第59話 和樹の誕生日
『明後日の日曜日、午後六時にうちに来てください』
そう、白雪からメッセージがあったのは、彼女が修学旅行から帰って、和樹の家で食事をしたその日の夜だった。
食事を終えて彼女が帰る際に、明日からの三連休の予定を聞かれたので、空いているのは日曜日か月曜日、と答えた後にこの連絡だ。
用件はある程度推測はついている。
修学旅行に行く前に、誕生日を当日に祝えないことを残念がっていた白雪だ。
おそらくそれをやってくれるのだろうと思うと、少しこそばゆいが、嬉しくもある。
今回に関してはただ祝われる側ではあるのだが、招待される以上なにかこちらからも返すものがないか、という事で悩むことになった。
そういうわけで和樹は、人が多いというのを覚悟して駅前をうろついた後、ほぼ指定の時間に白雪の家の前にいた。
ここに来るのは四度目、家に入るのは三度目だ。
相変わらずというか、マンションにも関わらず、隣の家の扉までの距離が軽く十メートル以上ある。本当にマンションかと思いたくなってしまう。
インターホンを鳴らすと、ほとんどタイムラグなしに解錠の音が続き、扉が開いた。
「いらっしゃい、和樹さん」
「……いや、早過ぎだろ。待ち伏せでもしてたのか」
「時間ほぼちょうどに来てくれないかなと思って、ちょうど玄関に来たので……」
少し恥ずかしそうにしているのが、悪戯が看破されて照れている子供の様で可愛く思えてしまった。
「なるほど……では、お邪魔しても?」
「はい、もちろんです」
花火大会の時と時間的にはほぼ同じだが、あの時は入らなかったダイニングに案内され――思わず感嘆の声を上げてしまった。
「すごいな、これは」
かつてのクリスマス以上のご馳走が並んでいたのである。
「ちょっと頑張ってみました」
メインはハンバーグだが、それがハンバーグシチューになっている。
サラダはレタスなどの葉物をメインとしたサラダに、中にはマリネされた魚介が入っていた。
色とりどりのテリーヌが複数、きれいにカットされて並んでいる。
ライスはおそらくバターライスだろう。
それに洋風の卵焼きとキノコとブロッコリーのアヒージョ。
分量はどれも控えめだが、それは二人で食べきれる量を計算してのことであることは明らかだ。
「デザートもあります。期待しててください」
「白雪の料理の技量は疑ってないよ。しかし本当に美味しそうだ」
「さ、席にどうぞ」
促されてダイニングテーブルに座る。
白雪はそれを見てから、コップを持ってきた。
「本当はお酒があるといいのですが……」
「白雪が飲めないし買えないしな。そこは仕方ないんだろうし、俺も一人で飲むという気にはならないしな。夏の花火は……ともかく。それにこれだけの料理なら、お茶で十分だ」
「と、おっしゃるかと思ってお茶は準備しています。どうぞ」
出されたのは、香り高いお茶だった。
準備が終わったので、二人で椅子に座る。
「お誕生日、おめでとうございます、和樹さん」
「ありがとう。なんか……こそばゆいが」
「私だってちょっと、二月はそういう気分でしたよ?」
そういって白雪が笑う。
「しかし……すごいな、この家。ダイニングだけでこの広さか」
ダイニングキッチンですらない。
完全に独立した食堂だ。
「一応、仕切りを外すとダイニングキッチンみたいには……なるのですが、そもそも広すぎて微妙なのは否めません」
よく見ると、キッチンとの間の壁がずれるようになっている。
一応、ダイニングキッチン風にもできるという事らしい。
ダイニングテーブルも、六人は悠々と座れそうなサイズだ。
「正直、あまりに不便なので、普段はキッチンに小さいテーブル置いて、そこで食事してますから」
「広すぎても逆に使いにくいよな……よく維持していると感心するが」
自分の家でも、一人暮らしにはやや過剰な広さで、掃除などは行き届かないことも多い。
ましてこんな広い家、というかおそらく和樹の家の軽く五倍はありそうな広さを、一人で維持しているのは並大抵の努力ではないだろう。
「いえ……私も全部の部屋をちゃんと掃除してるかというと……さすがに。自分が使う寝室、リビングやダイニング、キッチンやお風呂やお手洗いはちゃんとやってますが、月に一回も入ることのない部屋とかあるので……」
「……なんかすごすぎるな」
「あ、さすがに大掃除の際にはちゃんと掃除しましたよ。でもそれだけですね、さすがに」
事実上開かずの間となってる場所があるらしい。
「ああ、そういえば、来客専用のベッドルームとトイレとお風呂が別にあるんですよ。大掃除以外では入ったことないですね……そこ」
文字通りの開かずの間もあったようだ。
一戸建てなら手洗いが二つくらいは普通だが、マンションで手洗いどころか風呂まで二つとか、聞いたことがない。
さすがに桁が違い過ぎた。
幸いというか、このマンションは全館空調の上、換気システムを完備しているので、おそらく空気が澱むという事はないと思われるが、それにしても大変だろうと思う。
「改めて白雪がすごいと分かるな……ここだって掃除が行き届いているし」
「今日は特に念入りには掃除しましたけど……でも、ある程度きれいに維持できているのは、紗江さんのおかげでもありますね」
「さえさん?」
「ああ……玖条家で私の身の回りのお世話をしてくれていた、メイドさんです。宇喜田紗江さん。お掃除とお洗濯の手際がすごくて、あの人から色々教えてもらいました」
「その人は一緒にこっちに来なかったのか」
