第69話 二度目の年越し
朝の六時。
普通ならまだ寝ているか起きる頃という時間に、白雪は和樹の家の扉の前にいた。
今日は十二月三十一日。いわゆる大晦日である。
昨日、和樹の家の大掃除が無事終わり、帰りしなに「朝から来てもいいですか」と聞いたら、和樹は快諾してくれた。
その際、時間を言わなかったのは――ある種確信犯である。
朝の身支度については完璧に済ませているが、食事はまだだ。
この時間に来たのは、朝食を作って一緒に食べるためである。
「い、行きましょう」
一度深呼吸してからスマホを取り出すと、センサー部に近付けた。
すると、カチャ、と音がして解錠されたことを知らせてくれる。
「……ホントに鍵を渡してくれてるのですね……」
今年の七月に「いつ来てもいい」と言われた際に渡された鍵。
実はこれまで一度も出番がなかったのだが、ついにそれを使うことになった。
こんな朝早くからインターホンを鳴らすと、さすがにまだ寝てるであろう和樹を起こすことになる。
さすがにそれは悪いと思う。
かといって、こっそり入って朝食の準備を始めるのがいいのか、と言われれば多分良くないが、そこはもう無視することにする。
「おじゃまします……」
ゆっくりと音をたてないように扉を開けると、まだ暗いのに反応したのだろう。玄関と廊下の照明が次々に点灯した。
しかしそれだけで、家の中は静まり返っている。
やはり和樹はまだ起きていないらしい。
できるだけ音をたてないように静かに扉を閉じると、そのまま息を殺して廊下を抜け、リビングに入った。
リビングは昨日掃除したばかりであるため、きれいに片付いている。
とりあえずリビングと廊下の間の扉を静かに閉じる。
これで、寝室にはあまり音が届かないはずだ。
そしてキッチンに入る。
食材などは昨日のうちに必要なものは冷蔵庫に入れてある。
夜の年越し蕎麦は去年と同様、和樹に任せるとしても、朝ごはんとお昼ごはんも一緒にする予定なのだ。
とりあえず手順を確認する。
和樹が普段何時に起きているかは詳しくは知らないが、休みでもあまり朝寝坊するタイプではないらしいし、今日、朝からくると予告していたのもあるから、七時くらいには起きてくるだろう。
その時間前後に合わせて朝食の準備を始めることにする。
時計を見ると六時二十分。さすがにまだ少し早すぎる。
「和樹さん、今なら寝てますよね……」
正月三日目に和樹の家に転がり込んだ時や、体調を崩して倒れてしまった時に和樹に寝顔を見られてしまっているが、和樹が白雪の前で寝たことはない。
一瞬、寝室に入って寝顔を見る、という誘惑にかられたが――自重した。
さすがに寝室に入ったら起きる可能性がある。
それではせっかくの計画が台無しだ。
それでも、なぜか胸の鼓動が早くなるのだけは止められない。
何か悪いことをしているような気がするからか――
(というか、悪いことですよね、これ)
鍵を使ってるとはいえ、立派な不法侵入だろう。
おそらく和樹が怒ることはないだろうが、呆れはするかもしれない。
年の最後にこんなことをやるとは、自分でも思わなかった。
ただ、本当になんとなく、昨日の朝、掃除の前に思いついただけなのだが。
思いついた時は本当にいいアイデアだと思ったのだが、実際にやってみると、なぜこんなことをしてるのか、自分で自分の行動が理解できない。
「馬鹿ですね、私」
そんな自問自答を繰り返しているうちに、空が白んできて、七時まであと十分、という時間になっていた。
ここまで来たらあとには引けない。
朝食の準備を始めることにする。
冷蔵庫を開けると、昨日のうちにいれておいた出汁を取り出す。
水出しの昆布と煮干しで出汁をとったものだ。
この出汁を使って味噌汁と玉子焼きを作る。
さらに塩鮭をアルミホイルを敷いたトースターで焼く。
グリルもあるが、タイミングを計って裏返せばきれいに焼けるし、後片付けはこちらの方が楽なのだ。
あとは同じく昨日に漬け込んでおいた漬物を出す。
なお、ごはんについては昨日のうちにタイマーをセット済みであり――。
ピーピーピー
いいタイミングで音が鳴った。
そして――。
「……なんで朝からいるんだ……白雪」
「あ、和樹さん。朝ごはん、もうできますよ」
「いや、それはいいけど……」
パジャマ姿の和樹はまだ少しだけ眠そうだ。
これを見られただけでも、実行した甲斐があったという気がする。
「昨日、朝から来るって言いましたよね、私」
「言ってたのは覚えてるが……こういう意味だったのか」
「はい」
思いっきり確信犯なのは自覚があるが、開き直った。
一方の和樹も半ば呆れたようにしつつも、朝食の気配には抗えないらしい。
「……まあ、いいか。ああ、そういえば。おはよう、白雪」
「はい。おはようございます、和樹さん」
完全に悪戯レベルのことではあるが、成功したのがとても嬉しい。
とりあえず和樹が顔を洗ってからテーブルに座ると、白雪は朝食を並べた。
二人でテーブルにつくと「いただきます」と手を合わせる。
「朝から白雪の食事は嬉しいが……」
「正月の間会えないので、その分、です」
「まあいいが……うん、美味しいな、やっぱり」
「ありがとうございます」
とりあえず食事を終えると、すぐ片付けを済ませてしまう。
「しかし朝から来てるが、この後はどうするんだ?」
「え? えーと……どうしましょうか?」
「おい」
「朝ごはんとお昼ごはんのことしか考えてなかったです……」
本当に何も考えていなかった。
