34話「ナード・トロエン子爵令息」
会場の隅に行くと若い男性が騒いでいました。
騒いでる男性の手にはワインのボトルが握られています。
男はだいぶ酔っているようです。
彼の半径三メートル以内には、誰も近づけないようでそこだけ空間が出来ていました。
その代わり、彼から三メートル以上離れたところに人が集まっていました。
パーティーで騒ぎを起こした人間に皆興味津々のようです。
酔った男性に絡まれてる人には見覚えがありました。
見覚えがあるところではありません!
あの方は私の最愛の人です!
「聞いているのか!?
フォンジー・ザロモン!
デルミーラ・アブトを悪人に仕立て修道院に入れ、自分だけのうのうと暮らしやがって!
お前の弟は女に魅了されたと嘘をついて王都を追放された犯罪者だ!
そしてお前は、婚約者に暴力を振るっていた悪党だろうが!
そんな悪党が何で爵位を継いで侯爵になってんだよ!
ふざけんな!!
婚約者に暴力を振るったお前も、二人の息子に満足な教育も施せなかったお前の両親も、みんなろくでなしだ!
パーティー会場から消えろ!!
みんなそう思ってんだよ!
特にお前に迷惑かけられたグロス子爵家の人間はそう思ってるはずだ!!
お前に死んでほしいってな!」
「やめてください!!」
気がついたら私は、罵倒されているフォンジー様の前に飛び出していました。
「どなたか知りませんが、フォンジー様の悪口を言うのはやめてください!!」
私は相手の身を見据え、強い口調で告げました。
公衆の面前で、フォンジー様を愚弄するなんて許せません!
「エミリー嬢、私なら大丈夫だよ。
危ないから君は後ろに下がってて」
私の肩にフォンジー様の手が触れました。
「ですが、こんなのあまりにも理不尽です」
「私はこういうことに慣れてるから大丈夫だよ。
君と婚約する前に、こういう人たちには話し合いをして、全員納得していただいたと思ってたんだけどね。
全員ではなかったみたいだね。
ごめんね。迷惑をかけて」
「そんなフォンジー様は悪くありません!」
「エミリー嬢、無茶しないで。体が震えてるじゃないか」
勢いで出てきてしまいましたが、今頃になって体が震えてきたみたいです。
「フォンジー様を守るためです!
無茶ぐらいさせてください!」
「お前ら!
俺を無視してイチャイチャしてんじゃねえ!
大体誰なんだお前は!」
そうでした。この方の説得はまだ終わってないのでした。
私は酔った男性をキッと睨みました。
「私はフォンジー様の婚約者です」
「はぁ? 婚約者だぁ?!
ありえねぇ!
おいそこの女!
知ってるのか?
この男は、元婚約者のデルミーラ様に暴力を振るっていたクソ野郎なんだぞ!」
「フォンジー様はそのようなことをする方ではありません!
それにその件についてはすでに調べがついてるはずです!
デルミーラ様がフォンジー様に暴力を振るわれていたというのは、彼女の付いた嘘だったと、裁判所の判決がでています!
デルミーラ様が婚約中に浮気していたことと合わせて、アブト伯爵家はザロモン侯爵家に対し、慰謝料の支払いが命じられています!」
フォンジー様がデルミーラ様との婚約 破棄後、どのような目にあったのか、 お父様から全て聞きました。
彼女はリック様の事件でご自身に同情が集まってるのをいいことに、フォンジー様に暴力を振るわれてると嘘の噂を流し、世間の関心を集めていたのです。
清廉潔白なフォンジー様を陥れるなんて、デルミーラ様はやっぱりひどい人です!
「うるせぇ!
俺はそんな判決信じねぇ!
デルミーラ様はそのようなことをするお方じゃねぇ!!」
この方はデルミーラ様の取り巻きのお一人だったのでしょうか?
フォンジー様との婚約破棄後、彼女はその美貌を利用して、たくさんの取り巻きを引き連れていたと、お父様から聞きました。
彼女の取り巻きだった男達は彼女の失脚後、日頃の行いの悪さを追求され、家から勘当されたと聞きましたが……この方は勘当されなかったようですね。
この方は、だいぶデルミーラ様に脳を焼かれているようです。
「世間や裁判所が許しても、弟が迷惑かけたグロス子爵家の人間は、お前を許すことはないだろうぜ!」
「そんなことはありません!
私も両親も彼のことを許しています!」
「はぁ? なんでお前がそんなこと言い切れるんだよ?
だいたい誰だよお前?」
「申し遅れました。
私の名前はエミリー・グロス。
グロス子爵家の長女です」
私は名前を名乗ると、男性が一瞬怯みました。
成り行きを見回っていた人たちからも、どよめきが起こりました。
ちょうどいい機会です。
この場ではっきり言っておかなくてはいけません。
「この方だけではなく、会場の皆様にも申し上げます。
私も両親もリック様のことも、フォンジー様のことも、ザロモン侯爵家の方々のことも許しています。
だからあの事件を口実に、当家の名前を出して、フォンジー様やザロモン侯爵家の方々を攻撃するのはやめてください!」
私は会場に集まった人々の目を見て伝えました。
「ありがとうエミリー嬢、そう言ってもらえて嬉しいよ。
あとは僕の引き受けるから、危ないから君は下がっていて」
「フォンジー様」
「だからイチャイチャするなって言ってるだろ!
たとえグロス子爵家の人間が許しても俺は許さねぇぞ!」
男がワインビンを振り上げ殴りかかってきました。
「危ない! エミリー嬢!」
フォンジー様が私をかばうように抱きしめました。
このままではフォンジー様が殴られてしまいます!
