる。
私はもう一度手元の釣り書きを見た。
その方は伯爵家の嫡男で、私よりも4歳年上の、騎士団に勤める方……。
精悍で、優しい絵姿は、まごうことなくシリル様のものだった。
「……兄さまのことですから皆様の周辺調査もお済みなのですよね?」
私が尋ねると兄さまが唇の端っこを上げるようにして笑う。
「ああ。身ぎれいな者だけだ。多少ヘタレも入ってしまっているが、ヘタレる対象者が限られているから問題ないだろう」
ヘタレって、ものすごく特定な方をおっしゃってませんか?
私は苦笑いをした。
「この方々とお茶会をしたらよろしいですか?」
私が問うと兄さまは顎に人差し指を当ててそうだなと頷いた。
「お前が望むのであれば私の名で招待、だな」
デビュー前というのは何というか制約が多い。
自分で動けないのは申し訳ないと思うが、私は兄さまによろしくお願いしますと頭を下げた。
そして数日後。
私はお母様と応接間の花を確認し、お茶とお菓子の確認をした。
そして服装の最終確認も。
そうしているうちに、レイモンドが来客を告げた。
まず兄さまが応対するだろうと思っていたけれど、レイモンドが私を呼んだので玄関に向かう。
そこには緊張し少し表情の硬いシリル様が立っていた。
「今日はお招きいただきありがとう。これを」
シリル様がぎこちなく愛らしい花束を私にくれた。
目にまず入ったのは色とりどりのヒヤシンスだった。
紫、青、黄色、白いスズランにピンポンマム……。
花を見て私は小さく微笑んだ。
彼を見上げると彼はまっすぐに私を見つめていた。
ちゃんと意味を知って選ばれた花であろう。
紫のヒヤシンスはいろいろな意味があるが謝罪の意味も含む。スズランもだ。
青いヒヤシンスは変わらぬ愛、そして黄色のヒヤシンスはあなたとなら幸せであるという喜びの言葉。
最後のピンポンマムは、意味が多い。真実、私を信じて、君を愛している……。
私は花束を抱きしめると、カヤにそれを預けた。それから耳打ちする。カヤは頷いて、花束をもって下がった。
「こちらへ」
私は彼を応接間に招いた。
「―――ほかの候補者は?」
彼は部屋の中を見渡して私に問うた。
私は頭を横に振った。
「今日お招きしたのはシリル様だけです」
私が言うと彼がぐっと息をのんだ。
私は彼に微笑むと首を傾げた。
「私は一度初恋を終わらせました。だから、もう一度最初から出会いませんか?」
―――シリル、私は君に正直怒っている。
あの日、シリルはネイトに言われた。
シリルがほかの女性と懇意にしていたと思いリサが食事ものどを通らないほど泣き暮れたこと。
誰かと結婚するくらいなら修道院へ行くことや出奔することまで視野に入れ覚悟させたこと。
―――君がすべて悪かったわけではないけれど、でも、端々に目をやるべきだっただろう。
ネイトの言葉はもっともだった。
昇進するにつれ日々の仕事が忙しくなり、身近にあった闇に全く気付かなかったのはシリルの落ち度だ。
―――次に妹をあんな風に泣かせたら、今度こそ許さない。
厳しい目で言われシリルは頷いた。
彼女を失うような過ちはもうしない。
シリルはリサと二人、改めて常識的なお茶会をした。
以前の続きのような茶会であれば、きっとシリルは最初からリサを抱きすくめ、彼女の唇がはれぼったくなるほど唇を貪りつくしただろう。
けれど、今日の茶会はけじめだ。
シリルは現状を懇切丁寧にリサに話をした。
以前の宿舎は引き払い、タウンハウスを管理しながら生活することにしたこと。
伯爵家で長らく自分の従者を務めていた家令が、妻を娶り改めて王都で付き従ってくれることになったこと。
その妻が侍女として働いてくれること。
―――オセアン嬢は、オセアン士爵が隣国の妻の里に連れていき、田舎で静養することになった。もともと隣国のほうが心療医療に先進的なこともあり、士爵の奥方の兄弟に心の病に明るい方がいらっしゃるという。
士爵から謝罪され、キャロワ伯爵家への謝罪もあったこと(リサは知らなかったがネイトのほうで処理されていた)、彼女は王都には二度と足を踏み入れないことなどの取り決めがされたこと。
彼女はシリルの話を一つ一つ頷きながら聞いてくれた。
それらの話をしているうちにすっかり時間が経っていた。
今日は誠実なお茶会だ。
だから長居はご法度。
心引かれながらシリルは席を立った。
「また、お誘いしても?」
シリルの問いにリサはふわりと微笑んで控えていた自分の侍女を呼んだ。
彼女から包みを受け取り、それを見てリサは微笑むと、シリルに差し出した。
それは青いネモフィラと赤とピンクのチューリップが愛らしい花束だった。
シリルは目を見開いてリサを見た。
リサが頷くのを見て、もう我慢ができなくなった。
「リサ!」
シリルはリサをぎゅうっと抱きしめた。
「君をもう泣かせないから。大事にするから」
華奢な彼女を強く抱きしめて希う。「君を愛してる」
ネモフィラの花ことばは「あなたを許します」。
ピンクのチューリップは「誠実な愛」、そして赤のチューリップは「愛している」。
シリルはしっかりとリサから抱き返されている力強さを感じ涙がにじんだ。
「私も、あなたを愛しています」
リサの言葉にシリルは柔らかく赤く色づいた唇に自分のそれを重ねた。
誤字脱字報告ありがとうございます! 助かっております!
2025/01/23 一部加筆しました。