第80話 十七歳の誕生会
約束した五時ピッタリに、白雪は和樹の家のインターホンを鳴らす。
和樹も待ってくれていたようで、すぐに扉が開いた。
「こんばんは、和樹さん」
「いらっしゃい、白雪。じゃ、行こうか」
和樹の服装は、チェスターコートに、白雪が贈ったマフラー。
ボトムスはいつもと同じスラックスだろう。
上着は、同じく白雪が贈ったジャケットのようだ。
白雪はトップスは薄い青色のやや薄手のネルシャツに、アイボリーホワイトのニット。
ロングの黒いスカートに、寒いこともあるのでやや厚手のタイツを着て、さらに上にグレーのダッフルコートを羽織っている。靴はショートブーツだ。
もちろん、和樹にもらった腕時計を着けていた。
マンションのホールを出ると、さすがに二月半ば。
底冷えがするほどに寒さを感じる。
「白雪」
自然に和樹が手を出してくれた。
少し考えて――白雪はその手を取ると、そのまま和樹のコートのポケットに入れてしまう。
「白雪?」
「和樹さんもこうすれば暖かいと思いまして」
「いや、まあそうだが……ま、いいか」
何より、こうすれば手の温もりが保たれるから、ずっと繋いだままでいられる。
もっとも、外を歩いていたのはほんの十分程度。
和樹が案内したのは、駅の少し手前にある複合ビル。
その一角にある創作料理のレストランだ。
「前に来たことがある店なんだが、誕生日用のコースがあったんだ。せっかくだからと思ってな」
「前に……どなたと?」
一瞬他の女性と、と考えたが――聞いてからそれはないと気付いた。
和樹がこの地に住む様になったのは高校生から。
その頃に来たのであれば当然家族とだろうし、それ以後であれば誠や友哉、あるいは朱里達だろう。
「ああ、うん。友哉と。とても美味しい店だったんだ」
「なるほど。和樹さんが美味しいというなら、ちょっと楽しみです」
「そうだな。普段白雪の料理で舌が肥えてる自覚はあるけど、それと比べても遜色ないと思ったのは確かだ」
「お店と比較されるのは、さすがに恐縮します……」
「それこそ謙遜だとは思うけどな」
確かに両親はプロだったわけだし、白雪も自分自身努力はしていると思う。
とはいえ、このような一等地に店を構えられる人と比較されるのは、さすがに恐縮するというものだ。
まだ高校生だというのもある。
店はそこまでかしこまった雰囲気ではないが、かといってファミレスのような雰囲気ではなく、どこか落ち着いた内装だった。
少しだけ暗い照明が、雰囲気を底上げしている感じだ。
店員に案内されたのは、窓際の席。
地上七階にある店で、しかも駅前のターミナル広場沿いのため、高さの割に意外なほど眺めがいい。
テーブルの上にあるキャンドルスタンドは、実際に火のついたロウソクで、とても雰囲気がある感じだ。
テーブルとテーブルの間に仕切りがあって、半ば個室のようになっている。
高すぎるということはないと思うが、少なくとも高校生が普通来るような店ではないのは確かだ。
メニューは予約時にすでに決めてあったようで、ほどなく運ばれてきた。
いわゆる創作イタリアンの店のようで、最初に食前酒――白雪には当然ノンアルコールだが――が来て、前菜から始まって、スープやパスタ、ピッツァに肉料理などがちょうどいいタイミングで提供されてきた。
「どれもすごく美味しいです。今までになかったアプローチの味ですし」
「喜んでもらえてよかった」
「はい。それに、いい目標にもなります」
何を使ったらこういう味付けになるのだろうと思うが、いくつか想像は出来る。
あまりこういうレストランに来る機会はなかったが、とてもいい刺激にもなってくれた。
「そこで目標と言い切るのがさすがというか、だが」
「あ、すみません……」
「いやいや。褒めているつもりだ。実際、白雪の料理にかける情熱は、本当にすごいと思ってる。やはり……ご両親の影響かな」
「だと、思います。父も母も、いつも美味しい味を模索し続けてました。時々私にも意見を求めたりしてて。それで私が美味しいと笑うと……とても喜んでくれて」
あ。ちょっとまずい。
この流れは――非常に良くない記憶の辿り方をしてしまっていることに、白雪は気付いた。
両親のことを思い出して悲しいのではない。
両親の記憶を、思い出を笑顔で話せるこの時間。
それが、あと一年あまりで失われる事実が、何よりも――辛い。
「白雪? すまない、昔を思い出させたか」
「あ、いえ。大丈夫です。楽しい思い出、ですから」
本当の理由を気付かせてはならない。
だから、溢れそうになった涙を、なんとかして隠して、できるだけ笑おうとする。
少なくとも今泣くのだけは駄目だ。
せっかく和樹が誕生日を祝ってくれるのに、その思い出に泣き顔の記憶なんて、絶対に残してほしくない。
一度、分からないにように、深く呼吸しながら目を閉じる。
「すみません、大丈夫です。ちょっとだけ思い出したのはありますが、でも、楽しい思い出ですから、思い出せると嬉しいので」
「……そうか。なら、いいんだが」
多分、年下の白雪が取り繕ったことなどお見通しだろう。
ただその上で、隠そうとしているならそれに合わせてくれる優しさが、嬉しい。
それにこれなら、本当に理由には気付かれていないだろう。