話している限り、少なくともそのメイドは白雪が信頼している気がした。
だとすれば、一緒に来てもよかった気がするが。
「その、紗江さんのお母さんが京都の病院で入院生活なので……こちらに来るのは厳しかったんです。でも、あの人が『一人暮らしするには十分な技量がある』と太鼓判押してくれて、それで私は一人暮らしを始められたので……やっぱり恩人ですね」
「なるほど……その人は今は?」
「本家でメイドを続けてます。帰省した場合は、必ず私についてくれますし」
「少しは気が休まる、というところか?」
「そうですね。玖条家での数少ない、私の味方です」
実家ともいえる場所で味方と言える人がほとんどいない、というのはどういう状況だろう。
ただ、少なくとも正月の様子を見る限り、白雪は玖条家では気が休まることはほとんどないのだろう。
それでも、味方と言える人が一人でもいてくれるのは、和樹としても――家族としても安心できる。
そうしている間に、食事はほぼ終わっていた。
白雪が素早く片付け――手伝おうとしたのはやんわりと拒否された――て、やがてデザートが出てきた。
「季節なので、サツマイモのタルトです。甘さは控えめにしています」
タルトの上に生クリームの層があるタイプだ。
その上に『Happy Birthday』というプレートが乗っていた。
「あ、このプレートだけは買ったものです。自分で作るのは出来なくもないですが、さすがに」
「いや、ケーキは手作りだろう? それでも十分すぎる」
「ロウソク何本立てます? 一応、年齢分用意しましたが……」
思わず吹き出した。
「待て待て。二十五本も立てるつもりか」
「念のため用意だけは。じゃあ、無難に」
白雪はケーキに、均等に四本ほどさして、火を灯す。
そして手拍子と共に、定番の歌を歌い始めた。
これはこれでなかなかに恥ずかしいが止めるわけにもいかないので、それを最後まで聞き――歌が終わると同時に火を吹き消した。
「あらためて。お誕生日おめでとうございます、和樹さん」
「ありがとう。この年になってこんな風に祝ってもらうと、ちょっと照れくさいが」
「私がやってもらったんですから、当然です」
そして、白雪が一度席を外すと、なにやら包みを持ってきた。
「お誕生日プレゼントです。どうぞ」
渡されたのは、少し大きな紙袋だった。
白雪を確認すると頷いたので、その場で開くと――。
「ジャケット……か?」
出てきたのは、紺色の質のよさそうなジャケットだ。
あまり厚手ではないタイプで、通気性も良さそうなので真夏でも使えそうだ。
「はい。和樹さんはスーツを着ることはあまりないですが、結構ジャケットは羽織って出かけられてますし。複数あっても困るものではないですし。手作りも考えましたが、さすがに無理があったので既製品ですが」
ジャケットは楽にフォーマル感を出せる服なので、和樹は結構多用する。
値段は上から下まで色々ある服だが、ちゃんと考えてくれたのか、そこまで高価なものではないようだ。
とはいえ、センスはとてもいいと思えた。
「まず普通の女子高生がジャケットを作ろうという発想がおかしいんだが……できるのか」
「縫製も習わされましたので。あまり好きではなかったですが、一通りは」
古くから言われる家事、炊事掃除洗濯に繕い。それらすべてが高水準というのは、本当にどういう女子高生だと思ってしまう。
そもそもどういう基準でそういった習い事をやっていたのか。おそらくは本人が希望したのではなく、やらされていたのだろうが、それをこなせてしまうのがすごい。
この分だと他にも、和樹がまだ知らない特技は色々ある気がする。
「じゃあ、こちらからも。ささやかなお礼ということで」
「え!? いや、今日は和樹さんの誕生日では」
「いや、白雪の誕生日の時にはお返しもらったしね」
そういって、紙袋を渡す。
「あれはバレンタインだったからで……」
「まあ今回のお礼ってことで」
渡したのはお茶の葉の詰め合わせだ。
「ありがとうございます。嬉しいです」
白雪は 嬉しそうに紙袋の中身を見てから――改めて、和樹に向き直った。
「和樹さん。あらためて、ですが……ありがとうございます」
「いきなりあらためられても……いや、プレゼントに、という意味ではないか」
白雪は、はい、といってさらに言葉を続けた。
「これまでの全てに対して。私をあの時助けていただいたことも、家庭教師をやっていただいたことも。そして私のことを――家族として、常に気遣って下さっていることも。そのすべてに、私は感謝しています」
言葉を切ると、少し言葉を探すようにして――再び口を開いた。
「もし叶うなら、これからもよろしくお願いします。和樹さんができる範囲で、でいいので」
白雪が微笑む。
その顔は、年相応でもあり、あるいはずっと大人びても見えるような笑顔で、一瞬和樹は呆然としてしまった。
危なかった。
広いダイニングテーブルのおかげで、手を伸ばしても白雪には届かない。
もしこれが、手が届く範囲であれば――抱き締めていたかもしれない。
この距離が、その衝動を抑えてくれていた。
「ああ、もちろんだ。これからもよろしくな、白雪」
「――はい」
白雪は、『この先もずっと』とは言わなかった。
そして和樹も、それを言うことはなかった。
この関係は、いつまでも続かない。
それはお互い、分かっていることだったから。
それでもこの時――和樹はこの関係がいつまでも続くことを、自分も白雪も望んでいると感じていた。