帰省の準備などは全部終わっているので、今日に関しては本当にやることがない。
なので朝から和樹の家に来てみたが、ここに来てもやることがないのは同じだった。
時計を見ると、時間はまだ八時になるころだ。
「和樹さんは普段何もすることがない時って、どうしているんですか?」
「……本読んだりネット見てたり、あとはゲームしたり、だなぁ。あとは漫然とテレビ見てるか」
年末のテレビといえば定番の歌番組があるが、あれが始まるのは夜の六時。
まだあと十時間くらいある。
これで正月も帰省しないのであれば、お節料理を作るという作業もあるのだが、白雪は帰省するし和樹も今年は帰省してしまうので、作り置いていく意味すらない。
ついでに言うと冬休みの宿題はとっくに終わらせている。
これで恋人同士ならまた別のことがあるのだろうが――その先は考えを放棄する。
いずれにせよそういうことはないので、とりあえず和樹に丸投げすることにした。
「今日についてはどうされるつもりだったんでしょう?」
「ほぼノーアイデアだな……こんな朝早くから白雪が来るのは想定外だし。出かけるというのもなくもないが……白雪、行きたいところとかあるか?」
まるっと投げ返された。
「え。えっと……」
すぐに思いつかない。
お昼ごはんの準備はしてあるので、出かけるとしてもお昼には帰ってくる必要がある。午前中に出るならあと三、四時間程度。
せっかく和樹から誘ってくれたのであれば、どこかに――と思ったところで、窓の外を見て『それ』が目に入った。
「あの、あそこはダメでしょうか?」
「あそこ? ……ああ、あれか」
指さしたのは窓から見える高層建築。
日本でもトップクラスに高いとされる超高層ビル、ランドマークタワーだ。
「行ったこと……ないか」
「和樹さんはあるのですか?」
「誠達と遊びに行ったことなら何回かある。展望フロアは一回だけかな。行ったことがないなら、悪くないな。行って帰ってきたらちょうどお昼という感じだし。行ってみるか」
「はい、是非」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「すごい……ずっと遠くまで見えます」
「あまりはしゃぐなよ。気持ちは分かるが」
ランドマークタワーの展望フロア。
二百七十メートル以上の高さからの景色はまさに絶景だった。
いつもの駅や普段地上から見上げるビル群が、すべて眼下に見える。
地上を歩く人は目を凝らさないとまず見えない。
「あ、和樹さん。私たちのマンションも見えますよ」
「そりゃあ、あちらからここが見えるからな。もっとも、こういう角度で全景を見ることはないか」
低層マンションとはいえ、かなり大きいと思っていたが、こうやってみると小さく見える。
その先に目を転じると、学校だと思われるものも見つけられた。
「なんか不思議ですね。普段見上げている建物を見下ろしているって」
「ここより高い建物なんてほとんどないからなぁ」
多少高い建物から下を見下ろしても感覚が違うという事はないのだが、ここまで高いと全然感覚が違ってきて、むしろ現実感がない。
あるいは、もっと高いとされるスカイツリーだとどうなのだろう、と思えてくる。
ひとしきり楽しんだあと、昼頃には帰宅した。
途中、スーパーで夜のおそばの付け合わせを買う。
去年とは違い和樹も帰省するので、夜ご飯は蕎麦を茹でる以外は買ったもので済ませるのだ。
昼食は予定していた通り、冷蔵庫の最後の食材を使い切ってチャーハンや回鍋肉、卵スープなどの中華風。
それの片付けが終わった後はさすがに出かける気にならず――白雪は早めのお風呂に入るために一度帰宅して戻ってきたが、あとは結局ゲームをして過ごしていた。
ゲームをしていると時間は結構あっさりと過ぎていて、気付けば日も暮れ、夜ご飯の時間になっていた。
「今年一年、ありがとうございました。和樹さん」
「こちらこそ、だな。美味しい食事をいつもありがとう」
テレビはおなじみの歌番組が流れている。
蕎麦も食べ終わったので、二人ともソファに座ってでテレビを見ていた。
「色々ご迷惑をおかけしたところもありましたが……楽しい一年でした」
「まあ……うん、色々あったな」
正月早々にこの家に転がり込んで、その勢いで父のように慕ってることを告白し、以後名前で呼び合うようになった。
お互いの誕生日も祝ったり、お互いの友人にお互いのことが知られたり。
そもそもお互いの友人が姉妹だったのには驚いたものだ。
一緒に花火も見たし海にも行った。
文化祭に来てくれた時は、少しトラブルもあったが楽しかった。
高校で一人暮らしを始めた頃に、今の環境は想像できなかった。
こんなに楽しいと思えた一年は、玖条家に来てから間違いなく初めてだ。
来年――すぐに来るが――は、どういう年になるのだろう、という期待もある。
ただ同時に、この生活に終わりが見えているのは確実だ。
(叶うなら――ずっとこのまま――)
いつまでもこの関係を続けられたらどれだけいいだろうと思うが、それは絶対にありえないし許されない。
高校卒業は近付き続けている。
ただ、それでも――。
テレビが、年が明けたことを知らせた。
それと同時に白雪が和樹を見ると、和樹も白雪に視線を合わせてくれていた。
「明けましておめでとうございます、和樹さん」
「明けましておめでとう、白雪」
願わくば、最後まで。
白雪はその最後の時まで、この関係が続くことを、切に願うのだった。