第71話 薄氷の帰省
「おかえりなさいませ、お嬢様」
去年と全く同じ光景で白雪を迎えてくれたのは、紗江だった。
「久しぶりです、紗江さん。明けましておめでとうございます」
「明けましておめでとうございます、お嬢様。少し背が伸びましたか?」
実はほぼ一年振りの再会である。
「うーん。あまり変わってないかとは。お母様の体調はどうですか?」
「はい。順調に回復してるそうで、来年には退院できる可能性もあるそうです」
「それはよかった。おめでとうございます」
「まだ決まりではありませんし、『来年』ですから、お嬢様。つまりまだ一年は先です」
「……あ。そういえば年明けてましたね……」
とはいえ、退院の見込みがあるだけでも朗報だ。
「お嬢様、本日の予定ですが……」
「はいはい。とりあえず伯父様にご挨拶、ですよね。お昼に食堂ですか?」
去年この時間に帰宅した時は、昼食の席で帰省の報告となった。
今年も同じだろうと踏んだのだが、紗江は横に首を振る。
「今日なのですが、お嬢様はお食事が終わり次第執務室に来るように、とのことです」
「え?」
少し予想外だ。
この時間に戻ることは予め伝えてあったので去年と同じだと思ったのだが。
なにか、少し嫌な予感がした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「伯父上。白雪です」
重厚といっていい扉の前に立って声をかけると、やや遅れて扉が開いた。
開けてくれたのは、伯父の秘書の一人だ。
「貫之様がお待ちです。どうぞお入りください」
促されて、部屋に入る。
この部屋は『執務室』と呼ばれているが、要は貫之の仕事部屋だ。
玖条家の持ついくつかの法人や組織、そのほとんどに貫之は関わっており、大体この部屋で一括で対応しているのだ。
基本は仕事のための部屋である。
ただ、彼の仕事それ自体は正月だろうが関係なく存在し、食事や来客時を除けばほぼ彼はこの部屋にいると思っていい。
白雪がこの部屋に入るのは、聖華高校への進学を認めてもらう時以来だ。
「明けましておめでとうございます、伯父上」
部屋の一番奥、大きなデスクにいる貫之に会釈をする。
挨拶として『お久しぶりです』とどちらにするか迷ったが、時期的にはこちらの方がいいだろう。
「明けましておめでとう、白雪」
同じ言葉だというのに、なぜここまで和樹と違って聞こえるのだろう、と不思議になる。
型通りの挨拶が終わった後、貫之が手前にあるソファに座るように促してきたので、白雪はそこに座る。
貫之も椅子を立ち、白雪の向かい側のソファに座った。
やはり、何か嫌な予感がする。
型通りの挨拶以外に、話すべきことがあるのだろう。
すると貫之は、秘書に何か合図をして――秘書が部屋を出て行った。
つまり、秘書にすら聞かせられない、内々な話がある、ということになる。
「何かお話があるのでしょうか」
自然、声が硬くなり、体が緊張でこわばる。
「単刀直入に聞こう。月下和樹とは何者だ?」
軽く一度は体温が下がった気がした。
出来るだけ動揺を表に出さない様に、と全力で神経を張り詰めさせて――それから、正面を見る。
貫之は、少なくとも怒っている、という様子ではない。
「私が苦手としている科目について、専門家だったので、家庭教師として教えていただいている方です」
「苦手?」
「情報分野です。パソコンなどを扱う科目ですね」
「今はそういうのがあるのか」
貫之は五十歳を超える。彼が学生の頃は、そもそもパソコンなど一部の人間の趣味でしかなった時代だろうから、馴染みがなくて当然だろう。
ただ、それはそれとして、なぜ突然和樹の名前が出たのかの方が、ずっと気になる。
「なぜ月下さんの名前を?」
「烏丸家の男と文化祭で揉めたと聞いた。その時の報告書の中にあった。お前が文化祭に呼んだそうだな」
「はい。普段お世話になっていますので、お礼に」
「不健全な関係ではあるまいな」
「はい?」
一瞬意味が分からなかった。
伯父は時として言い回しが古い。
「つまり、その男と男女の仲ではあるまいな、ということだ」
「違います。それが許されないことは、伯父上が一番ご存じでしょう」
「つまり家庭教師というだけであるということか」
心が痛む。
そもそもすでに家庭教師と教え子という関係では、ない。
男女の間柄――恋人関係ではないとしても、あるいは、もっと大切な人だ。
「ならばそう目くじらを立てることはないが、不要な噂が広まる行為は避けろ。お前は玖条家の大事な娘だ」
その『娘』という言葉に『駒』というルビをつけたくなる。
あるいはついているのではないかと思う。
だが、伯父に逆らうことはできない。
そうすれば――今の生活はどうでもいい。
だが、両親の墓が失われる。
愛する両親が共に眠るあの場所を守りたい――。
その一心で、白雪は玖条家にいるのだ。
「お前の結婚相手はこちらで決める。間違ってもお前の父親の様な真似はするなよ」
怒鳴りつけたい衝動をかろうじて堪えた。
父が母をどれだけ愛していたか――今でもよく覚えている。
あの二人は、あらゆる制約を乗り越えて結ばれた。
それは、絶対に否定させない。
だが、今ここで伯父に食って掛かっても何の意味もない。
白雪が玖条家の娘として、玖条家に尽くすこと。
それが、両親の墓を維持する条件だ。
そのために、玖条家に来てからずっと、我慢に我慢を重ねてきたのだから。
おそらく両親も喜ばないとわかっていても、白雪には切り捨てることができない。
何よりも大好きだった両親がこの先も安らかでいてくれるなら――。
(大好きな、お父さんとお母さん――)
不意に、和樹の顔が浮かんだ。
父の様にと慕う、もう一人の――そして今では両親と同じくらい大切に思える人。
彼と一緒にいる時間は、今の白雪にとって欠かすことができなくなっている。
間違いなく、かつて幸せだった時を思い出させてくれる存在。
そして、それ以上の幸せを感じさせてくれる存在。
しかし、それもあと一年と少しで、必ず失われる。
(あ――ダメだ、私)
「どうした、白雪」
白雪の様子を不審に思ったらしい。
「す、すみません。ちょっと長旅で疲れているようです。部屋に戻ります。今日以降の予定は、後ほど紗江さんから聞きます」
溢れそうになる涙を必死にこらえて、白雪は立ち上がると一礼して、半ば駆けるように部屋を出て行った。