……ですがいくら経っても衝撃が来ることはありませんでした。
フォンジー様の腕から抜け出し、騒いでいた男の方を見ると、男の腕を別の男性が掴んでいました。
酔っ払いの男性の腕を掴んでいるあの方は、どこのどなたなのでしょう?
私たちを助けてくれた男性は、茶色の髪に黒色の目をしていて、歳はフォンジー様と同じぐらいでした。
「会場で暴力騒ぎは困るな。
それから僕の友人に何しようとしてるのかな?」
茶髪の男性は、フォンジー様に殴りかかろうとした男性にかなり怒っているようでした。
彼はとても恐ろしい目で、男性を睨みつけています。
「何だてめぇは?
関係ねえ奴が横から入ってきてんじゃねぇ」
「僕の正体を知りたいの?
僕の正体を知ったら君は泣きべそをかくことになるけど、それでもいいのかな?」
「はぁ?
寝ぼけてんのか?」
あの茶髪の男性は一体何者なんでしょう?
「あの酔っ払ってる方はヨハンじゃないか?
ストラウス伯爵家の長男。
確かデルミーラ・アブトの取り巻きの一人だったが、彼女に心酔しすぎて跡継ぎの次の座から外されたんじゃなかったか?」
「それでやけになって事件起こしたんだな。
ヨハンの腕を掴んでる方の男にも見覚えがあるぞ。
奴の名はナード・トロエン。
貧乏子爵家の息子で、家督も継がず仕事もせず、遊び歩いてるっていう噂だ」
野次馬の中に彼らのことを知ってる人がいたようです。
酔っ払いの名前がストラウス伯爵令息で、酔っ払いの腕を掴んでる方のお名前がトロエン子爵令息ですね。
覚えました。
それにしても、トロエン子爵令息はずいぶん立派な服を着ています。
とても貧乏な貴族には見えません。
トロエン子爵令息は肩から腰に斜めにかけてバルドリックを身に着けており、彼の纏っているマントは白地に黒の点がある白天のしっぽを素材にしたと思われるアーミン・スポットでした。
このような格式の高い衣装を身に纏えるのは、国の中でも限られた人物、そう例えば……。
「フォンジー久しぶり、約一ヶ月ぶりかな?
君が絡まれてるのを見たから助けに来ちゃった」
トロエン子爵令息はストラウス伯爵令息に向けていた怖い顔とは打って変わって、屈託のない笑顔でフォンジー様に手を振りました。
「ナードこんなところにいていいのか?
今日は君の……」
「殿下!
このようなところにいらっしゃったのですか!
困ります!
国王陛下と王妃殿下に続いて入場してくださいと、あれほどお伝えしたではありませんか!」
頭の抜けの薄くなった小柄な老年の男性が、トロエン子爵令息に向かって走ってきました。
「殿下……?」
この国で殿下と呼ばれる方はお二人だけ、王妃殿下と王太子殿下のみ。
ですがカロリーナ様からお聞きしたお話だと、王太子殿下は紫の髪と紫の目をしていたはず。
トロエン子爵令息の髪は茶色、目の色は黒。王太子殿下の特徴と違っています。老齢の男性が「殿下」といったのは私の聞き違いだったのでしょうか?
「だって友人がピンチだったんだよ。
そんなの見て見ぬふりできないよ」
「殿下、またそんなことをおっしゃられて!
もうどこから持ってきたんですか、茶色いかつらとコンタクトレンズ!」
老齢の男性がまた彼のことを「殿下」と呼びました。私の 聞き違いではなかったようです。
ということは、このお方が王太子殿下?!
まさか王太子殿下がかつらとコンタクトレンズを使って、変装していたとは思いませんでした。
その上変装用の偽名まで用意していたとは。
「あーあ、じいやのせいで皆に正体がバレちゃったよ。
後で陛下の前で発表して、あっと驚かせようと思ってたのに」
そう言って殿下は、いたずらっ子のような笑みを浮かべました。
カロリーナ様のおっしゃっていたことの意味が分かりました。
殿下は本当にいたずらがお好きなようです。
確かにこのお方は、一筋縄ではいきそうにありません。
「変装用のかつらとコンタクトレンズぐらいいつも持ち歩いてるよ。
じいやの追跡をまくのに使えるからね」
「殿下も成人したのですから少しは落ち着いてください。
王太子としての威厳を持ってください」
このお方のお世話をしている、じいやさんの気苦労は絶えないでしょうね。
「殿下、帰りますよ。
もう一度入場するところからやり直してください」
「でもそれだと、僕が今掴んでる男が暴れ出しちゃうよ」
ストラウス伯爵令息は、自分を取り押さえてる男が王太子殿下だと分かって、顔面が蒼白になっていました。
「衛兵! 衛兵はおるか!
殿下に狼藉を働いた不届き者だ!
早急に会場から連れ出し、取り調べをせよ!」
じいやさんが叫ぶと、どこからともなく衛兵が現れ、ストラウス伯爵令息を拘束しました。
「だから言ったろ?
僕の正体を知ったら、泣きべそをかくことになるって」
衛兵に拘束され既に泣きべそをかいているストラウス伯爵令息に、殿下はそう冷たく言い放ちました。
「それからここにいるみんなにも伝えとくね。
ザロモン卿の人柄と彼の潔白は僕が保証する。
だからストラウス伯爵令息の同じ轍を踏むようなことはしないようにね」
これには事態を静観していた貴族たちも、内心震え上がったことでしょう。
フォンジー様を責めることは、王太子殿下を敵に回すことになります。
今後はフォンジー様に絡んでくる貴族が、出てくることはないでしょう。
「あっそれからフォンジーとエミリー嬢、話があるからあとで別室に来てね」
殿下はそう言い残し、じいやさんに腕をひかれて去って行きました。