第72話 本当の気持ち
半ば駆け足で部屋に戻った時、紗江はいなかった。
ただ、荷物は片付けてあったし、すでにサイドボードに今日の予定について書かれた紙があるので、いったん他の仕事に戻ったのだろう。
多分、スマホにもメッセージが来ているはずだ。
本来であれば、その予定を確認すべきだが――そのすべてを無視して、白雪はベッドに飛び込んだ。
そのまま顔を枕に押し付けると、涙が溢れた。
今になって、認識できてしまった。
伯父と相対して、両親のことを考えさせられて。
和樹のことを思い出して――今更のように気付いてしまった。
(私、今頃になって……)
望まぬ結婚をさせられる未来を受け入れる覚悟は、とうにしていたはずだった。
高校生活は最後の猶予期間。
両親の墓参りをして、母の通った高校で、玖条家という『檻』に閉じ込めらるまでの、最後の三年の自由時間のはずだった。
全てを諦めている白雪にとって、高校で得られる人間関係とて、切り捨ててもいいもの。
そのはずだった。
その決意が揺らぎ始めたのはいつからか。
雪奈、佳織。それにクラスメイト達。生徒会を通じて知り合った多くの友人たち。
遠巻きに『白雪姫』として見られていたのが、最近は親しく話せる人は増えていた。学校生活が楽しいと思えていた。
そして和樹。
父のことを、家族のことを思い出させてくれた人。
そして本当に、白雪を娘の様に――家族として接してくれた彼との日々は、白雪にとってすでに、かけがえのない時間だった。
彼との生活によって、白雪は両親が生きていた頃の気持ちを取り戻していた。
それが、『白雪姫』ではなく『玖条白雪』として高校で受け入れられた最大の理由だろう。
(私、いつの間にか――弱くなっていたんだ)
玖条家に引き取られて一年もしないうちに、白雪は自分の役割を認識した。
玖条家の当主である貫之に従うことで、両親が安らかに眠ることができるなら、そのために自分を使う。
ただそれだけが、白雪の存在理由だった。
それでも心が軋み、限界だと思えてしまったから、何とか最後の三年間だけは、母のいた高校を希望した。墓がここにあったことも大きな理由である。
ただ、そこで得られる全てを捨てる覚悟をして行ったはずだった。
実際捨てられる覚悟も、そうできる自信も、あったはずである。
だが。
和樹と出会ったあの時から、弱くなっていた。
今にして思えば、おそらく最初の事故で助けてもらって、彼が父親の様だ、と思ってしまったあの時から。
家族と過ごした、あの幸せな日々を思い出してしまった、あの時から。
白雪の心は、かつての優しさと温もりを求めるようになってしまっていたのだ。
それまでは雪奈や佳織ですらそれほど踏み込ませていなかったはずが、いつの間にか仲良くなっていた。
そして、和樹と定期的に会うようになって、その時間がとても心地よくて。
気付けば、大切なものが増えていた。
高校卒業とともに必ず失われる、とわかっていたはずなのに。
なのに、失いたくないと思うものを、これほど多く抱えてしまっている。
その中心にいるのは――。
(私、和樹さんのこと――好きだったんだ)
その考えは当たり前のようにストン、と心の中に収まった。
今さら何を言ってるのだろう、とすら思える。
今まで何度も、雪奈や佳織らに言われていたのに、何も考えずに家族だから、と否定していた。
家族のような存在だ、と決めつけていた。
今まで一度も考えてこなかった――考えないようにしていただけ。
それが、伯父を前にして――家族のことを思い出させられて――また失うという事実を再確認して、初めて気が付いた。
今まで家族という言い訳で押し込めていた和樹への本当の気持ちに、気付いてしまった。
家族として、ではない。
友人として、でもない。
そんなカテゴライズできる枠組みではなく――和樹のことが好きになっている。
一緒に居たい。
もっと話したい。
触れ合っていたい。
そんな欲求が、無限に湧いて来るような感覚がある。
ただ。
それは絶対に許されない。
和樹への想いと同じくらい、両親のことは大事だ。
そして、その二つは、和樹の言葉を借りれば、『優先順位』がつけられない。
そして、どうやってもどちらかしか選べないなら――これまで積み上げてきた努力を否定できるほど、白雪は開き直れなかった。
胸が苦しい。
心が張り裂けそうだ。
そんな気持ちを抱くことすら、自分にはもう不可能だと思っていたのに。
しかし同時に、これは決して表に出してはいけない気持ちだ。
(絶対、気付かせてはダメ)
そうなれば、きっと和樹は無茶をする。
彼は、身内と認識した人が傷付くのを一番嫌う。
きっと白雪がこんなことで苦しんでいると知れば、何とかしてくれようとするだろう。
だがそれは、必ず彼には負担となり、迷惑をかけてしまう。
いくら彼でも、『玖条家』という存在相手に何かできるはずはない。
あるとしたら両親の様に全てを捨てるしかないが――和樹にそこまでの覚悟をさせるさせることはできないし、白雪もまた、全てを捨てる覚悟は、持てない。
完全に八方塞がり。
「最初から分かっていたはずなのに――」
胸をかきむしりたくなるほどに苦しい。
しかも、これは何をやってもなくならない苦しみだ。
そもそもこの先どうするべきか、すら――見えない。
徹底するなら、もう彼と会うことすら避けるべきだとわかっている。
今までは自覚していなかった。
だが、もう彼への好意を自覚してしまった。
この先、時間が経てば経つほど気持ちは募るし、抑えも効かなくなる。
(でも、遠からず……溢れてましたね……)
彼と一緒に居る時間で、どれだけ触れたいと願ったか
抱きしめてほしいと願ったか。
思い返せば、その衝動の回数は数えきれない。
ただ、全て自分でも気づかないうちに抑え込んでいただけで――今思えば、よく抑えていられたと思う。
彼のわずかな言葉、仕草。
そんなものですら、白雪にとっては嬉しくて仕方のないものだった。
その理由を考えることすらしてこなかった。
もしこのまま自覚なくこの想いを募らせていたら――どこかで溢れていただろう。
それこそ、彼に迷惑をかけるような形で。
そして、これ以上想いを募らせないために会わないというのは、おそらく無理だとも分かっていた。
それこそ、去年の七月の様に、あるいはそれ以上に自身がおかしくなってしまう。
今にして思えば、あれは家族に会えない寂しさではなかった。
好きな人に会えない寂しさが――限界に来ただけだ。
そして自覚してしまった今では、その限界値はおそらくはるかに低くなっている。
(どうせ、あと一年と少し、ですし)
高校卒業まで、今の関係性を保つ。
卒業したら、おそらくもう和樹らと会うことはない。
必ず会えなくなるだろう。
そのあと自分が果たしてどうなるのか、もう想像もつかないが――。
壊れたところで和樹や雪奈、佳織が知ることはないだろう。
せめて出来るだけその時間に耐えられるように、最期の『白雪』として一年を、ただ楽しい記憶をできるだけ得ていくことができれば、きっと大丈夫。
それまでの間、何とか自分をごまかし続けるしかない。
それがどれだけ苦難に満ちた道になろうが――白雪には、それ以外の道を選ぶことは、できなかった。
―――――――――――――――――――
というわけで……やーっと白雪が自分の感情を自覚しました。
周りや読者からすれば何を今更とか言われそうですが(笑)
ただ、それですんなりいくわけもなく。
まだまだもやもやする展開は続きます。