「お客様、デザートをお持ちしても?」
会話が途切れるタイミングを狙っていたのだろう。
ウェイターが控えめに和樹に近付いて声をかけてきた。
「ああ、頼む」
デザートも期待できるので、少し気持ちが高ぶってくる。
そして出て来たのは――。
「あ、そ、そうでした」
「誕生祝いだって忘れてたな?」
出て来たのはティラミスのケーキ。
その上に、金文字でHappy Birthdayと描かれている。
「食事があまりに美味しくて……普通にデザートも何かな、とか思ってました。ついうっかりです、よ?」
実のところ、この時間が楽しくて、すっかり忘れかけていた。
切り分けられたケーキと、一緒に出されたコーヒーの組み合わせは絶品で、その美味しさに思わず顔が緩んでしまう。
「本当に美味しい……和樹さん、今日は私のために、こんな素敵な時間をありがとうございます」
掛け値なしに本音だ。
彼が家族として祝ってくれているのは、分かっている。
ただそれでも、白雪にとってはかけがえのない――初恋の相手。
絶対に結ばれないと諦めていても、それでも、この今の瞬間だけは、間違いなく存在する光景。
白雪にとっては、それが何よりも大切な記憶になるのだ。
「そうか。満足してもらえたなら、何よりだ」
それから和樹は、脇に置いてあったカバンから、何かを取り出す。
「こういう形なのもなんだが……誕生日プレゼント、ということで」
そういって、和樹がテーブルの上に置いたのは、十センチ四方くらいの、きれいに包装された箱。
和樹を見やると小さく頷いてくれたので、丁寧に包装を解くと、紙箱に収まったケースが出て来た。
さすがにこの状態になれば、中にあるのが装飾品であることは想像ができる。
ケースの蓋を開くと、繊細な金色の鎖の先に、小さな三日月の形の金細工が付いたペンダントだ。月が欠けた部分に緑色――おそらくは翠玉――の宝石がはまっている。
月の部分にも小さく透明な宝石が入っていて、おそらくこちらはダイヤモンドだろう。
とても可愛らしいデザインだ。
「可愛くて……とてもきれいです。すごく、嬉しいです」
そう安いものではないことは分かるが、かといって極端に高いというほどではないのだろう。そのあたりの、ある種の金銭感覚は信頼している。
高校生が買うには確かに高いといえるだろうが、和樹にはそう大きな負担ではないのだろうし、ここでそんなことを言及するのは失礼でしかない。
何より、自分のために選んでくれたという事実と、月の形をしているのがとても嬉しく思えた。
(多分、そこまでは意識してはいないのでしょうけど)
彼の名前にある『月』を象ったデザイン。
箱から取り出してみると、わずかにこすれ合った金の鎖が、とても繊細な美しい音を奏でているように思えた。
それを取り出してから、ふと和樹を見て――。
「あの、お願いがあるのですが……着けていただけないでしょうか?」
今日は首飾りなどは着けてきていない。
普段和樹と出かける時は、去年ホワイトデーでもらったネックレスをつけているのだが、今日はなぜか着けてこなかった。
あるいは、これを予感していたのだろうかとすら思えてくる。
「わかった。失礼するよ」
和樹はそういうと、白雪からペンダントを受け取り、白雪の後ろに立つ。
白雪は髪をかき上げて、首を見えるようにして――和樹の腕が回って、首筋の後ろで小さく鎖が擦れる音が少しだけ聞こえてきた。
「はい、どうかな」
胸元に来たペンダントに触れてみる。
それ自体は、金属と石の塊でしかない。
だが、なぜかとても温かみを感じるのは、きっと気のせいではないだろう。
「ありがとうございます、和樹さん。ずっと――大切にしますね」
翠玉の宝石言葉は、幸運、幸福。そして、愛、希望。
和樹が宝石言葉にどこまで詳しいかは分からないが――幸運という意味を込めている気はした。
ただ、白雪にとっては宝石の持つ意味より、彼がそれを選んでくれた事実の方が嬉しい。今後、他の誰からもらうどんな宝飾品よりも、これは大切になる。
それだけは、絶対だろう。
「あらためて、十七歳の誕生日、おめでとう、白雪」
「はい。貴方にそう言っていただけるのが、本当に……本当に嬉しいです」
続けて来年も、と言いそうになって、それはかろうじて堪えた。
来年は十八歳。現在の法律では、婚姻が可能になり、成人と認められる年齢だ。その時、伯父が白雪をどうするつもりなのか分からない以上、もう来年の保証はない。
「俺でよければ、何度でも言うよ。大事な家族には、幸せでいてほしいからな」
「え……」
「なんかおかしなことを……ああ、うん。もちろん、君が良ければ、だが」
悪いわけがない。
でも、それができないだろうというのは、多分和樹にもなんとなくは分かっていたのだろうに。
「仮初だろうが、家族である以上、できる限りは祝いたいさ。来年も、その先も、ね」
「……はい。ぜひ、お願いします」
涙が溢れそうになる。
それができるかなど分からない。
ただそれでも、この約束だけは。
これだけは何としても叶えたい。
そう、白雪は願わずにはいられなかった。
ちなみに。
色々感極まって、バレンタインチョコを渡すのをすっかり忘れてしまった白雪は、それを渡すのを口実に、翌日ほぼ一日和樹の家に居座っていた。